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第1話 ノクス・マテールの導き

 石は冷たく、濡れているように見えた。

 高く伸びた天井は闇に溶け、どこまで続いているのか分からない。

 細く裂けた窓からは夜の色が滲み込み、外が雨であることだけを、音ではなく気配で伝えてくる。


 灯りは、ろうそく。

 長く痩せた炎が、時折、揺れる。

 揺れるたび、壁に落ちた影が形を変え、刻まれた像は祈る者にも、縋る者にも、裁かれる者にも見えた。


 この空間は重い。

 音も、視線も、呼吸までも、すべてが下へ沈んでいくようだった。


 その中心に、シャルルは跪いていた。


 濡れた金髪が肩に張り付き、雨水が石へ落ちる。

 その滴は小さく弾けもせず、ただ音もなく消えていく。

 背はまっすぐに伸びている。

 頭は垂れている。

 形としては、完璧な恭順だった。


 だが、その内側までは沈んでいない。

 膝を折り、頭を垂れ、言葉を待つその姿の奥に、消えきらないものがある。

 それは反抗と呼ぶには軽く、忠誠と呼ぶには遠い。

 炎の向こう側で細く揺れる、目に見えない熱のようなものだった。


 段差の上。

 さらにその奥。

 ろうそくの揺らめきの向こうに、影がある。


 玉座と呼ぶには簡素。

 だが、そこにあるだけで、この部屋は完成していた。

 誰が座るかではなく、そこに座る者に従うように、石も闇も炎も配されている。

 そう見えるだけで十分だった。


 炎が一つ、大きく揺れる。

 影が、わずかに動く。


「気にすることはない」


 声は低く、穏やかだった。

 諭すようでいて、否定を許さない。


 沈黙が落ちる。

 長くはない。

 だが、その言葉を受け入れるには十分な長さだった。


「流れは、正しい」


 断言だった。

 そこに疑いはない。

 疑いを挟む余地すら、最初から許されていない。


「ノクス・マテールは、常に示しておられる」


 祈りの言葉。

 あるいは、全てを意味づけるための都合のいい名。

 どちらであれ、ここでは同じことだった。


 炎がまた揺れる。

 影が伸び、床を這い、柱をなぞり、シャルルの足元でかすかに歪む。


「閉ざされるべきものは、閉ざされる」


「通るべきものだけが、通る」


 静かな声。

 だが、その内容は選別そのものだった。

 救いではない。

 ただ、振り分けるだけの言葉。


 シャルルは動かない。

 視線も上げない。

 ただ、呼吸だけが、わずかに上下する。


「混乱は、無秩序ではない」


「導きだ」


 優しく言い切る。

 慰めるようでいて、その実、命令と変わらない。


「お前は、よく見ている」


 評価。

 だが、そこに自由は含まれていない。


「だから、祈りなさい」


 逃げ場のない言葉。


 そのとき、ほんのわずかに、シャルルの指先が動いた。

 それだけ。

 顔は上げない。

 だが、何も感じていないわけではないと分かる程度には、確かな反応だった。


 沈黙が落ちる。


 炎は揺れ続ける。

 影は形を持たない。

 壁に刻まれた像も、今はただ闇の中に沈んでいる。


 やがて。


 衣擦れの音が、静かに生まれる。


 影が、立ち上がる。


 足音は小さい。

 だが、この空間では、それが全てだった。

 石に触れる音が、一つ、また一つ。


 ゆっくりと段を降りる。

 急ぐ気配はない。

 だからこそ、その存在だけが際立つ。


 シャルルの前を通る。

 視線は上げない。

 上げる必要もない。


 その存在だけで、十分だった。


 足音が遠ざかる。

 扉が開く。

 湿った空気がわずかに流れ込む。

 閉じる。

 音は、すぐに消える。


 それでも。


 シャルルは動かない。


 頭を下げたまま。

 呼吸だけを繰り返す。


 時間が、落ちる。

 炎が揺れる。

 影が歪む。

 誰もいないはずの空間が、まだ重い。


 やがて。


 シャルルは、ゆっくりと息を吐いた。


 静かに顔を上げる。

 立ち上がる。

 濡れた金髪が、わずかに揺れた。


 背筋を伸ばす。

 肩の力を抜く。


 そして、小さく呟く。


「……神に祈りを?」


 口元が、わずかに歪む。


「狸親父が」


 次の瞬間。


 腕が、横に振り抜かれる。


 乾いた音。

 炎が一つ、弾けて消える。

 もう一つ。

 また一つ。


 連なっていた光が、まとめて薙ぎ払われる。

 蝋が散り、芯が折れ、火が途切れる。


 揺れていた影が消える。

 形を持っていたものが、すべて崩れる。


 残るのは、闇。


 深く。

 何も映さない闇だけが、その部屋を満たした。


「……ま、いいか」


 軽く、肩をすくめる。


「バルカスでも弄りに行くか」


 足音が、闇に溶けた。



 机。

 机。

 机。


 等間隔に並べられたそれらの前に、同じ数だけ椅子がある。

 その規則正しさが、かえって息苦しい。


 そして。


「――騎士団制度における領地管理の基礎は」


 淡々と続く声。

 終わらない。

 とにかく終わらない。


 ライガは、机に突っ伏していた。


「……無理だろこれ」


「起きなさい」


 即座に、シエラの声。


「無理だって! なんだよこの話! 戦えって言われた方がまだ分かる!」


「だから選別なのよ」


 シエラはノートを取りながら言う。


「剣だけじゃなくて、“扱えるか”を見てるの」


「扱うって何をだよ……」


「権力」


 短く。


 ロイドは姿勢よく座っている。


「自分としては、理解は可能です」


「嘘つけ」


 即答。


 フィナは小さく笑いながらも、少し困った顔をしていた。


「でもほんと、難しいね……」


 講義は続く。


 数字。

 制度。

 規則。

 戦場とは違う、別の戦い。


 その中で。


 講師が、さらりと口にした。


「――近年では、“ノクス・マテールの導き”などと呼ばれる現象も確認されており」


 一瞬。


 空気が引っかかった。


 ライガが顔を上げる。


「ノクス……なんだって?」


 軽い調子。


 だが、その横で。


 シエラのペンが止まっていた。


 ほんの一瞬。

 それから、何事もなかったように書き続ける。


「……古い神よ。地母神にして死と闇を司る。黄泉の国の女王」


 淡々とした説明。

 だが、その声はわずかに低い。


「気にするほどのものじゃないわ」


「いや気になるだろ普通に」


 ライガが食い下がる。


「名前だけで腹いっぱいなんだけど」


「授業に集中しなさい」


 ぴしゃり。


 講義は止まらない。


 やがて。


 ようやく、終わりの鐘が鳴る。


 張り詰めていた空気が、一気に緩んだ。

 ライガはそのまま机に突っ伏した。


「なんだよ。ここ日曜学校か? 神様とか関係ねぇだろ」


 空はどんよりとして、昨晩からの雨が止む気配がない。


「はぁ…。ってか、冒険者も騎士団も同じだろ?任務達成すりゃ褒められる」


「馬鹿。これからは貴族とも関わらないといけないから学んでるのよ」


「えっと私たちはもう合格したんだけどね」


「ライガ待ちだぞ。脳も筋肉と思え」


「その理論おかしいだろ……」


 小さな笑いが広がった。


 だが。


 シエラだけは、ノートを閉じる手をわずかに止めていた。


 ノクス・マテール。


「なんで今更……」


 ほぼ無神論と言える国だ。


 ただのオカルト——そう呼ぶには空が重い。

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