第3節:侵入の脆弱性(ペネトレーション・テスト)
月明かりさえ届かない、子爵邸の裏手。
ニコは漆黒の作業着に身を包み、高さ三メートルの石壁を前に、小型の分度器を覗き込んでいた。
「衛兵の歩幅は七十センチ、三名による巡回の周期は五分四十秒。足音の周波数からして、北側の兵は左膝を痛めてる。……その一秒の遅れが、僕にとっては広大な帯域に見えるよ」
ニコは独り呟くと、現代のサスペンション鋼を鍛え直した自作の鉤縄を放った。
石の継ぎ目に吸い付くように掛かったそれは、全く音を立てない。
彼は壁面の摩擦係数を瞬時に計算し、重心移動だけで重力を無視するように壁を駆け上がった。
屋敷の二階、子爵の執務室の窓。
そこには、宮廷魔導士が施したという「警告の結界」が不可視の膜を張っていた。
ニコは懐から、磨き上げた凹面鏡とプリズムを組み合わせた自作の潜望鏡を取り出す。
「魔法の防壁なんて、パッチの当たっていない古いOSと同じだ。物理的な接触を検知するだけの論理構造なら、特定の波長の光を干渉させるだけで迂回できる」
ニコは精密な手つきでプリズムを調整し、結界の共鳴波を中和。
指先一つ触れずに窓の鍵へと到達した。
取り出したのは、厚さ数ミリの積層鋼で作られた万能鍵。
彼は鍵穴に耳を寄せるのではなく、指先に伝わる微振動を読み取った。
「……カチリ。これで認証承認だ」
音もなく開いた窓から滑り込み、ニコは巨大な机の奥に隠された隠し金庫と対峙した。
金庫は重厚な鋼鉄製で、三つの回転盤が複雑に組み合わされている。
だが、ニコは焦らない。
彼は現代の聴診器を模した集音装置を金庫の腹に当て、ダイヤルをゆっくりと回した。
「異世界の職人は、素材の剛性に頼りすぎる。どれほど頑丈な鋼鉄でも、機械的な構造を持つ以上、内部の遊びは消せない」
ダイヤルが噛み合うわずかな振動を、ニコの指先がデジタル信号のように正確に捉えていく。
「一番、左に二十二度。二番、右に六十四度。最後は――物理学の勝利だ」
重厚な金属音が鳴り、金庫の扉がその重みを失ったように開いた。
中には、村人たちから巻き上げた金貨と共に、子爵がひた隠しにしてきた『裏帳簿』が収められていた。
ニコは手際よく帳簿を広げ、反射鏡で増幅した微かな光の下で、この世界では値打ちものの超薄膜の転写紙を滑らせた。
「さあ、この世界の脆弱性を全部書き出したよ、アレク。魔法に頼りきった警備なんて、僕の工学の前では全裸同然だ」
彼は再び影に溶け込み、屋敷から音もなく消えた。
あとに残されたのは、完璧に元通りに閉じられた金庫と、子爵の破滅を決定づける情報の複製だけだった。




