第19話 ル=ヴァンの森⑤
火が、静かに揺れていた。
鍋の底で煮える音が、夜の室内に小さく広がる。
ノアが手際よく鍋を扱うたび、肉の旨味と野菜の甘い匂い、そこへハーブの香りが重なっていく。
森で張り詰めていた緊張が、その湯気と一緒に少しずつほどけていくようだった。
「……で?」
バルトが腕を組む。
「何があった」
ユズハはもう席についていた。
待ちきれない様子で鍋を覗き込み、けれど説明は面倒くさい、という顔を隠そうともしない。
「森、壊してきた」
「分からん」
バルトは間髪入れずに返した。
「ちゃんと話せ」
「えー」
露骨に嫌そうな顔をする。
「ほらノア、説明して」
「丸投げか」
呆れたようにバルトが言う。
ノアが口を開きかけた、その時だった。
「あ!」
ユズハが急に声を上げた。
「そういえば!」
ぐっと身を乗り出す。
「あたし、殺されかけたんだから!」
「……は?」
バルトの眉が跳ねた。
「っていうかノア!」
そのまま、ノアに指を突きつける。
「カッコよかった!」
ノアはわずかに瞳を揺らした。
「そうですか」
「そうですか、じゃないし!」
ユズハが勢いよく言う。
「目の前でキンってなったからね!? あれ何!?って普通になるでしょ!」
バルトが、ゆっくりとノアへ視線を向ける。
「……どういう状況だ」
「矢が飛んできたので」
ノアは鍋をかき混ぜながら答える。
「弾きました」
「簡単に言うな」
「結果だけ言えば、そうなので」
あっさりしている。
その言い方に、ユズハがまた割り込んだ。
「いや、ほんとに速かったから! あたしでも間に合わなかったの!」
バルトは黙る。
少しだけ視線を落とし、言葉を選んでから口を開いた。
「ユズハ。殺されかけたと言ったが、多分そうじゃない」
「え?」
「そのシャルルって男は、ノアなら弾くと分かった上で撃った」
「えー。でもさ」
ユズハが顔をしかめる。
バルトはそのまま続けた。
「アイアンループは表に出ることを嫌う」
そこで言葉を切るのではなく、低い声のまま重ねる。
「カルンは知らん。だが、少なくともこの街での奴らは、グレイより黒いことはしていない」
ユズハは少しだけ考え込んだ。
言われたことを、その場で頭の中に並べ直す。
「そっか。適合してるってこと?」
「そういうことだな」
短く返す。
空気が、少し落ち着く。
ノアは何も言わない。
ただ鍋をかき混ぜ、火加減を見ている。
「で?」
バルトが軽く顎を引く。
「続きだ」
「はーい」
ユズハが軽く手を上げる。
「森ね、変なの出てきた」
「変なの?」
「アイアンループ」
一言で済ませる。
だがバルトは、今度は驚かなかった。
「シャルルって名乗ってた。金髪で、糸目で、ずっと笑ってるやつ」
「武器もくれました」
ノアが補足する。
「金属製の矢です。精度が高くて、再利用にも向いていました」
バルトは静かに頷いた。
「……なるほどな」
小さく呟く。
それから視線を外した。
深くは追わない。
今はそこを掘る場面ではない。
そう判断したのが、表情だけで分かった。
「出来ました」
ノアが言う。
皿に盛る。
湯気が立つ。
匂いが一気に広がった。
ユズハが反射みたいに手を伸ばす。
「いただきま――」
「待て」
バルトが止める。
「先に食うな」
「えー」
「全員が揃ってからだ」
「いいじゃん、それくらい」
文句を言いながらも、ちゃんと手を引っ込める。
ノアが皿を並べる。
バルトがスプーンを取り、一口食べた。
止まる。
もう一口。
今度は、きちんと味わうように。
「……うまいな」
「でしょ!」
ユズハがすぐ乗る。
「お前が作ったんじゃねぇだろ」
「食べてるから一緒なの!」
「違う」
きっぱり返しながらも、口元は少しだけ緩んでいた。
火が揺れる。
空気が落ち着く。
森の話は、そこでようやく一区切りついた。
◇
食事の熱が、ゆっくりと落ち着いていく。
火は小さくなり、夜が深まる。
皿の上も片付き、空気には満腹の緩みが混じっていた。
ユズハが、ふと思い出したように顔を上げた。
「ねね、ノア」
「はい」
「あれ、何だったの?」
ノアは少しだけ瞳を揺らす。
「カンって! なったじゃん!」
「カン……? 藁の加工用の短刀のことですか」
「違うって!」
ユズハが身を乗り出す。
「動き! そっち!」
「あたし、振り返るのがやっとだったんだけど!?」
ノアは少し考える。
本当に考えている顔だった。
しばらくしてから、少しだけ肩をすくめる。
「……その、よく覚えてません」
「は?」
ユズハが固まる。
「いや、え?」
「気づいたら弾いてた、みたいな」
「なにそれ、普通に怖いんだけど」
素直な感想だった。
ノアは困ったように瞳を揺らす。
「すみません」
「謝るとこでもないでしょ!」
ユズハはそう言いながら、どこか楽しそうでもある。
呆れているのに、嫌ではない。
そんな響きが混じっていた。
その横で、バルトは黙っていた。
視線は落ちている。
指先が机を軽く叩く。
トン、トン、と一定の間隔で。
ノアが異常。
それはもう知っている。
だが、とバルトは思考を重ねる。
アイアンループを、一人で解体させた。
ギルドの話では、暁紅蓮隊の二人。
商人の噂では、「ノア」という化け物。
そして今の話。
後者の方が、ずっと矛盾なく繋がる。
尾ひれはあるだろう。
話は必ず膨らむ。
だが、それでも根の部分は変わらない。
バルトは、ゆっくりと息を吐いた。
「……とんでもないものを拾ってしまったのか?」
視線を上げる。
ノアを見る。
何も変わらない。
鍋を片付けているだけの青年だ。
本人が気付いている様子もない。
過去に何かあったのは、間違いない。
暁紅蓮隊をランクBにまで押し上げたのも、間違いなくノアの力だ。
そして、アイアンループの一部を壊滅させ、その一人から命まで狙われた。
計り知れない。
だが、偶然で片付けられる段階ではない。
笑顔でボールを投げる娘。
そのボールを、まともに頭へ受け続ける少年。
そんな妙な光景まで思い出して、バルトは眉を寄せる。
全部が尾ひれ。
そんなわけがない。
「パパー、さっきから何ぶつぶつ言ってんの?」
ユズハが不思議そうに覗き込む。
「って、ノア。避けないと、たんこぶだらけになっちゃうよー」
「だから、覚えてないって……」
ノアが小さく答える。
火は少し激しく揺れていた。
その穏やかな光の中でだけ、今日の森がまるで遠い出来事みたいに思えた。




