第12話 白鷺の砦潜入作戦⑧
不意に、足音が途切れた。
夜の森を支配していた凍てつくような殺気も、肌を刺すような魔力の余韻も、潮が引くように淡く消えていく。
森が、深い呼吸を取り戻していた。
重なり合う木の葉が夜風に囁き、遠くの梢が緩やかに波打つ。
さっきまで無残に断ち切られていた自然の調べが、欠けた月光の下でゆっくりと、元の柔らかな輪郭を結び直していく。
その静寂の中に、わずかな焦燥をなぞるような焼けた魔力の匂いだけが、銀色の空気の中に溶け残っていた。
翡翠の瞳の少女は、その場に立ち尽くしたまま、得物を下ろそうとはしなかった。
喉を焼くような荒い呼吸。けれど、その背筋は一本の糸を張ったように崩れない。
肩を上下させながら、彼女は夜の闇を見据え、微動だにせず刃の向きを保ち続けていた。
ゆっくりと、溜め込んでいた息を吐き出す。
肺の奥に澱んでいた戦闘の熱が、白い吐息となって静かに夜へと還っていった。
そのとき。
えんじ色の髪が、ふわりと遅れて揺れた。
先ほどまでの苛烈な動きの残響が、今さらになって夜の情景を愛おしむように撫でる。
月光に透けた毛束は、まるで宝石を紡いだ絹糸のような光の筋を描き、ゆっくりと彼女の背に落ち着いていく。
戦いの終わりが、ようやく少女の身体に追いついた瞬間だった。
ユズハの肩から、ほんのわずかに力が抜ける。
それでも完全に警戒を解かぬまま、視線だけを泳がせて、隣に立つ少年を捉えた。
鈍色の髪の少年は、いまだに右の拳を強く握りしめたまま、彫像のように固まっている。
殴りつけた、その形のままで。
森の囁きだけが、二人の間に流れる数秒の空白を優しく埋めていた。
「……ねぇ」
少女が静かに口を開く。その声は、夜露のようにしっとりと響いた。
「女の顔を殴るとか、意味分かんないんだけど」
「だって! あの吟遊詩人!」
反射的に言い返したノアの言葉に、ユズハはきょとんとして瞬きを繰り返した。
「ノア」
少しだけ首を傾げる仕草に合わせて、ポニーテールが揺れる。
「あんた……髪が長いってだけで、女の人だと思ってたの?」
「え」
弾かれたように肩を跳ね上げる少年。
そんな相棒を、少女は最初、呆れたような半眼で見つめていた。
けれど、その翡翠の瞳はすぐに、陽だまりのような優しさに満たされていく。
「それくらい、頭が真っ白になっちゃってたんだね」
責めるのではない、包み込むような柔らかい声。
「その……」
少年の言葉が、夜の空気に溶けて詰まる。
少女は小さく息を吐き、唇の端をわずかに綻ばせた。
その表情は、月光に照らされてひどく儚げで、どこか抒情的な美しさを湛えていた。
「それくらい、悔しかったの?」
「ちがい……ます」
長い沈黙を置いて、彼は絞り出すように答えた。
「いいじゃん」
ユズハは軽く肩をすくめ、彼に一歩歩み寄る。
「もっと出してこ。そういうの、もっと出していこうよ」
「だから……」
「じゃないとさ」
彼女は少しだけ視線を逸らし、林の奥、風に戯れる葉のざわめきを見つめた。
「こいつは捨てていい存在なんだって……あたしまで、そう思っちゃうかもしれないじゃない」
「え」
少年の声が、凍りついたように止まる。
「真面目に受け取らないでよ。……でもね」
一拍、置いて。
彼女は翡翠の瞳を戻し、少年の瞳をじっと見つめ返した。
軽く振る舞っているようでいて、その響きは決して軽くはない。
「あたしだって、不安になるのよ。捨てられても、何も言わずに受け入れちゃうノアを見てると」
月影が彼女の長い睫毛に影を落とす。
「それは、自分で捨ててるのと同じ……だよ?」
少年は言葉を失った。
握りしめていた拳が、雪解けのようにゆっくりとほどけていく。
強張っていた指先に、ようやく確かな感覚が戻ってきた。
「……違う」
呟くような、小さな拒絶。
「違う……です」
少女はそれ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
責めるでもなく、許すでもなく。ただ彼の存在の全てを肯定するように、柔らかく、慈しむような笑みだった。
「じゃ、行こっか」
くるりと鮮やかに背を向け、少女は再び歩き出す。
さっきまでの凄惨な戦闘が嘘のように、その足取りはどこまでも軽やかだった。
◇
二人が林の中へと歩み出した、そのとき。
「あらあら。タイミングが悪かったかしら?」
空気が、再び凝固した。
今度は静かに、けれど逃れようのない確実さを持って。
林の穏やかな息遣いの中に、硬質な異物が混ざり込んでくる。
二人は同時に振り返った。
姿を見るまでもない。この、心臓を直接撫でるような冷徹な気配は。
微笑みの聖女を思わせるエマが、穏やかに笑っていた。
その後ろには、淡い金の髪を揺らすレオン。圧倒的な威圧感を放つガレス。凍てついた美貌を持つリリア。
そして――弦の切れたリュートを抱えた、エリオット。
足音一つ立てず、彼らはそこに立っていた。
ただ存在しているだけで、周囲の酸素が希薄になるような錯覚。自然の調べの中に、傲慢なまでの“人為”が楔のように打ち込まれている。
ユズハの翡翠の瞳が、剣呑に細められた。
ノアは、ただ無言で立ち尽くしている。
「……カリスが去ったのなら、俺たちの任務も完了だ」
レオンの声が、感情の死滅した平原のように響く。
まるで、目の前の二人への興味さえもが砂のように剥落したかのような、淡々とした響き。
「拍子抜けだな、全く」
巨漢のガレスが、首の骨を鳴らして退屈そうに吐き捨てた。
エマは変わらず、聖母のような慈愛を湛えた微笑みを向けている。そのまま、視線だけでユズハをなぞった。
「随分と楽しそうに舞っていたわね」
柔らかな響き。けれど、その奥に潜む視線は、鋭利な刃物のように冷たい。
エリオットが、紫の長髪を揺らしながら肩をすくめた。
「ユズハちゃん、だっけ」
舞台役者のような、よく通る声。
「君ほどの輝きなら、アルファでも十分に通用するよ。僕たちのリズムに加わる資格がある」
褒めているようでいて、その実、品定めをするような傲慢な視線。
「エリオット、やめておけ。不毛だ」
レオンが遮る。それでも、紫髪の男は優雅な笑みを崩さない。
「ただ」
一拍、置いて。
「正式にパーティを組むべきではあるね。……その、無能な男以外とならば」
林の空気が、わずかに鳴動した。
視線が、ノアの上に無造作に落とされる。
静かに、そして残酷に。それは機能しなくなった部品をゴミ箱へ捨てるかのような、淀みのない切り捨て。
ノアは、何も言えなかった。唇を噛み締め、俯くことしかできない。
ユズハの指が、怒りに震えてわずかに動く。
けれど、レオンはそれ以上の言葉を費やす価値もないと判断したのか、無関心に背を向けた。
戦う気など、最初から欠片も持ち合わせてはいないのだ。
そのとき。
機械的な美しさを湛えたリリアが、ふと足を止めた。
振り返ることさえせず、彼女は虚空を見つめたまま告げる。
「貴方たちも、早く帰りなさい」
一拍。
「直に、諸侯連合の軍隊がここを埋め尽くすわ」
静かに、そして突き放すような冷たさ。
「彼らの戦靴に踏み潰されたくはないでしょう?」
返る言葉はなかった。
アルファの四人は、夜の森に溶け込むように去っていく。
音もなく。完璧な秩序を保ったまま。
林は、再び元の静けさを取り戻した。
けれど。
先ほどのような安らぎの余韻は、もうどこにもない。
残されたのは、明確で不吉な破滅の予感。
ユズハとノア。
夜の帳に、二つの影だけが残された。
「だってさ、ノア」
少女の呟きが、夜風にさらわれて消えていく。
そして二人もまた、長い影を曳きながら、静まり返った森の奥へと姿を消した。




