第6話 白鷺の砦潜入作戦②
馬車が止まる。
乾いた音が、静まり返った平原に妙に大きく響いた。
前方では、二人の槍兵が門番のように入り口を塞いでいる。
無駄のない動きで武器を掲げたが、その双眸に宿る緊張感は驚くほどに薄かった。
「そこの馬車、止まれ」
御者が手綱を引き、車体が完全に停止する。
揺れが止まった瞬間、重苦しい空気が沈殿した。
えんじ色のリボンを揺らし、少女が先に顔を出した。
「近隣住民からの依頼で来ました。炭鉱の件、援軍です」
翡翠の瞳の少女――ユズハは、軽い調子を装いながらも、相手の反応を窺うような鋭さをその奥に秘めていた。
だが、武装した兵士は一切の感情を顔に出さない。
「聞いていない」
「必要ない。ここは白鷺の紋章が仕切っている」
即座に、そして遮るように冷たい拒絶が投げかけられた。
その一言で、周囲の空気がわずかに歪む。
少女は一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
さっきまで確かにそこにいたはずの違和感が、確信へと変わっていく。
馬車の隅では、鈍色の髪をした少年が視線を落としていた。
懐から取り出したのは、もう一通の封筒。
中身の薄さが手に伝わるほど頼りないそれを、ノアは迷いなく開封した。
「……雑用係」
短く呟き、二枚の紙を引き抜く。
文面は簡素だった。
――少しでも円滑に進ませる為の雑用係をしてください。
形式だけを整えた無味乾燥な報告書。
横から覗き込んだ少女が、不快そうに眉をひそめる。
「は?」
少年は何も答えず、その紙を兵士へと差し出した。
男が目を通すのは、ほんの一瞬だった。
それだけで十分だったらしい。
兵士の視線がゆっくりと、足元からなぞるように少女の方へと動いた。
不愉快な舌なめずりが気持ち悪く動く。
「……そういうことか」
陣幕を張り巡らせた、仮設にしてはあまりに強固な拠点の門がゆっくりと開く。
「騒ぎを起こさぬよう」
短い警告とともに、二人は奥へと通された。
◇
中に入った瞬間、肌を撫でる空気が一変した。
重苦しい戦場の気配ではなく、どこまでも薄っぺらく、軽い。
少女が眉をひそめ、辺りを見回した。
「ここが中? 戦場の拠点?」
形こそは整っている。仮設の建物、積み上げられた資材、行き交う人員。
だが、そのどれもに芯がない。
兵士たちの視線は散漫で、警戒の色は極めて薄い。
少年が静かに眺める先には、整然と並べられた予備の武器があった。
一ヶ月以上も炭鉱で魔物と戦っているという報告に反し、その刃には欠けも歪みも、損耗の跡すら見当たらない。
救護用の担架も包帯も、新品のように白く乾いたまま。
そこには治療の直後という緊張感も、死地を潜り抜けた熱気も、一切存在していなかった。
武装していない女たちの姿も目につく。
彼女たちの動きは戦士のそれではなく、給仕の、それも享楽的なもてなしを期待された動きだった。
「……ふぅん」
少女は小さく息を吐き出し、翡翠の瞳を細めた。
隣の少年は答えず、ただ無機質な瞳で配置と動線を記録し続ける。
布で区切られた領域。
見せている部分と、巧妙に隠された奥。
「依頼の内容は登録外の冒険者。様子を見る。その上で探る」
少年の短く鋭い指令。
「はいはい、探偵ね」
少女は軽く笑った。
◇
夜が訪れ、篝火の影が拠点を濃く染める。
中央に人が集まり、テーブルには酒瓶と調理したばかりの肉の匂いが立ち込めた。
上がる歓声、卑俗な笑い。
そこは完全に、宴の空気に支配されていた。
少女は盆を手に取り、自然な足取りでその狂騒の中へと入り込んだ。
「はいはーい、補充いきまーす」
「お、来た来た。お前、新入りか?」
「そーそー。急に呼ばれてさー、マジでバタバタ」
肩をすくめ、皿を置き、水を足す。
その淀みのない動きに、男たちの下品な視線が集まる。
「てかさー、ここってずっとこんな感じ? 前線ってもっとピリピリしてると思ってたんだけど」
「はは、分かってねぇな。そのうち分かるって。俺らは楽してるだけだ」
曖昧な返しに、少女はにこりと笑みを深めた。
「なにそれ、意味深なんだけど。……ねーねー、白鷺の紋章ってさ、どこにいるの?」
その問いに、一瞬だけ空気が止まった。
だが、すぐに笑い声でかき消される。
「上だよ、上。俺らは下っ端」
「えー、会ってみたかったのに」
残念そうに肩を落とす演技をしながら、彼女は背後を横切る影を捉えた。
少年は何も言わずに通り過ぎ、視線だけを交わす。
彼もまた、別ルートでの潜入を続けているらしい。
少女がわずかに舌打ちを飲み込んだ直後、囲んでいた男たちの声が一段と低くなった。
「なぁ。お前、立ちっぱなしだろ。こっち来いよ。給仕の仕事の続きだろ。早く、来いよ」
逃がさぬように距離を詰め、顎で奥の宿舎を示す。
少女の手に力が入った。
その直前、記憶の中にある鈍色の瞳を呼び起こす。
「ノア」
向かい側から歩いてくる少年の姿が、彼女の脳裏に重なった。
「……潜入です」
「潜入って、意味分かってんの?! あたしが――」
「大丈夫。触れさせない。ユズハには指一本も」
迷いのない、冷徹なまでの即答だった。
少女は一瞬だけ言葉を失い、それから頬を膨らませた。
「もう……何かあったらぶん殴って逃げるからね!」
渡された、一握りの藁を握りしめる。
今はもう目の前にいない少年の名を小さく呼んで、彼女は覚悟を決めた。
「……はいはい、行きますよーっと」
軽く言って、薄暗い宿舎へと歩み出す。
◇
宿舎の中には、さらに多くの男たちがいた。
寝台が並び、戦場とは思えぬほどに整いすぎている。
少女が腰を下ろした瞬間、周囲の男たちが一斉に卑猥な笑みを浮かべて近づいてきた。
「俺たちもそろそろ寝るかぁ」
「今日も楽しもうぜ。どうせ昼まで寝るんだ」
逃げ道はない。
男たちの視線が重なり、少女の手の中にある藁に力がこもる。
歯噛みしながら、心中で馬鹿な相棒を罵倒したその直後だった。
一人の男が、糸が切れたように前のめりに崩れ落ちた。
「おいおい。ブルのやつ酔いつぶれてやんの」
「こいつ、根性ねぇから……な」
嘲笑っていた別の男も、言葉の途中で寝台に吸い込まれるように倒れ、二度と動かなくなった。
次々に、抗う間もなく。
女たちも、力が抜けるようにベッドへと沈み、深い眠りに落ちていく。
宿舎を支配したのは、規則正しい寝息の音だけだった。
ただ一人、呆然と立ち尽くす少女は、手の中の藁を見つめた。
「……なにこれ」
小さく呟かれたその声は、静寂の中に溶けて消えた。




