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第22話 境界の世界⑤

 港を南に離れるとマルシェリアの大通りに出る。

 大通りの空気は、物理的な重みを伴って変質していた。


 人々の流れは一定の法則を失い、家財を抱えて門へと急ぐ者と、その場にへたり込んで動けない者たちが路地を埋めている。


 視線の先は、ただ一点だ。

 誰もが、逃れようのない「真っ黒な何か」を見上げていた。

 朝日が昇るから、夜ではない。だが、一部は夜のまま。


「ママ、ママー」


 北の空に居座る黒い天体は、朝の光を貪り食うようにしてそこにある。


 幼い子どもが狂ったように泣き声を上げ、母親がその細い手を引き、振り返ることなく足早に歩く。


「見ちゃダメ。いいから前だけ見てなさい」


 母親はそう言い聞かせながらも、自身の瞳には空の異形が焼き付いているようだった。

 抗いようのない恐怖に、その足取りはさらに速度を増していく。


 一方で、魂を抜かれたように立ち止まる者もいた。

 好奇心を通り越し、ただ圧倒的な質量に圧し折られた人々が、口を開けたまま空を仰いでいる。


「……なんだ、あれは。世界の終わりか」


 誰に向けたわけでもない絶望の呟きが、あちこちで霧のように零れていた。

 老人が震える杖をつき、ゆっくりと天を仰ぐ。胸の前で組まれた指は白く強張り、乾いた唇が祈りの言葉を紡いでいた。


「……これは、神の怒りじゃ。我らが忘れかけていた畏怖が、形を成して戻ってきたのじゃ」


 祈りの形は人によって違った。

 路地で膝をつく者、胸の紋章に手を当てる者、静かに目を閉じて震える者。

 名を呼ぶ神も、縋る対象も千差万別だった。

 だが、その中で最も多く、叫ぶように繰り返されていたのは一つの名だった。


「ルクスよ……我らに光を……」


 古の光を司る神。

 空を覆う闇の具現に対抗するように、その名は縋りつくような必死さで呼ばれ続けていた。

 街は狂騒に包まれている。

 しかし、それは祝祭の喧騒とは対極にある、逃げ場のない人間たちの断末魔に近かった。


「そうなっちゃよねー!」


 混乱を切り裂くように、ユズハたちは突き進む。

 誰一人として立ち止まることはない。

 一度だけ空を見上げたユズハの翡翠の瞳に、黒い脈動が映り込む。彼女はすぐに視線を正面へと戻し、迷いを振り切るように地面を蹴った。


 行き先は決まっている。

 マルシェリア冒険者ギルド。

 あの冷静な受付嬢、セレナのいる場所だ。



 マルシェリア冒険者ギルド――通称、金羊毛ゴールデンフリース

 白亜の建物は、朝の光を受けて相変わらずの豪奢な佇まいを見せていた。

 磨き上げられた石畳に贅を尽くした内装は、本来なら訪れる者に安堵と優越感を与えるはずのものだった。


 だが、今のギルドに漂う空気は、暴力的なまでの殺気と不安に満ちていた。

 扉を抜けた瞬間、耳を刺すような怒号と喧騒が押し寄せてくる。


「何なんだ、あの空は! ギルドは説明しろ!」

「北の空から黒い霧が流れてきてるぞ! 街の外はどうなっているんだ!」

「ギルド長を出せ! 俺たちに何を知らされている!」


 受付前には、普段の冷静さを失った冒険者たちがひしめき合っていた。

 序列も礼儀も霧散し、ただ情報の飢えを満たそうと誰もが前に出ようとする。


 受付嬢たちは青ざめた顔で応対に追われていた。

 だが、彼女たちが用意できる答えは、苛立つ男たちを鎮めるにはあまりに貧弱だった。


「現在、上層部が確認を急いでおります」

「詳細はまだ届いておりません。各自、宿舎で待機を……」


 型通りの言葉が繰り返されるたび、冒険者たちの怒りに火が注がれる。

 吹き抜けの天井に反響するざわめき。

 その視線の多くは、新たな「答え」を運んでくる救世主か死神を待ちわびるように、何度も入り口へ向けられていた。


 ユズハたちは、その荒れ狂う人の波を縫うようにして進む。

 立ち塞がる背中に肩をぶつけ、舌打ちを背に浴びても、ユズハは一歩も引かなかった。


「……邪魔よ。退きなさい」


 短く、しかし冷徹な拒絶。

 その翡翠の瞳に宿る烈火のような意志に圧され、群衆が僅かに割れた。

 その後ろを、ノアは静かに歩いている。

 少年の視線は足元に落ちたまま、何処か遠い場所を漂っていた。


 周囲からは、絶望的な予測が飛び交っている。


「空に穴が開いたんだ。あそこから何かが降ってくるぞ」

「魔物の巣だ、間違いねぇ。ダクネス現象の親玉だ」

「マリー婆さんの言った通りだ、神罰が始まったんだよ」


 誰も確信を持っていない。

 しかし、恐怖という名の伝染病が確実に街を侵食していることだけは明白だった。


「アルファだ」

「レオン様! 対処をされるのですか」


 殺気立った受付の奥。

 喧騒の中で、そこだけが別の時間が流れているような一角があった。


「……無論。だから、下がっていろ」


 書類の束を整理しながら、いつも通りの涼しげな表情を崩さない人物。

 セレナの姿が、そこにあった。



 セレナは背筋を真っ直ぐに伸ばし、事務的に、かつ超人的な速度で応対を続けていた。

 机の上には処理を待つ書類が山を成し、彼女がどれほど迅速に捌こうとも、次から次へと新たな混乱が積み重なっていく。

 それでも彼女の指先は震えず、視線は迷うことなく、喧騒を縫って現れたノアを捉えた。


 そして——


「セレナさん!」

「セレナ。あの黒の——」

 

 周囲の怒号を物理的に切り離すような目。


「ノア君」


 静謐さで、セレナは少年の名を呼んだ。

 話しかけたユズハではなく、レオンでもない少年の名


「マリー様に施した寝床の仕様を、教えてください」


 問いは静かだった。

 だが、彼女の顔には一切の逃げ場がなかった。


「セレナさん。それどころじゃ」

「分かってます。ですが、ノア君。貴方の口から直接聞いておきたいのです」


 少年は狼狽えた。

 いつもよりも、髪が揺れ、瞳が揺れる。


「えっと……」


 ノアは僅かに視線を上げ、セレナと目を合わせた。

 ただ直ぐに、足元へと視線を落とした。

 重苦しい沈黙。

 僅かな逡巡をして、自らの内側にある記憶を慎重に言葉へと変換する。


「……前に」


 彼の目に映っていたのは、


「お祖父ちゃんを、死なせてしまったかもしれない」


 いつかユズハに話した過去だった。


 でも、誰も口を挟まない。


 押し寄せた冒険者たちのざわめきさえ、この瞬間だけは遠い世界の出来事のように感じられた。


「だから、丁寧にしました」


 理解は出来ない。


「ちゃんと目を覚ますように。永眠してしまわないように」


 ノアの言葉でなければ——


「境界を……、跨がないように。……気をつけました」


 少年の言葉はそこで途切れた。

 セレナは静かに目を伏せ、一瞬だけ深い思考の海に沈んだ。

 やがて彼女は、肺にある空気をすべて吐き出すように、重い溜息をついた。


「……そう、ですか」


 顔を上げた彼女の瞳は、揺るぎない冷静さを取り戻していた。

 ノアの言葉を喉の奥で反芻し、彼女は残酷なまでの可能性を提示する。


「……その結果。マリー様には、彼の世に在るものが見えてしまったのかもしれません」


 断言ではない。しかし、その場にいた全員が、それが真実であると直感した。


「ノクス・マテールの姿を」

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