4
皇帝レオンハルトから、宮廷厨房の全権を白紙委任(半ば強引に)させるという最強の『稟議書』にサインをもらった翌日。
私は朝から、宮廷内の視察という名目で各部署の様子を観察していた。
目的は一つ。この宮殿で働く「従業員」たちの労働環境と、彼らが普段何を食べているかのリサーチだ。
前世でプロジェクトマネージャー(PM)をしていた経験から言うと、大規模なプロジェクト――今回は「宮廷の食文化改革」――を成功させるには、トップ(皇帝)の承認だけでは足りない。現場で実際に動くスタッフたちの心(と胃袋)を掌握し、彼らを味方につけることこそが、最も強固な地盤となるのだ。
廊下を歩くメイドたちの顔色は総じて悪く、足取りも重い。
中庭で剣の素振りをしている近衛騎士たちも、どこか覇気がなく、休憩時間になると疲労困憊でへたり込んでいる。
「……なるほど。これが『劣悪な福利厚生』がもたらす士気低下ね」
昨日、厨房の片隅にあった「下働き用」の食材庫を見て、私は絶句した。
皇帝や高位貴族には『炎牛』や『黄金樹の卵』のような最高級食材が使われる一方で、宮廷で働く数百人の使用人や兵士たちに支給されているのは、石のように硬い『黒麦パン』と、野菜のクズを塩だけで煮た味の薄いスープ、そしてたまに支給される、塩漬けにしてカチカチになった保存肉だけだった。
こんな家畜のエサのような食事で、激務である宮廷の仕事が回るわけがない。
会社の支給食縛りで、差し入れが乾パンと水だけだったら、私は迷わずパソコンを窓から投げ捨てていただろう。過酷な労働には、それに見合うだけの「カロリー」と「美味」という報酬が絶対に不可欠なのだ。
「よーし。今日のタスクは決まったわね」
私は腕まくりをして、自分の城となった大厨房へと帰還した。
今日、私がこの宮廷に持ち込むのは、前世の日本で国民食とまで呼ばれ、老若男女の魂を虜にした最強の劇薬。
――そう、『カレーライス』だ。
それも、市販のルーを使ったものではない。
スパイスの調合から始める、本格的なスパイスカレー。前世の私が、休日のストレス発散のために丸一日かけて作っていた、あの悪魔的に食欲をそそる代物だ。
まずはスパイスの調合から。
幸いなことに、この異世界――特に権力と富が集まる宮廷の食材庫には、世界中から集められた希少な香辛料が山のように眠っていた。前の料理長たちは、これらのスパイスの使い方が分からず、ただ見栄えのために飾っていただけらしい。宝の持ち腐れとはこのことだ。そもそも使おうにも皇帝が皇帝だ。美味しかろうが絶対に難癖をつけてきただろう。怖くて使えなかったのだろう。
乳鉢を取り出し、様々な香辛料を放り込んでいく。
鮮やかな黄色で土の香りがする『黄陽の根』(ターメリックにそっくりだ)。
カレーの香りの骨格となる、ツンとした芳香の『炎帝の種』(クミン)。
甘くエキゾチックな香りの『甘香樹の皮』(シナモン)と、『紫星の蕾』(クローブ)。
爽やかな風味を足す『風精の種』(コリアンダー)。
そして、強烈な辛味を持つ『竜息の赤実』(唐辛子)。
匂いと、僅かな味覚で判断しながら、これらをゴリゴリ、ゴリゴリと乳棒で砕き、絶妙な配合で混ぜ合わせていく。
「クミンは多め、カルダモン代わりの『清涼の実』で香りを立たせて……辛味は少し抑え気味にしよう。万人に受けるようにね」
スパイスが砕け、混ざり合うたびに、厨房内にえも言われぬ複雑で魅惑的な香りが立ち込め始める。
次はベース作りだ。
巨大な寸胴鍋を二つ用意する。
一つ目の鍋では、カレーの旨味の土台となるブイヨンをとる。使うのは、昨日大量に見つけた『ロックボア(岩猪)』の骨と、香味野菜の切れ端。これを魔道コンロの強火でガンガン炊き上げ、白濁した濃厚な豚骨風スープをとる。
二つ目の鍋が、カレーの心臓部だ。
鍋底に多めの油とニンニク代わりの『力根』、生姜代わりの『ポカポカ草の根』のみじん切りを入れ、弱火でじっくりと香りを油に移す。
そこへ、昨日私を泣かせた催涙玉ねぎ『ティアーズ・オニオン』を五十個分、みじん切りにして投入する。
「はぁ、ここからが勝負よ……!」
玉ねぎの水分を飛ばしながら、ひたすら炒める。最初は山のようにあった玉ねぎが、徐々にカサを減らし、狐色になり、やがて艶やかな飴色のペースト状へと変わっていく。
この「玉ねぎの脱水とカラメル化」の工程をサボると、カレーに深いコクと甘みは生まれない。腕がパンパンになるが、私は一心不乱に木べらを動かし続けた。
玉ねぎが完璧な飴色になったところで、酸味のアクセントとして『赤雫の果実』(トマトのような酸味と旨味を持つ果実)を潰し入れる。
水分が飛び、ペーストがもったりとしたところで、先ほど調合した「特製スパイス」を一気に投入する。
(ジュワァァァァァッ!!)
スパイスが油の熱に触れた瞬間――爆発的な香りが弾けた。
「……っはぁ〜! これよ、これ!」
スパイシーで、甘く、それでいて胃袋の奥底を直接鷲掴みにするような、暴力的なまでのカレーの香り。
そこへ、一口大に切って表面をこんがりと焼き付けたロックボアの肉(赤身に脂が適度に乗った肩ロース部分)を投入し、横で煮込んでいた濃厚な豚骨風スープを波々と注ぎ込む。
最後に、隠し味として『蜜蜂鳥のハチミツ』と、すりおろした『甘雪林檎』を加え、あとはひたすら煮込むだけだ。
ロックボアの硬い肉が、スパイスと果物の酵素の力でホロホロに崩れるまで、じっくりと火を通していく。
コトコトと鍋が音を立てるたびに、カレーの魔力は厨房を抜け出し、宮殿の廊下へ、中庭へ、そして各部屋へと、まるで目に見えない侵略者のように広がっていった。
◈
「……おい。なんだ、この匂いは」
宮殿の西棟、近衛騎士団の詰め所。
厳しい訓練を終え、汗だくで剣の手入れをしていた騎士団長ジャイルズは、ふと鼻をヒクつかせた。
「団長、俺もさっきから気になってたんですが……腹の底がギュッと鳴るような、嗅いだことのない強烈な匂いが……」
「厨房の方から流れてくるぞ。まさか、敵国の毒ガス攻撃か!?」
「莫迦を言え。こんな、思わず涎が垂れそうになる毒ガスがあるか!」
ジャイルズは立ち上がり、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「……確認に行くぞ。総員、厨房へ向かえ!」
同じ頃、東棟のメイド長室でも。
「このスパイシーで、食欲を刺激する香りは……? 一体誰が、こんな時間から……ああもう、お腹が空いて仕事にならないわ!」
厳格で知られるメイド長のマーサも、書類仕事を放り出して厨房へと足を向けていた。
文官たちも、庭師たちも、皆一様に鼻をヒクヒクさせ、見えない糸に引かれるようにフラフラと厨房のある中庭へと集結しつつあった。
◈
「よし、肉がスプーンで切れるくらいホロホロになったわね。完成!」
寸胴鍋の蓋を開けると、そこには深い黄金色に輝く、とろりとしたルゥが煮え滾っていた。
隣には、巨大な釜で炊き上げた『銀シャリ草(白米)』が山のように控えている。
私が味見用の小皿にカレーをよそい、フーフーと息を吹きかけて味を確かめようとした、その時。
「そこの者! 何をしている!」
バンッ! と厨房の勝手口の扉が開き、甲冑に身を包んだ屈強な騎士たちが雪崩れ込んできた。
先頭に立つのは、鋭い眼光の騎士団長ジャイルズだ。その後ろからは、メイド長のマーサをはじめ、数十人の宮廷スタッフたちが、不安げな、しかし期待に満ちた(飢えた)目を輝かせてこちらを覗き込んでいる。
「あら、いらっしゃい。タイミングばっちりですね」
「貴様、ここで何を煮込んでいる! 宮殿中に異様な香りが立ち込めているぞ。皇帝陛下に何かあれば……!」
「異様とは失礼ですね。これは『カレーライス』という、最高の料理ですよ」
私は平然と答えながら、山積みにした深皿の一つを手に取り、炊きたてのご飯をこんもりと盛り、その上からお玉でたっぷりと特製カレーをかけた。
湯気と共に、スパイスの暴力的な香りが騎士たちの鼻腔を直撃する。
「ぐっ……! な、なんだこの、抗いがたい匂いは……」
ジャイルズがふらりと一歩前に出た。彼のお腹から「ギュルルルルル!」という、騎士団長にあるまじき大音量の腹の虫が鳴り響く。
「皆さん、日々のお仕事お疲れ様です。私は昨日からこの厨房の責任者を任されました、ルミナと申します」
私は集まった宮廷スタッフたちに向かって、よく通る声で宣言した。
「この宮殿の食事環境の悪さは把握しています。過酷な労働に見合わない食事では、良い仕事などできるはずがありません。そこで、本日より『賄い(まかない)制度』を導入いたします!」
「ま、まかない……?」
「はい。ここで働く従業員の皆さんのための、特別で美味しい食事です。記念すべき第一回目の本日は、この『特製ロックボアのカレーライス』を、皆さんに無料で振る舞います!」
その瞬間、ざわめきが起きた。
「無料!?」「平民の俺たちが、この厨房の料理を食っていいのか!?」
「団長さん、毒味も兼ねて、いかがですか?」
私は微笑みながら、ジャイルズに熱々のカレー皿とスプーンを差し出した。
ジャイルズはゴクリと喉を鳴らし、震える手で皿を受け取った。
「し、仕方ないな。陛下の安全のためだ……私が一口食べて、安全を証明しよう」
言い訳がましく呟きながら、彼はスプーンでご飯とルゥ、そしてゴロリと大きな肉の塊を掬い上げ、口へと運んだ。
咀嚼する。
「……ッ!!?」
ジャイルズの屈強な体が、雷に打たれたようにビクンと跳ねた。
「だ、団長!? 大丈夫ですか! やはり毒が!?」
部下の騎士たちが剣の柄に手をかけたが、ジャイルズはそれを片手で制止した。




