第5節:塩漬けの罠(ソルティング・トラップ)
夜の帳が下りた岩山の一角。
そこには、期待に鼻息を荒くする子爵と、凛とした空気を纏う一人の女がいた。
|エレーナ・フロスト《Elena Frost》。
今宵の彼女は、隣国の王室からも全幅の信頼を寄せられる伝説の鉱物鑑定士だ。
彼女の纏う深い紺青のドレスは、現代の色彩心理学において「知性と権威」を無意識に植え付ける。
彼女が扇子を揺らすたび、子爵の瞳孔は獲物を前にした獣のように開いていった。
「閣下、ご覧なさい。この層状の岩肌に眠る、沈黙の鼓動を」
エレーナが優雅に指し示した先――暗い洞窟の奥で、突如として壁面が淡い黄金色の光を放ち始めた。
「な、なんだこれは……! 岩が、岩が光っているのか!?」
「これは地質学的な突然変異……。地脈に流れる魔力が触媒となり、黄金が熟成される稀少な現象ですわ。王室へ報告すれば、閣下の地位は伯爵、いえ公爵にすら届き得ることでしょう」
子爵が震える手で光る岩に触れる。
それはシオンが調合した、特定の波長で発光する蛍光物質と、ニコが岩の隙間に仕込んだ潜望鏡による光の屈折が生み出した「偽の奇跡」だ。
だが、強欲という名のフィルターを通した子爵の目には、それが本物以上に輝いて見えていた。
そこへ、背後から影のようにアレクが進み出た。
彼は「投資の専門家」として、あえて眉をひそめて苦言を呈する。
「……閣下、これは素晴らしい。ですが、少々問題がございます」
「何だ、アレク。この期に及んで不吉なことを言うな!」
「いえ、この鉱山の権利状況です。現在、権利の多くは村人たちへの『配当』という形で分散されている。このまま王室へ報告すれば、功績の何割かはあの卑賎な民草に流れることになります。王室との契約を最適化するには、権利関係を完全にクリーンにする必要がある」
アレクの言葉は、子爵のサンクコストバイアスを激しく刺激した。すでに鑑定士を招き、期待を膨らませた彼にとって、いまさら引き返す選択肢はない。
「つまり……どうすればいいと言うのだ」
「簡単です。閣下が私財を投じ、村人たちから権利をすべて買い戻すのです。彼らは目先の金に飢えています。今、安値で買い叩いておけば、後の莫大な利益と爵位は、すべて閣下の独占となります」
子爵の脳内では、狂ったような期待値の計算が高速回転していた。
村人から奪った端金、そして逃走用に隠し持っていた全財産。
それらをすべて投じれば、手元には「黄金の山」と「公爵の椅子」が残る。
彼は自ら、アレクが用意した心理的な行き止まりへと猛スピードで駆け込んでいった。
「よし、すぐに手配しろ! 村の代表どもを集めろ。私が直々に『救済』として、権利を買い取ってやる!」
子爵の狂喜乱舞する姿を、エレーナは扇子の陰で冷たく見つめた。アレクもまた、無表情のまま頷く。
一時間後。
子爵邸の広間で、大量の契約書が並べられた。
子爵は、自分の逃走資金すら惜しまず、村人(に変装したニコたち)が差し出す権利書に次々と署名し、現金を吐き出していく。
「これで、すべては私のものだ……。黄金も、名声も、この世界のすべてが私の足元にひれ伏すのだ!」
狂ったように笑いながら、子爵は最後の署名を終えた。彼が手に入れたのは、シオンが計算した「二十八日後に崩壊する詐欺の負債」のすべてと、価値のない岩山の所有権だ。
対して、アレクたちの手元には、子爵が隠し持っていた莫大なキャッシュが残った。
「契約成立ですね、閣下。……これで、すべての変数が揃いました」
アレクの言葉の真意に、子爵が気づくことはない。
彼はただ、自分が築き上げた「黄金の夢」という名の、底なしの沼に沈んでいくことさえ、最高の名誉だと信じ込んでいた。




