第11話 白鷺の砦潜入作戦⑦
走る。
踏み外せばそのまま底の見えない闇へと転がり落ちる急斜面を、ユズハは全速力で駆け抜けていた。
えんじ色のリボンで高く括られた髪を激しく振り乱しながらも、少女は速度を落とさない。
決して、振り返ることもなかった。
隣を走る少年の、藁束が揺れる微かな摩擦音だけを道標に、闇の深部へと突き進む。
「シルバーチェイン……って何者よ。例の、未登録冒険者の一味ってこと?」
翡翠の瞳を凝らし、前方の闇を射抜く。
追ってきているかどうかを案じる段階は、とうに過ぎていた。
前に、いる。
野生に近い鋭敏な本能が、逃れ得ぬ「先回り」を冷酷に告げていた。
木々の隙間に、不自然な光が見え始める。
焚き火のようでいて、松明の揺らぎとも違う、どこまでも均一で無機質な光。明るさが一定すぎて、周囲の影が微塵も揺れない。
人がいるはずの明かりなのに、そこには焚き火の爆ぜる音も、談笑する声も、煮炊きする匂いさえも欠落していた。
少女はその光景の異常さを肌で理解しながらも、足を止める選択肢を持たなかった。
その異質な光に向かって最後の一歩を踏み込み――次の瞬間、唐突に停止する。
空気が一変した。
森の音が消え、ただ冷たい風だけが通り抜ける。
それ以外、この世には何も存在しないかのような、凍りついた錯覚が二人を支配した。
「……誰?」
少女が低く問うと、返ってきたのは、闇を切り裂く嘲笑を含んだ笑いだった。
「アルファって連中も大した事ねぇなぁ」
光の手前、木陰から五つの影が音もなく現れる。
中央の女、カリスが不機嫌そうに一歩前へ出た。鋭い視線が闇を突き刺す。
「ウチらのこと、覚えといて損はねぇぜ。シルバーチェインだ」
その一言を合図に、五人が同時に爆発的な勢いで動き出した。
大盾を構えた巨漢と冷静な副官の二人が、正面から少女へと肉薄する。
残るリーダーの女、金の鎖を弄ぶ戦闘狂、そして無機質な観測役の三人は、獲物を分断するように背後のノアへと殺到した。
戦い慣れた過激派らしい、冷徹なまでの最適解。
だが、その目論見は成立しない。
「なめてんじゃん!」
少女が先に動いた。浅い踏み込みながらも、神速に近い一撃。
大盾に刃を叩きつけ、闇の中に激しい火花を散らす。
ドラクの放つ巨石のような圧力を、少女は槍をわずかに傾けることで受け流した。
その直後、槍の石突きに仕込まれた魔法石が、少女に呼応するように赤く脈動する。
「いけ!」
至近距離から放たれた『ファイアアロー』が、一直線に盾持ちの胸当てを撃ち抜く。焼ける音とともに巨体が激しく揺らぎ、僅かな隙が生まれた。
すかさず少女は短剣になった槍を翻し、横から肉薄していたセインの剣を柄の部分で強引に弾き飛ばす。
柔と剛で少女を封じるはずの二人が、たった一合で逆に圧倒された。
だが、少女の戦いはここで終わらない。
前方の二人が体勢を崩した刹那、彼女は即座に重心を転換し、ノアへ殺到していた三人の「横面」を叩くべく、弾丸のような速度で真横へ跳んだ。
少年に迫るカリスの剣。
その死角から、少女が旋風となって割り込む。
「ッ、あぁん?!」
鋭い視線の女が驚愕に目を見開き、反射的に剣を引いて防御に回る。
少女はその衝撃を利用して軸を回転させ、次は横から忍び寄っていたゼルカの金の鎖を、魔法の杖となった槍の石突きで地面へと叩き伏せた。
「あははっ、いいじゃん! あたしの鎖を止めるなんてさぁ!」
戦闘狂が狂気混じりの笑声を上げるが、少女は構わず三人目、リシェルの至近まで肉薄する。
無機質な観測役の男は、予測不能な速度で自らの懐まで潜り込んできた少女を前に、初めてその無機質な瞳を僅かに見開いた。
瞬き一つの間に、少女は襲い来る二人の足を止め、残り三人の攻撃を力尽くで遮断してみせた。
戦場全体を一人で押し流すような、苛烈な主導権の奪取。
だが、それはあまりに短すぎる一瞬の幻影に過ぎなかった。
「……なんだ、こいつ」
リーダーのカリスが、低い声で吐き捨てた。
視線の先には、麦わらの束を背負ったまま、戦場の中心に立ち尽くす鈍色の髪の少年。
彼は動いている。だが、一度たりとも攻撃はしていない。
ただ位置を揺らし、視線を惹きつけ、戦場のバランスを奇妙に変質させているだけ。
リーダーはその本質を一瞬で見抜くと、不快そうに舌打ちを鳴らした。
「……いや、そいつ。戦闘要員じゃねぇな。紛らわしいことしてんじゃねぇよ。ウチらをコケにするのも大概にしろ」
空気が一気に冷え込む。
次の瞬間、シルバーチェインの陣形が瞬時に、そして精密に再構成された。
三人が少年から興味を失ったように離脱し、全ての殺意が少女一点へと収束する。
盾の男が正面で鉄壁を築き、カリスがその後ろから凄まじい威圧をかける。
金の鎖の少女が側面を踊るように取り、冷静な副官が背後へ回り込み、細身の男が全てを見下ろす位置から戦場を統制する。
「なかなかやるようだな、女」
「ユズハだって!」
五人が、ユズハただ一人を完全に包囲した。
逃げ場はない。大盾が強引に押し上げ、体勢が崩れたその頭上から、リーダーの剣が雷撃の如き速度で叩き込まれる。
「単騎でっておもしねぇじゃん!」
側面からは鎖が蛇のように絡みつき、死角からはセインの刃が防御を確実に削り取った。
無機質な観測役の視線が、彼女のわずかな動揺すら、コンマ一秒の遅れすら逃さない。
「かはっ……」
削られる。確実に、命の灯火が揺らぐ。
呼吸が乱れ、軽快だった足が泥沼に沈んだかのように止まりかける。
翡翠の瞳から余裕が消えたその時、カリスが勝利を確信した笑みを浮かべて踏み込んだ。
「終わりだ。てめぇの負けなんだよ!」
剣が、夜の闇を裂いて振り上がる。その瞬間だった。
「え……?」
ノアが、動いた。
誰よりも遅れていたはずの、戦場の外縁にいたはずの位置から。
だが、その動きは少女の目にも、観測役の男の目にも追えない。
視界から消失するように間合いを詰め、気付いたときには、カリスの目前に肉薄していた。
「僕だって!」
拳が振り抜かれる。
一直線。無駄を一切排した、最短距離の軌道。
それは無防備な女の頬を、吸い込まれるように、かつ正確に捉えた。
骨に響く鈍い衝撃。不沈を誇ったリーダーの身体が、たった一撃で木の葉のようにわずかに揺らぐ。
「は……?」
「てめぇ……、何をした……」
完全な想定外。英雄ですら予測できなかった一発。
それだけで、シルバーチェインの鉄壁の連携が糸が切れたように途切れた。
生じた一瞬の隙を逃さず、翡翠の瞳の少女は後方へ大きく跳ぶ。距離を取り、ようやく肺に冷たい空気を送り込んだ。
リーダーの女は、震える手で口元を拭った。
指先に、どろりとした赤が滲む。
カリスはゆっくりと顔を上げると、観測役の男へと無言で視線を向けた。
リシェルがわずかに頷き、冷徹なデータを共有する。
すると、女の唇が不気味に歪んだ。
「ま、このへんでいいだろ。時間の無駄だ」
「はぁ? 何言ってんよ、カリス。これからじゃん」
鎖を巻いた少女が不満げに頬を膨らませるが、リーダーはもはや二人を見ていなかった。その目は既に、ここではない遠くの未来を見据えている。
「どっちみち遅かったんだよ。もう、何もかも止まらねぇ」
少年、そして少女へと、品定めするような視線を滑らせると、カリスは迷いなく踵を返した。
「え……? 何、どういうこと?」
五つの影が、背後の均一な光の中へと溶けるように、音もなく消えていく。
後に残されたのは、二人の荒い呼吸音だけ。
そして、冷たい風に乗ってどこまでも漂う、焼けた魔力の匂い。
少女は、背後に立つ少年の静かな背中を見つめ、言い知れぬ不安を飲み込んだ。




