傲慢皇帝の胃袋完全掌握計画
翌朝。私は宮殿の片隅にある、下働き用の簡素な部屋で目を覚ました。
硬いベッドに薄い毛布。前世のタワーマンションの寝心地とは比べるべくもないが、不思議と体は羽のように軽かった。
「……よく寝た。深夜の叩き起こしコールがない朝なんて、最高じゃない」
前世では、リリース直前のシステムトラブルで深夜三時に叩き起こされるのが日常茶飯事だった。それに比べれば、小鳥のさえずりで目覚める朝など天国そのものだ。
支給されたメイド服……ではなく、昨日厨房で見つけた見習いコック用の白い調理服に袖を通す。気弱なルミナだった頃は下を向いてばかりで姿勢も悪かったが、背筋をピンと伸ばして鏡の前に立つと、我ながら凛とした良い表情になっている。
「さて、今日のタスク(朝食)を片付けに行きますか」
朝日に照らされる広大な宮殿の廊下を抜け、私の新しい戦場である大厨房へと向かう。
時刻は朝の五時。厨房にはまだ誰もいない。
昨日、皇帝陛下(偏食クレーマー)にカツ丼を叩きつけた後、私はこの厨房の惨状を確認して頭を抱えていた。
逃げ出した料理長たちは、よほど慌てていたのだろう。最高級の食材が無造作に放り出され、調理器具は出しっぱなし、導線はぐちゃぐちゃ。プロジェクトマネージャーとして、この「整理整頓されていない職場環境」は絶対に許せなかった。
「まずは『5S』の徹底ね。整理・整頓・清掃・清潔・躾……は私が自分にすればいいか」
腕まくりをして、私は一人で大掃除と在庫管理を始めた。
昨日の夜のうちにある程度は片付けておいたが、改めて食材庫(氷結の魔石ルーム)をチェックする。
「お、いいものがあるじゃない」
目に留まったのは『清流の銀鮭』。見た目は立派な鮭だが、鱗がうっすらと銀色に光り、身は鮮やかなサーモンピンク。脂の乗りも申し分ない。
そして、前世の和食に欠かせない大豆製品の代用品も、昨日の厨房探索で見つけていた。
『白霧の豆』という、すり潰して煮立ててから『海泡石』の粉(にがりと同成分らしい)を入れると固まる不思議な豆だ。これで即席の豆腐を作っておいた。
味噌は、昨日醤油代わりに使った『発酵豆の搾り汁』の、搾る前のペーストがまさにそれだった。味見をすると、八丁味噌に近いコクと深みがある。
「よし、完璧。今日の朝食は『至高の和定食』で決まりね」
メニューは、銀鮭の塩焼き、白霧豆腐と海草の味噌汁、出汁巻き卵、そして炊きたての銀シャリ草だ。
昨日が暴力的なまでのカロリーと旨味(カツ丼)だったからこそ、今日の朝は疲れた胃腸を優しく、しかし確実に満足させる構成にする。これが「ギャップ萌え」ならぬ「ギャップ食い」の基本戦術だ。
まずは『銀シャリ草』の炊飯から。
昨日見つけた分厚い鉄鍋を使う。米(銀シャリ草)を研ぎ、適量の水に浸しておく。この浸水時間が米の甘みを引き出す重要な工程だ。
火にかけ、「はじめチョロチョロ、なんかパッパ、赤子いなくても蓋とるな」の鉄則通りに火力を調整する。魔道コンロのおかげで火加減の微調整が簡単なのがありがたい。
次に、銀鮭の切り身に塩を振り、余分な水分と臭みを抜く。
その間に味噌汁の出汁をとる。昨日の『海竜の干物』と『森の精霊の傘』の合わせ出汁だ。鍋から立ち上る芳醇な香りに、思わずふうっと息が漏れる。
沸騰する直前で火を弱め、賽の目に切った白霧豆腐と、『緑波草』(わかめにそっくりな海草)を投入。最後に、発酵豆のペースト(味噌)を風味を飛ばさないようにそっと溶き入れる。
そして、朝定食の花形である『出汁巻き卵』だ。
ボウルに『黄金樹の卵』をたっぷりと割り入れ、そこに濃いめに引いた合わせ出汁、ほんの少しの甘味(蜜蜂鳥のハチミツ)、そして塩を加えて菜箸で切るように混ぜる。
前世の記憶を頼りに厨房の奥底から見つけ出した、奇跡的に四角い形をした銅製のフライパン(おそらく本来はパウンドケーキか何かを焼く型だろう)を火にかける。
油を薄く引き、卵液をジュワッと流し込む。
大きな気泡を菜箸の先で素早く潰し、手首のスナップを利かせて奥から手前へ、パタン、パタンと卵を巻き込んでいく。
(ジュゥゥゥ……ッ)
出汁をたっぷりと含んだ卵は、非常に繊細で崩れやすい。だが、私は前世で休日のたびにこの出汁巻き卵の練習に明け暮れていた。仕事のストレスを、完璧な形の出汁巻きを作ることで発散していたのだ。
何層にも重なった黄金色の卵焼きが完成する。巻き簾がないため、清潔な布巾で包んで形を整え、粗熱を取る。
最後に、塩抜きした銀鮭を網でこんがりと焼き上げる。
皮にはパリッと焦げ目をつけ、身はふっくらと。脂が炭火に落ちて、ジューッと食欲を刺激する煙が立ち上る。
炊き上がった銀シャリ草の鍋の蓋を開けると、カニ穴がポコポコと開いた、ツヤツヤと輝く真っ白なご飯が顔を出した。
「完璧なタイムマネジメント」
全ての料理が一番美味しい温度で出揃うように計算し尽くした工程。
美しい漆塗りのような木のお盆に、ご飯、味噌汁、香ばしい鮭、そして黄色が眩しい出汁巻き卵を配置する。
「ルミナ、準備はできているか!?」
慌ただしい足音と共に厨房に飛び込んできたのは、昨日に引き続き目の下にクマを作った側近のクラウス様だった。
「はい、ちょうど完成したところです」
「おお……今日もまた、見たことのない奇妙な料理だが……不思議と良い匂いがするな」
「『至高の和定食』です。さあ、陛下をお待たせしては大変ですから、すぐにお持ちしましょう」
◈
ダイニングルームの扉が開く。
上座には、昨日と同じく不機嫌そうなオーラを纏った若き皇帝、レオンハルト様が座っていた。
プラチナブロンドの髪は完璧に整えられているが、心なしか昨日のような殺気立ってピリピリした空気は薄らいでいるように見える。
ただ、その貧乏ゆすりをする長い脚と、チラチラと扉の方へ向かう視線から、彼が「まだか」と心待ちにしていたことはバレバレだった。
(素直じゃないわね。犬なら尻尾がちぎれるくらい振ってる状態じゃない)
私は恭しく頭を下げ、お盆をレオンハルト様の目の前に置いた。
「本日の朝食、『至高の和定食』にございます」
レオンハルトは腕を組み、怪訝な顔で並べられた器を覗き込んだ。
「……なんだこれは。昨日のような迫力がないではないか」
「朝食ですから。胃腸を目覚めさせ、一日の活力を優しく補うためのメニューです」
「草の実に、魚の塩焼き。それに、この黒い濁ったスープはなんだ。泥水か? 私に泥水を飲めと言うのだな?」
「それは『味噌汁』です。泥水ではありません。発酵豆のペーストを出汁で溶いた、栄養満点のスープです」
レオンハルトは不満げに鼻を鳴らした。
「ふん、質素すぎる。私が求めているのは、皇帝にふさわしい美味だ。こんな平民が食べるような地味な食事で、私の舌が満足するとでも……」
文句を言いながらも、彼の手はすでに銀の匙ではなく、私が用意した『お箸』の代わりの二本の細い木の棒(彼のために特別に細工した高級木材のもの)へと伸びていた。昨日のカツ丼で、私の料理の味が「見た目で判断できない」ことを彼はすでに学習しているのだ。まったく素直ではない。
「その二本の棒で、こうやって挟んでお召し上がりください」
「わ、わかっている! 言われずともそのくらい!」
レオンハルトは少し不器用な手つきで箸を持ち、まずは文句を言っていた『味噌汁』の椀に口をつけた。
ズズッ……。
「……っ!」
一口飲んだ瞬間、レオンハルトの肩がビクッと跳ねた。
碧眼が見開かれ、椀を持つ手が止まる。
「……なんだ、この……身体の芯からじんわりと温まるような、深い味わいの泥水は……」
「海竜と森の精霊の傘からとった濃厚な出汁に、発酵豆の旨味と塩気が合わさっているからです。疲れた胃に染み渡るでしょう?」




