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第16話 森を歩く貴公子と貴婦人

 一歩、森に足を踏み入れた瞬間、肌を撫でる空気が一変した。

 温度の変化でもなければ、湿度の揺らぎでもない。


 音が、極限まで削がれている。


 風は確かに通り抜け、頭上の葉を揺らしているはずだ。

 だが、聞こえてくるのはその物理的な摩擦音だけで、本来なら森に満ちているはずの「隙間の音」が、すべて綺麗に抜け落ちている。

 虫の羽音も、小動物が草を踏む微かな気配も、何一つとして存在しない。


 あまりに整いすぎている。

 まるで、誰かが意図して不要な雑音をすべて切り捨てたかのような、不自然な静寂がそこには横たわっていた。


「……なんかさ、静かすぎない?」


 ユズハが不快そうに眉をひそめ、独り言のように漏らした。


「静かだね」


 ノアは立ち止まり、無機質な視線を周囲へと巡らせる。

 踏み固められた地面、一定の距離を保って並ぶ木々、乱れのない枝ぶり。

 人の通り道は見当たらないが、それ以上に、生き物の「生」を感じさせる痕跡がまったくない。


「……何もいない」

「それさ、普通なの?」

「普通じゃない」


 ノアは短く答え、足元の土を軽く踏みしめた。


「前、片付けたよね。ゴブリンアーチャーを、巣ごと」

「うん、やった。じゃあさ、何もいないのが正解じゃないの?」

「そのはずだね。……でも、静かすぎる」


 ノアの声は低く、警告の色を帯びていた。

 それは単なる観察の結果ではなく、違和感の指摘だった。


「あら。とても落ち着いた森ですね。危険は感じませんわ」


 背後から、場にそぐわない柔らかな声が響いた。

 フィオナだ。

 彼女の白い装束は、泥や枯れ葉の目立つ森の中でも不思議なほど汚れを寄せ付けず、差し込む光を受けて淡い気品を放っている。

 彼女の声音には、一抹の疑いも混じっていなかった。


「感じてないだけでしょ、それ」


 ユズハが呆れたように振り返り、言葉を続けようとした、その時。

 静寂を裂いて、鋭い風の音が鳴った。


「右!」


 木陰から放たれた一筋の矢が、ノアの視線をかすめる。

 ユズハは反射的に踏み込み、手にした刃でその矢を叩き落とした。そのまま淀みのない一歩で間を詰め、一閃。

 潜んでいた影が音もなく崩れ、土の中へと沈んでいく。


「……ほら出た。危険じゃないやつがね」


 吐き捨てるように言い、ユズハは切っ先を払った。

 森は再び、何事もなかったかのように静まり返る。

 最初から影など存在しなかったかのように、静寂が塗り潰していく。


 数歩、奥へと進む。

 今度はセレスティアが長い睫毛を伏せ、周囲の魔力密度を探るように視線を動かした。


「魔力の乱れは一切観測されませんわ。……つまり、安全です」

「……は?」


 ユズハが聞き返した直後、今度は左の茂みが揺れた。


「来る」


 ノアの静かな声と同時に、ユズハが動く。

 弾き、落とし、仕留める。

 最小限の動作で、確実に気配を絶った。


「いや、出てるってば。今の見えなかったわけ?」


 しかし、森はまた均されたように静まる。

 次に口を開いたのはグラディウスだった。


「問題ない。この程度、歩みを止める理由にはならん」

「あるって。あんたたちの感覚、どうなってんのよ」


 ユズハが即座に言い返した瞬間だった。前方、視界の端がわずかに歪む。


「三」


 ノアの短く正確な指示。

 迷いを捨てたユズハが地を蹴った。

 踏み込み、軸を切り、刃を滑らせる。

 三つの影がほぼ同時に崩れ落ち、周囲に濃密な血の匂いが立ち込めた。


 だが、その匂いすらも、風に流されるより早く薄れていく。

 森はまた、何もなかったような無表情な顔に戻った。


「……ねぇ。タイミング、良すぎじゃない? こいつらが『安全だ』って言った直後を狙って出てる」


 ユズハが呟き、周囲を睨みつける。

 一瞬、森が止まった。


「ふむ……。安全そ」


 風も、葉の揺らぎも。すべてがこちらの出方を伺うように息を潜めている。


「……あーもう! だから安全とか言うなって言ったでしょ!」


 苛立ちをぶつけるようなユズハの声に反応するように、周囲の気配が爆発的に膨れ上がった。

 薄く、だが確実に殺意を伴った網が狭まってくる。


「ほら来た! 最悪!」

「……ここで止まろう。うん。多分だけど」


 ノアが静かに、しかし断固とした口調で告げた。


「は? こんな囲まれてる中で?」

「これ以上進むと、守り切れない」


 ノアが言う。

 ユズハは一度大きく息を吐き、肩の力を抜いた。


「……まぁ、分かる。正直、普通にだるいしね」


 アルヴェインが周囲を見渡す。

 その動作には、死地にあっても崩れない優雅さが宿っていた。


「ここで野営か」


 セレスティアがわずかに眉をひそめ、湿った土や葉の影を冷徹に見下ろす。


「お世辞にも適した環境とは言えませんわね」

「じゃあ進む? このまま、あの得体の知れない影の相手をしながら」


 ユズハの問いに、数秒の沈黙が流れた。


「……従おう。ここをキャンプ地とする」

「森林浴も悪くありませんし」


 翡翠の瞳の力に、彼らの決断は速まった。

 その時点で、ノアはすでに背負子を下ろしていた。


 彼は解いた藁を手に取り、一本一本を選別していく。

 長さ、しなり、湿り気。それらを指先の感覚だけで確かめ、重ね、組み上げていく。

 層を作り、地面との間に空気の通り道を作る。

 湿気を逃がし、自重で沈み込まない絶妙な高さ。

 均す手の動きに迷いはない。

 不穏な森の中にただ一つ。

 庇のような「構造」が生まれていった。


「……それは、藁ですわよね?」

「藁だね」

「それで、眠るのですか?」

「それで寝る。別に珍しくもないでしょ」


 セレスティアの困惑したような問いに、ユズハが肩を竦めて答える。


「ノアベッドは、下手な宿屋のベッドより……。ううん、もっと!高級旅館よりも安眠できるんだから」

「そのような話、聞いたこともありませんわ」

「あ……シエラも言ってた。彼女は貴族で。……藁、使うって」


 ノアが静かに言葉を添えた。

 その名を聞き、フィオナが小さく息を呑む。


「シエラ……存じませんでした。彼女が、そのようなものを……」

「でしょ? 知らないだけだって。ほら、さっさと寝なよ」


 ユズハが先に横たわった。

 最初はぎこちなかった周囲の者たちも、やがてノアの作った藁の床に身を沈めていく。

 深い静寂と同調するように、ユズハの呼吸が整う。

 森の夜は、音もなく、深く落ちていった。



 朝。

 目が覚めた瞬間、身体の芯が驚くほど軽いことに気づく。


「……なに、これ」


 フィオナが信じられないといった様子で呟いた。

 アルヴェインも音もなく身体を起こし、自分の掌を見つめている。


「……完璧だ。これほどの休息は、久しく記憶にない」

「理に適っていますわ。通気と弾力、それに保温。完璧な計算ですわね」


 セレスティアが分析するように藁の構造をなぞる中、ユズハが大きく伸びをしながら起き上がった。


「でしょ。ノアのやることは、時々意味がわからないくらい精度が高いんだから」


 ノアは何も言わず、ただ、いつも通りの無機質な瞳で一行を見つめていた。


 そしてふと、ユズハは動きを止めた。


 彼女の瞳が細まり、ゆっくりと視線が横へと流れていく。

 まずはアルヴェインの足元。


「動いてみて」


 ノアに促され、アルヴェインが一歩踏み出した。動作は軽く、鋭い。

 だが、ユズハの瞳はじろりとその重心の移動を追い、視線をさらに細めた。


「あれ……?」


 凍りつくような沈黙。

 ユズハが顔を上げ、アルヴェインを真っ直ぐに見据える。


「なにかね。リフレッシュされたこの」

「は?強くなってないじゃん」

「えっと。……超回復だから」


 ノアの言葉と共に、視線が次々と流れる。セレスティア、フィオナ。

 全員を順番に値踏みするように舐め回し、ノアは結論を告げた。


「バルトさんの言葉を借りると、えっと整理する部分がない……とか」


 ユズハは呆然と天を仰ぎ、ゆっくりと視線を地面の藁……そして、自分の足へと戻した。

 半眼のまま、彼女は震える声で聞き返す。


「……は? じゃあ、何。ノアベッドが利かないってこと?」

「そう……かも。僕ももうちょっと期待したけど」


 ユズハの瞳がわずかに揺れ、すぐに極限まで細められた。

 彼女は深いため息とともに、力なく肩を落とした。


「……だる」

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