第1節:澱んだ祈り(スタグナント-プレイヤー)
ガタ、とひときわ大きく車体が跳ねた。
安物のサスペンションが限界を告げる悲鳴を上げ、エレーナが座席から投げ出されそうになる。
彼女は顔をしかめ、手近な手すりを掴むと、鼻を突くツンとした匂いの小瓶を振った。
「……信じられない。この街が近づくにつれて、風が安物の香油の臭いしかしなくなるわ。鼻の粘膜が腐りそう」
「お嬢様、贅沢言っちゃいけねえ。この振動は現代の電動マッサージ器より全身に効く。街に着く頃には肩凝りも綺麗さっぱりだぜ?」
御者台からガードナーが、あけすけな笑い声を返す。
彼は跳ね上がる泥を避ける素振りも見せず、剥き出しの腕を振って馬を御していた。
「お前が揺らしてるんだろ。……シオン、お前の予測通り、あと数キロで馬車の車軸が悲鳴を上げるな。……頼りにしてるぜ、お姫様」
車内、揺れる机に図面を固定し、計算尺を動かしていたニコが、隣の無機質な少女へ視線を投げた。
シオンは膝の上に置いたノートを見つめたまま、瞬き一つせずに答える。
「……摩耗係数は許容値を超過。次の大きな段差で、右後輪の回転軸が折れる確率、八十七パーセント」
「ハッ、そりゃ完璧な予報だ」
ニコが皮肉混じりに笑う。
シオンはその言葉を「信頼」として受け取る機能を持っていないかのように、ただ事実だけを視線の先に置き続けていた。
馬車が聖都の門前に差し掛かると、空気の「重さ」が一段階変わった。
黄金の装飾が施された門とは対照的に、その足元は泥と汚水が混ざり合い、異様な腐臭を放っている。
白地に金糸の刺繍を入れた革鎧――教団直属の衛兵たちが、列をなす旅人を冷淡に捌いていた。
「……喜捨が足りんな。聖下への祈りがその程度では、瘴気病からは逃れられんぞ」
衛兵が、震える老人を突き飛ばした。
老人が泥の中に這いつくばり、零した銀貨を拾おうとするのを、衛兵は泥靴で無造作に踏みつける。
不条理な光景だが、周囲の民衆は助けようともせず、ただ自らの順番を待って熱病に冒されたような瞳で空を仰いでいた。
「非効率なコスト回収だな。恐怖による集金は、長期的に見れば人的資源の枯渇を招く」
御者台のアレクは、その光景を帳簿の数字を追うような冷めた目で見つめていた。
その横で、ガードナーが鼻歌を歌いながら、群衆の中に紛れる衛兵たちの立ち居振る舞いを「品定め」するように眺めている。
「……へえ、あの歩き方。右の腰を庇ってる。ありゃ相当いい酒を呑んでやがるな」
門を抜け、一行が予約していた路地の宿へ着く頃には、聖都の「ノイズ」が肌にまとわりついていた。
大聖堂から絶え間なく焚かれる人工的な香料の甘ったるい匂い。
それと、路地裏に充満する汚水の死臭。
二つの匂いが混じり合い、胃の裏を逆撫でする。
宿の入り口を塞ぐようにして、五、六人の男たちが立っていた。
胸に教団の紋章を掲げた聖堂自警団だ。
「おい。新顔だな。この区画で宿を取るには、俺たちに相応の『浄化税』を納めてもらう必要がある」
先頭の男が、腰のメイスを叩きながら歩み寄る。
酒の臭いと、拭い切れない不潔な脂の臭いが、男の体から漂ってきた。
アレクは馬車から降りると、埃を払うように上着を整え、一度だけ男を見た。
交渉の余地はないと判断するのに一秒もかからない。
「ガードナー。掃除を頼む。業務に支障が出ている」
「あいよ。……お疲れさん、アレク」
ガードナーが、ひょいと御者台から飛び降りる。
男たちがニヤつきながら間を詰めようとした瞬間、ガードナーの空気が一変した。
踊るような軽い足取り。
彼は正面から向かってきた男の突進を、柳のように受け流す。
無駄な動きは一切ない。
相手の腕を掴んだかと思うと、解剖学的に「曲がらない方向」へと指先一本の力を添えて捻じ曲げた。
「ぎ、あ――っ!」
叫び声が響くより早く、ガードナーの掌が男の顎の急所を撥ね上げる。
衝撃は脳を揺らし、男の意識を瞬時に刈り取った。
さらに、背後から襲いかかった二人に対し、ガードナーは振り返りざまに、膝の関節と頸動脈の「点」を的確に突いた。
派手な格闘ではない。軍事的かつ効率的、冷徹な無力化。
数秒後、路地には再び、香料と腐臭の混じった沈黙が戻った。
「……ふぅ。おっと、悪いな。神様に祈る前に、受け身の練習でもしな。その方が命は長持ちするぜ?」
ガードナーは沈んだ男たちの体を端に寄せ、再び飄々とした態度で髪をかき上げた。
「おい、エレーナお嬢様。入り口は開いたぜ」
「……不潔。踏まないように入るのが大変だわ」
エレーナは毒づきながら、泥に汚れた宿の閾値を跨いだ。
宿の窓から見える聖都は、夕闇の中で不気味に沈んでいた。
瘴気病に苦しむ人々が、救いようのない熱を帯びた瞳で大聖堂を崇め、震える手で「聖水」を求めている。
街全体が、信仰という名の、依存症に侵されている。
アレクは、埃っぽい部屋の隅で、冷めたスープを啜りながら呟いた。
「……祈るより先に、排水溝を掃除すべきだな」
アルキメデスの旅は、かつてないほど淀んだ、澱みの中心へと足を踏み入れていた。




