第2節:聖水の毒性(トキシック・ホーリーウォーター)
宿の屋根裏部屋は、埃と鼠の死骸の臭いが充満していた。
ニコは口に小さなペンライトを咥え、床板の隙間にバールを差し込んだ。
嫌な音を立てて木材が跳ね、剥き出しになったのは、錆び付いた銅製の細い管だ。
「……やっぱりな。この宿、表向きは井戸水を使ってるって話だが、裏じゃ教会の『中央配管』に繋がってやがる」
ニコは指先で管を叩き、その振動を確かめる。
「おまけに、このバルブの細工。教会の鐘が鳴る時間に合わせて、逆流防止弁が開くようになってやがる。物理的な水路に『時限式』の細工を施すたぁ、嫌なエンジニアがいたもんだ」
「……その『細工』の結果が、これよ」
背後で、シオンが無機質な声を上げた。
彼女は街の露店で「喜捨」と引き換えに手に入れた小さな瓶を、携帯用の蒸留器にかけていた。
フラスコの底で煮沸される液体は、聖水という名にふさわしく淡い銀色に輝いているが、シオンの瞳には何の感動も映っていない。
「成分分離完了。主成分は水、そして微量の銀イオンによる防腐効果。……ここまでは想定内」
シオンは抽出された残留物を、濾紙の上で慎重に観察する。
「問題は、この揮発性のアルカロイド。現代の薬理学で言えば、中枢神経に作用する強い鎮痛薬、そして――強力な依存性を持たせる添加物よ」
「薬物中毒ってことか?」
ニコが床下から顔を出し、顔の汗を拭った。
「正確には、痛みを遮断し、万能感を与える『偽りの救済』。この水は病を治さない。ただ、病んでいることを忘れさせるだけ。そして、一度でも服用を止めれば、反動で神経系が崩壊する」
シオンは瓶を光に透かし、氷のような声で続けた。
「ニコ、あなたが言った給排水の異常。教団は、特定の時間に、特定の地区だけにこの『成分』を混ぜた水を流している。民衆は、決まった時間に、決まった場所で祈らなければ『奇跡』に預かれないと思い込まされているわ」
「物理的な水路で依存を管理し、化学的な毒で心を縛る、か。……反吐が出るぜ」
ニコが忌々しげに床板を叩きつけた。
その頃、宿の階下では、ガードナーが派手な柄のシャツの襟を緩め、酒場のカウンターでエレーナの横に座っていた。
エレーナは安物のワインをグラスの中で転がし、鼻をつまむような仕草を隠さない。
「……ねえガードナー、この街の男たち、みんな瞳の焦点が合っていないわ。香料のせい? それとも、あの不味い聖水のせい?」
「両方だろうな、お嬢様。……おい、大将。あそこのテーブルで寝てる奴、昨日の朝からあんな感じか?」
ガードナーは、カウンターの奥でぐったりとしている男を顎で示した。
「……ああ。最近じゃあんなのが増えた。『聖下』の慈悲が足りないんだよ、あの野郎は。喜捨をケチるから、ああやって『浄化』が遅れるんだ」
店主は汚れた布でグラスを拭きながら、信仰というよりは呪詛に近い調子で吐き捨てた。
「最近じゃ、隣町の連中も『奇跡』を求めて押し寄せてきてる。教団の連中は、来月にはさらに『純度の高い聖水』を配るって噂だ。そのためには、寄付金がもっと必要らしいがな」
ガードナーはエレーナと視線を交わした。
情報のノイズの中に、確かな腐敗の構造が混じっている。
「……お嬢様、そろそろ戻ろうぜ。アレクが冷めたスープを前に、時計の針を凝視してる頃だ」
ガードナーがテーブルに数枚の硬貨を置くと、エレーナは優雅に立ち上がり、病的な熱気に包まれた酒場を後にした。
夜の聖都には、鐘の音とともに、民衆の咽び泣くような祈りが響き渡っていた。




