第4節:破綻の予測モデル(フォーキャスト・モデル)
隠れ家のテーブルに広げられた、ニコが命懸けで持ち帰った裏帳簿の束。
シオンはそれを一瞥すると、興味なさげに鼻先を鳴らした。
「……退屈ね。変数が少なすぎて、計算するまでもないわ」
彼女は現代において、一秒間に数億回のアルゴリズムが交錯する高頻度取引の世界で、市場の深淵を解析していたデータサイエンティストだ。
天候、政治、人々の些細な感情が複雑に絡み合うマクロ経済の荒波に比べれば、この村の汚れた帳簿など、子供が書いた拙い数列表に等しい。
「シオン、始めてくれ。この世界の住人には見えない『死の足音』を、可視化するんだ」
アレクの促しに、彼女は羽ペンを走らせる。
その動きは機械のように正確で、淀みがない。
「帳簿上の負債は幾何級数的に増殖しているわ。でも、子爵が配っている『偽の配当金』の分散が、昨夜から急激に偏り始めている。……アレク、わかる?」
「ああ。身内への資金移動を始めたか」
「その通り。彼は標準偏差から外れた異常値を意図的に作っている。村の収穫時期に合わせた資金流入を最後に、すべての負債を村人に押し付けて消える気よ。……この世界の経済は単純すぎて、カオス理論を適用する価値さえないわ」
シオンは一枚の紙に、美しくも残酷な一本の放物線を描き出した。
「見て。これが子爵の寿命よ。……収束する先は二十八日後。そこがこの詐欺の終焉」
「二十八日後か。収穫祭の直後だな。一番金が集まるタイミングだ」
アレクが顎をさすりながら、シオンが描いた図を指先でなぞる。
「つまりこういうことか。子爵は、空っぽの金庫を埋めるために、最後の一ヶ月で村の全財産を『投資』という名目で飲み込み、二十九日目の朝には、跡形もなく消える。……数学的に、それは必然なんだな?」
「ええ。重力が物体を地面に叩きつけるように、この数式もまた、子爵を破滅という地面に叩きつける。……奴は自分が二十八日後に死ぬことすら、まだ計算できていないけれど」
シオンは毒づきながら、羽ペンを投げ出した。
彼女にとって、この不完全な世界で正解を導き出すことは、呼吸をするよりも容易で、そして空虚な作業だった。
だが、アレクの瞳には、冷徹な実行力の火が灯っていた。
「二十八日。十分な猶予だ。奴がその日に逃げるつもりなら、我々が用意する『最高の出口』へ誘導してやればいい」
「出口? あんな強欲な豚に、逃げ道なんて与えるの?」
シオンが怪訝そうに眉をひそめる。
アレクは不敵に笑い、隠れ家の奥で衣装を整えているエレーナを振り返った。
「ああ。奴が自分の命日を『人生最高の日』だと錯覚するようにね。……最後に巨大な夢を見せて、天国から地面に叩き落とすのが、我々の提供する付加価値だ」
アレクの言葉に、シオンもまた、皮肉な笑みを浮かべた。
「……ターゲットは、自分が死ぬ日すら計算できていない。なら、その最後の日を、私たちが最高に華やかなものにしてあげましょうか」
解析は終わった。
アルキメデスの「眼」が捉えたのは、逃れようのない破滅の座標。
次なる支点は、子爵の脳内に「黄金の幻影」を焼き付ける、最高に華麗な詐欺師の舞台だ。




