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包丁が指を掠めた瞬間、パチン、と脳内で何かが弾けた。
「……痛っ」
指先から滲む赤い血を見た途端、凄まじい情報の濁流が脳内に流れ込んできた。
エクセルの果てしない表、深夜の静まり返ったオフィス、鳴り止まないチャットツールの通知音。
『進捗どうなってますか?』
『クライアントから仕様変更入りました』
『明日の朝イチまでに修正頼むわ』
私は佐々木美咲。38歳のIT企業勤務、プロジェクトマネージャー。独身。
趣味は、週末にスパイスを独自に調合して作る本格カレーや、寸胴鍋で豚骨から丸三日煮込むラーメンのスープ作り。仕事の猛烈なストレスを、休日の「料理」という名の実験に全てぶつける、いわゆる料理狂いの女だった。
しかし、連日の徹夜作業とコーヒーの過剰摂取、そして度重なるクレーム対応が心臓に過度に負担をかけたのだろう。会社のデスクでキーボードを叩きながら、ふっと意識が途切れた。
たぶん、急性カフェイン中毒か何かでぽっくり逝ったのだろう。
「……思い出した。私、前世の記憶があるわ」
ぽつりと呟いた声は、徹夜明けの掠れたアラサーの声ではなく、若い娘のものだった。
そう、今の私は佐々木美咲ではない。ルミナ・アシュレイ。20歳。
ここは現代日本ではなく、魔法と剣が存在し、貴族が平民を支配する異世界――グランツ帝国。
記憶が鮮明に統合されていく。ルミナとしての人生が、走馬灯のように脳内を駆け巡った。
ルミナは、帝都でそこそこ名の知れたレストラン『星屑のフライパン』のオーナーシェフの娘だった。
父は腕の立つ素晴らしい料理人だったが、一年前に流行り病であっさり他界してしまった。残された一人娘のルミナは、父の遺志を継いで店を切り盛りしようと奮闘した。
しかし、ルミナは絶望的に「気弱」で「押しに弱い」性格だった。
『ルミナちゃん、親父さんのツケ、今月もちょっと待ってよ〜。金が入ったら必ず払うからさ』
『あ、はい……わかりました……』
常連客の図々しい要求を断りきれず、ツケ払いは膨らむ一方。当然、食材の仕入れ代金も払えなくなり、あっという間に借金まみれになった。ついには強面の借金取りに店を取り上げられ、文字通り無一文で路頭に迷う羽目になったのだ。
そんなお人好しでどん底の私を見かねて、父の昔からの知人が紹介してくれた就職先。それが、ここ――帝都の中心にそびえ立つ、壮麗な宮殿の厨房だった。
下働きの『芋剥き係』として採用されたのが、つい三日前のこと。
「なるほど。前世の私なら絶対にツケなんて許さないけど……ルミナ(私)は優しすぎたのね」
ため息をつきながら、私は現状を確認する。
現在、私は宮殿の広大な厨房の真ん中に、一人でポツンと立っている。
周りには誰もいない。数十人はいたはずの料理人たちの姿が、忽然と消え失せている。
いや、正確には「殆ど誰もいなくなった」のだ。
「ルミナ、お前しかいない! 頼む、陛下のお食事を作ってくれ!!」
厨房の入り口から顔を出して、悲鳴のような裏返った声で叫んでいるのは、皇帝の側近であるクラウス様だ。金糸の刺繍が入った立派な服を着ているが、目の下には酷いクマができ、髪は振り乱れている。
「はい? 料理長はどうしたんですか?」
「先ほど、陛下のお小言に耐えかねて、フライパンを窓から投げ捨てて馬車で隣国へ逃亡した!」
「副料理長は?」
「昨日の夜、高給を提示した貴族の館に引き抜かれて辞めた!」
「他の部門のシェフたちは?」
「全員、連帯責任で幽閉されるのを恐れて、仮病で寝込んでいる! 今、この巨大な厨房でまともに動けるのは、下働きの君だけなんだ!!」
なんてことだ。クラウス様が頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
無理もない。先代の皇帝が崩御し、若き皇太子レオンハルト様が即位して半年。
この新皇帝は、政治手腕は優れており国民からの支持も厚いらしいが、とにかく「食」に対して異常なほど神経質でうるさかった。
少しでも味が濃ければ「私の舌を麻痺させる気か。暗殺未遂で捕らえよ」、薄ければ「泥水を飲ませる気か。貴様は泥水で育ったのか」、食材の切り方が一ミリでも揃っていなければ「美意識の欠片もない。家畜の餌の方がマシだ」と、容赦ない罵倒を浴びせる。
結果、プライドが高く、腕に覚えのある高名な宮廷料理人たちは、次々と心を折られ、辞表を叩きつけて他国や貴族の元へ去っていったのだ。ルミナのような下働きの平民が簡単に就職できたのも、常に深刻な人手不足だったからだろう。
気弱なルミナのままなら、ここで「私には無理です……」と泣き崩れていただろう。
しかし、今の私の魂は、修羅場をくぐり抜けてきた佐々木美咲だ。
(……理不尽な仕様変更を繰り返すブラック企業の上司や、無茶振りしてくるクライアントに比べれば、ただの偏食クレーマーじゃないの)
逆に、料理狂いだった前世の血が猛烈に騒ぎ始めていた。
過労で死ぬ直前、私は朦朧とする意識の中で「あー、ガッツリした肉料理が作りたい! 香辛料たっぷりで、脳髄に響くようなジャンクなやつ!」と思いながら息絶えたのだ。
今、目の前には帝国中から集められた最高級の食材の山が無駄にある。そして、口うるさく私を止める上司(料理長)は誰もいない。
「クラウス様。私が作っても本当にいいんですね?」
「ああ! 毒さえ入っていなければなんだっていい! 陛下は昨日からまともな食事(皇帝基準)を召し上がっておらず、このままでは憤慨か、あるいは空腹の怒りで外交に傷ができてしまう」
「わかりました。一時間、時間をください」
私は被っていた三角巾を外し、エプロンの紐をキュッと背中で強く結び直した。気弱でオドオドしていたルミナはもういない。
「ここは、私の厨房よ」
さて、何を作ろうか。
巨大な冷蔵庫の役割を果たす『氷結のエレメンタル石』が置かれた食材庫を物色する。
見たこともないファンタジックな食材が並んでいるが、ルミナとしての料理知識があるため、それが何であるか、どう調理すべきかは瞬時に理解できた。
『炎牛のブロック肉』。赤身が強く、適度なサシが入っている。焼くとほんのりスモーキーな香りがする高級牛肉だ。
『涙玉葱』。切ると普通の玉ねぎの十倍涙が出る催涙並みの兵器だが、加熱すると極上の甘味が出る。
『黄金樹の卵』。なぜか樹の根元に巣を作るらしい魔物。殻が黄金色に輝き、黄身がオレンジ色に濃く、コクが桁違いの最高級天然卵。
『太陽の粉』。小麦粉に似ているが、水を吸うとモチモチとした食感になる。前世の嗜好の菓子パンに近いふわり具合。
よし、決めた。
ストレスを抱えた偏食家の若造には、気取った上品なフレンチもどきなど効かない。必要なのは、脳に直接ガツンとくる「暴力的なまでの旨味」と「ジャンクな快感」だ。
作るのは、前世の日本が誇る最強のソウルフード――『極厚カツ丼』だ。
まずは炎牛のブロック肉を、贅沢に厚さ三センチに切り出す。豚肉ではなく牛肉のカツ丼(牛カツ丼)というのも、たまには乙なものだ。皇帝の口に合うかなど知らん。
肉の筋を丁寧に包丁の先で切り、包丁の背で軽く全体を叩いて肉の繊維をほぐし、柔らかくする。
塩と、『シラヌイの黒胡椒』(ピリッとした強い辛味と柑橘系の香りが特徴のスパイス)でしっかりと下味をつける。
次に衣の準備だ。
パン粉に代わるものとして、厨房に残っていた少し硬くなった『白雲パン』をおろし金で削り、粗めのフワフワな生パン粉を作る。
肉に太陽の粉を薄くまぶし、黄金樹の卵を溶いた液にくぐらせ、手作りの生パン粉をたっぷりと押し付けるように衣をつける。
揚げ油の準備。ここには植物性の『オリーブに似た果実の油』と、動物性の『ロックボア(岩のように硬い猪)のラード』がある。
ラードを多めにブレンドすることで、衣に圧倒的な香ばしさとコクをプラスする。
魔法コンロ(ドワーフ製)の火力を調整し、油の温度を中温に設定。菜箸を入れた時の泡の立ち方で、最適な温度を見極める。
(ジュワァァァァァッ!!)
肉を油に投入した瞬間、静まり返った厨房に暴力的なまでに食欲をそそる音が響き渡った。
香ばしいラードの香りと、肉が焼ける匂いが混ざり合い、胃袋を直撃する。
肉が厚いため、じっくりと火を通す。衣が美しいキツネ色になり、肉の中心がうっすらレアになる絶妙なタイミングで油から引き上げる。
網の上で油を切りながら、余熱で中までじんわりと火を通していく。サクサクという衣の音が心地よい。
次はカツ丼の命、タレだ。
和食の要である醤油やみりんは……当然、この世界にあるわけがない。
しかし、ここでルミナの記憶が役立った。
『発酵豆の搾り汁』。これはまさに醤油の代用品だ。少し塩気が尖っているが、深いコクがある。調整すればいける。
甘味には『蜜蜂鳥のハチミツ』を使用する。正直その鳥を見てみたい。
そして出汁。厨房の隅にあった乾物の中から『海竜の干物』(カツオ節風味)と『森の精霊の傘』(干し椎茸に近い旨味)をブレンドして煮出し、濃厚な和風出汁をとる。
小鍋に出汁、発酵豆の搾り汁、ハチミツを入れ、スライスした涙玉葱を投入して火にかける。
玉ねぎが透き通り、タレに甘みが溶け出したところで、先ほどの極厚牛カツを包丁でサクッ、サクッと一口大に切り分け、鍋に入れる。
衣が甘辛いタレを吸い込み、ジュクジュクと食欲をそそる音を立てる。
ここで真打ち、再び黄金樹の卵の出番だ。
ボウルに卵を二個割り入れ、菜箸で軽く数回だけ切るように混ぜる。混ぜすぎないのが、白身と黄身のコントラストを残し、ふんわりと仕上げるコツだ。
沸騰した鍋の中心から外側へ「のの字」を描くように卵液を回し入れる。
半熟の状態で火を止め、蓋をして十秒だけ蒸らす。
炊き立ての『水晶穀』(白米にそっくりな穀物)を深めの美しいどんぶりにたっぷりと盛り、その上に、トロトロの半熟卵と甘辛いタレをまとった極厚牛カツを滑らせるように乗せる。
仕上げに、青味として『香草(ミツバに似たもの)』を散らして完成だ。
「よし、完璧」
水晶穀がなぜか一部で話題か考えると、私のように同じく苦労している先人が既にいるのかもしれない。
そんなことより、立ち上る湯気から香る、甘辛いタレと香ばしい油、そして肉の匂い。
味見をしなくてもわかる。これは絶対に、死ぬほど美味い。
「ル、ルミナ……? そ、それは……一体なんだ?」
いつの間にか厨房に戻ってきていたクラウス様が、鼻をヒクヒクさせながら呆然と私の作った丼を見つめていた。
「陛下のお食事です。さあ、冷めないうちに持っていきましょう」
「そ、そんな、肉と草の実をごちゃ混ぜにしたような平民の食事を陛下に出す気か!? 殺されるぞ!」
「いいから! 味が落ちる前に運びますよ!」
半ば強引に心配するクラウス様を押し切り、私はお盆にどんぶりを乗せて歩き出した。
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豪華絢爛なダイニングルーム。
大理石の床に、天井にはシャンデリア。長いマホガニーのテーブルの奥まった上座に、その人は不機嫌そうに頬杖をついて座っていた。
皇帝レオンハルト・フォン・グランツ。
噂に違わぬ、いや、噂以上の超絶美形だ。輝くようなプラチナブロンドの髪に、切れ長の鋭い碧眼。彫刻のように整った顔立ちは息を呑むほどだが、その眉間には深い皺が刻まれており、周囲には「触れる者皆切り捨てる」ようなピリピリとした凍てつくオーラが漂っている。
「……遅い。私を餓死させるつもりか、無能共め」
氷のように冷たい声が響く。周囲に控えるメイドや文官たちが「ヒィッ」と小さな悲鳴を上げ、ビクッと肩を震わせた。
「も、申し訳ございません、陛下! 料理長が急病で倒れまして、急遽、代わりの者が用意いたしました!」
クラウス様が滝のような冷や汗を流しながら弁明する。(逃げたとは口が裂けても言えないらしい)
私は一切の躊躇なく無言で歩み寄り、ドスッ、とわざと少し音を立てて皇帝の目の前に大きなどんぶりを置いた。
「……なんだこれは。宮廷の食事に、下々の者が使うような無骨な深皿を出すとは」
「『極厚炎牛の卵とじ丼』にございます」
私がどんぶりの蓋をパカッと開けると、閉じ込められていた熱気と、甘辛い醤油風の香りが一気に解放され、皇帝の顔を包み込んだ。
「なっ……!?」
レオンハルトの冷ややかな碧眼が、驚愕に見開かれた。
立ち上る湯気の向こうには、黄金色の半熟卵、飴色に染まった玉ねぎ、そして衣の隙間から覗く、うっすらとピンク色を残した極厚の炎牛の肉。
「げ、下品な匂いだ……。宮廷料理の繊細さや美しさの欠片もない。このような、残飯をごった煮にしたようなものを、この私に食えと言うのか?」
口では激しく文句を言い、顔をしかめながらも、彼の喉仏がゴクリと大きく上下に動くのを私は絶対に見逃さなかった。空腹の限界の体に、このジャンクな匂いは抗えないはずだ。
「繊細さより、今の陛下に必要なのはカロリーと旨味です。文句を言う前に、一口召し上がってからになさっては?」
「……なんだと? カロリー?」
平民の小娘(しかも下働き)の生意気な口答えに、レオンハルトはピクッと眉を吊り上げた。クラウス様が今度こそ泡を吹いて倒れそうになっている。
「いいだろう。毒見は済んでいるな? この私が一口食べて、貴様の首を刎ねる正当な理由を見つけてやろう」
レオンハルトは銀の匙を手に取り、肉と卵、そして下の飯をすくい上げ、親の仇でも見るような険しい顔で渋々といった様子で口に運んだ。
咀嚼。
サクッ、ジュワァァァ……。
一瞬で、レオンハルトの動きがピタリと止まった。
瞳孔が開き、手元の匙が小刻みに震えている。
(フフン、どうよ。前世のブラック企業で疲弊した私と社畜たちの胃袋を幾度となく救ってきた、特製カツ丼の味は)
衣のサクサクとした香ばしさとラードの重厚なコク。そこに絡む、甘辛く濃厚な和風出汁の風味。
炎牛の肉は厚切りなのに驚くほど柔らかく、噛むたびに肉汁がジュワッと溢れ出す。
そして、それらの強い味を優しく包み込み、調和させる黄金樹の卵のまろやかな甘み。
極めつけは、全ての旨味とタレの汁気を吸い込んだ熱々の銀シャリだ。不味いわけがない。
「……っ!」
レオンハルトは二口目を、先ほどよりも大きく掬って無言で口に運んだ。
三口目。四口目。
匙の動きがどんどん加速していく。
「へ、陛下……?」
クラウス様が信じられないものを見る目で呟いた。
普段、小鳥の餌ほどしか食事をとらず、「味が薄い」「食感が気に入らない」と一口食べては皿を床に払い落としていた偏食の皇帝が、一心不乱に丼をかき込んでいるのだ。
カチャカチャカチャッ! と銀の匙が陶器に当たる音が、静かなダイニングルームに響き渡る。
美しい顔にタレが跳ねるのも気にせず、彼は無我夢中で食べ進め、ついには五分も経たないうちに、大きなどんぶりを完全に空にしてしまった。
「ふぅ……」
最後に残った米粒一つまで綺麗に掬い取り、レオンハルトは深く、深く息を吐いた。
その顔には、先ほどまでの刺々しい怒りや殺気はなく、どこか憑き物が落ちたような、恍惚とした満足感が漂っていた。
静寂が支配する部屋。
私は空になったどんぶりを下げるために、お盆へ手を伸ばした。
その動きで、ハッとしたようにレオンハルトが我に返った。
そして、自分が我を忘れて平民の飯をかき込んでしまったことに気づき、みるみるうちに耳の先まで真っ赤に染め上げ、大きな咳払いを一つした。
「……こ、コホン。なんだ、今の粗末な料理は」
「ですから、炎牛の卵とじ丼ですが」
「味が濃すぎる! 下品だ! 宮廷で出す料理ではない! 見た目も美しくないし、第一、肉と野菜と穀物を一つの器に盛るなど、作法への重大な冒涜だ!
流行りの水晶穀やらは……まあこの程度なのか」
出たよ。難癖クレーマー。
前世で、完璧に仕様書通りにシステムを納品したのに「なんかデザインの気分じゃないから一から作り直して」と言ってきたクソクライアントを思い出す。
気弱なルミナならここで「申し訳ございません!」と土下座して泣いていただろう。
しかし、中身は酸いも甘いも噛み分けた三十路のプロジェクトマネージャーだ。理不尽には屈しない。
私はスゥッと息を吸い込み、とびきりの営業スマイルを浮かべて言い放った。
「そうですか。それは大変失礼いたしました。お気に召さなかったのなら仕方ありませんね。一粒残らず綺麗に平らげておいて文句を言われる筋合いはありませんけれど」
「なっ……! き、貴様、皇帝に向かってなんという口の利き方だ!」
「事実を申し上げたまでです。それに見た目が美しくない? 作法への冒涜? 料理は芸術である前に、人を活かすための『食』です。昨日から何も食べず、イライラして周りに当たり散らしている駄々っ子のような陛下には、気取ったフレンチよりも、エネルギーの塊であるこの丼こそがふさわしいと判断いたしました」
「だ、駄々っ子だと!?」
レオンハルトがバンッ! とテーブルを叩いて立ち上がる。
クラウス様や周囲のメイドたちは「ひぃぃっ!」と悲鳴を上げ、とうとう私の首が飛ぶと覚悟し、顔面蒼白になって床に伏せた。
だが私は全く動じず、真っ向から皇帝の怒りに満ちた碧眼を見据えた。
「味が濃くて下品で結構。私は、私が一番美味しいと思うものを作っただけです。そんなに私の料理が気に入らないなら、もう二度と作りません。どうぞ、お好きなように。私をクビにするなり、地下牢に幽閉するなり、好きになさってください」
私は持っていたお盆を脇に抱え、くるりと背を向けた。
「お、おい、待て!」
「なんですか。早く衛兵を呼んで捕縛なりなんなりしてください。私は厨房の片付けがありますので」
「……だ、誰が二度と作るなと言った」
振り返ると、レオンハルトは顔をそっぽに向け、信じられないほど気まずそうな、そして焦ったような表情を浮かべていた。
「え?」
「た、確かに作法には反しているし、下品な味だ。だが……その……」
彼はモゴモゴと言葉を濁し、チラッと空になったどんぶりを見た。
「……悪くは、なかった。あの、液体? ソースか? その味が、妙に後を引くというか……肉も柔らかかったし……」
「タレです」
「ほ、ほお……タレというのか」
(素直に『美味しかったからまた作ってくれ』って言えばいいのに。本当に面倒くさい男ね)
私は心の中で特大のため息をついた。
「……明日の朝食は、もう少し胃に優しいものにしますか?」
私が呆れ半分で尋ねると、レオンハルトはパッと顔を輝かせ、すぐに「コホン」と咳払いをして威厳を取り繕った。
「ふん。貴様がどうしても作りたいと懇願するなら、作らせてやってもいい。だが、次はもっと見た目にも気を配るのだぞ! 平民よ」
「はいはい、承知いたしました、陛下」
私は肩をすくめ、小さく笑った。
こうして、借金取りに追われて行き倒れ同然だった私は、一膳の「カツ丼」で、帝国で最も気難しく、最も権力を持つ男の胃袋を完全に人質に取ることに成功したのだった。
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皿洗い中。
「おい、明日の朝食には何が出るんだ? 今すぐメニューを提出しろ!」
「まだ決めてません。明日の朝の私の気分次第です」
「き、貴様! 私の食事をなんだと思っている!」
「文句があるなら他の人に頼んでください」
「……く、くそっ、わかった! 好きにしろ!」
どうやら、私の異世界での新しい職場は、前世のブラック企業よりは少しだけやりがいがありそうだ。
背後で響く皇帝の文句を心地よい環境音に、私は明日の朝食の献立――出汁巻き卵と極上味噌汁、それに焼き魚の和定食――などなど思いを巡らせながら、意気揚々と自分の城(部屋)へと戻っていった。




