第21話 境界の世界④
朝日はすでに海面を照らし、白く伸びた光の筋が穏やかな波に揺れている。
「つーか、朝だったのかよ」
本来であれば、新しい一日の始まりを告げる清々しい情景であるはずだった。
だが、北の空には、あの巨大な黒い天体が動かぬまま、絶対的な質量をもって居座っていた。
朝の朱を吸い込み、光の均衡を根底から破壊するその一点により、景色はどこか現実から切り離されたような、薄ら寒い違和感を帯びている。
船は、滑るように静かな海を進んでいた。
波を切り裂く音さえも小さく、進行を妨げるものは何一つとして存在しない。
甲板の中央に、ノアが立っている。
船の僅かな揺れに合わせて身体を揺らしてはいるが、それは自らの意志によるものではない。
ただそこに置かれた人形のように、鈍色の瞳を落としたまま、微動だにせず立ち尽くしていた。
周囲を見る様子もなく、言葉を発する気配もない。
その虚ろな姿を横目に、シャルルは小さく肩をすくめて見せた。
「あっちはどうなってるかなぁ」
独り言のような、あるいは緊張を解くための軽い息継ぎのような調子だった。
少し離れた位置では、カリスが白い布を高く掲げたまま、彫像のように立っている。
その視線は前方の港へと向けられ、無駄な動きは一切ない。
「向こうも見えているな」
カリスが低く呟くと、背後でドラクが短く頷き、セインは甲板の端で距離と速度を冷静に測り始めた。
港に接触するまでの時間を、冷徹な計算で組み立てていく。
一方で、リシェルはただ真っ直ぐにノアを見つめていた。
「……ノアに変わった様子はない」
観測の事実だけを淡々と置く。
だが、ノアがその言葉に反応を示すことはなかった。
シャルルは前方へ視線を戻すと、港に集まる人影を認め、迷いなく片手を上げた。
「おーい!」
大きく、躊躇いのない動作で手を振る。
「敵意はないよー!」
まだ声が届く距離ではない。しかし、その身振りが何よりの意思表示だった。
船が岸へと近づくにつれ、波の音が浅くなり、水際の生々しい気配が濃くなっていく。
港に立つ人影が、一人、また一人とはっきりと色を持ち始める。
その先頭、水際ギリギリまで身を乗り出していたのは、ユズハだった。
彼女の視線は、群衆の中の誰でもなく、ただ一人の少年にのみ向けられていた。
「ノア!」
その叫びと同時に、水柱が立った。
ユズハが弾かれたように跳躍し、雨のように海水が降り注ぐ。
えんじ色の髪が濡れるのも構わず、彼女は瞬きする間に船上へと降り立っていた。
その翡翠の瞳は、目の前のノアだけを捉えている。
だが、ノアは顔を上げない。
最愛の理解者の声を受けてもなお、少年の意識はどこか遠い場所を彷徨っているかのようだった。
ユズハの表情が、一瞬にして歪む。
事態の理解よりも先に、内側から激しい苛立ちが突き上げた。
「シャルル。あんたたち、一体何やってんのよ!」
怒号に近い言葉を、真正面からシャルルに叩きつける。
感情を抑える気配など微塵もなかった。
シャルルはその剣幕を真正面から受け、しかし柳に風と受け流す。
「落ち着け、なんて言える状況じゃないけどさ。正直、ボクらにも分からないんだ」
シャルルは答える代わりに、視線を横へと流した。
後から船に乗り込んできた、金髪のリーダーへと。
「どこまで知っていたんだい、レオン?」
レオンは動かず、ただ静かにノアを見据えていた。
「ユズハにも話したが。……ノアが『ノクス』の加護を持って産まれた可能性がある。それだけだ」
冷徹な事実だけが、甲板に置かれた。
その間にも、ユズハは堪らずノアを力一杯抱きしめていた。
「ユズハ……僕。大丈夫……だから」
「ノア? 生きてる……」
微かなノアの声に、ユズハの瞳に涙が滲む。
シャルルはそれを見て、再び肩をすくめた。
「生きてるよ。最初から言ってるだろう。で、問題はこっちさ」
シャルルは親指で、背後の北の空を指し示した。
絶望を象徴する、あの黒い天体。
「ま、でも。込み入った話はあとにしよう。ノアはユズハに任せるよ。彼、相当参ってるみたいだからね」
軽い調子で権利を譲る。そこに条件も駆け引きもなかった。
レオンは視線を上げたまま、シャルルとカリスへ静かな、しかし重みのある問いを投げかけた。
「……お前たちの仕業か。あのアベリオンの残党と、何をした」
◇
朝になって、人々が動き出す。
港周辺には住民が溢れていた。
船が完全に接岸し、港にはアルファ、暁紅蓮隊、そして商人ギルドの面々が勢揃いしていた。
向けられる怪訝な視線は、すべてシャルルとカリスに集中している。
カリスは逃げることなく、即座に首を振った。
「ウチらは違う。聞いていた話と、何もかもが違いすぎるんだ」
言葉は強いが、その声に迷いや動揺はない。
「ウチらが聞いていたのは、不老不死の秘術の研究だ」
一つずつ、自分たちに言い聞かせるように、カリスは言葉を区切った。
レオンが僅かに眉を寄せる。
「不老不死? だが、エリオットははっきりと『ダクネスマキア』だと言っていた」
シャルルが肩をすくめる。
「錬金術師に言わせれば、黄泉の国と現世が融合すれば、ある意味で不老不死。死という概念そのものが消える。同じことだ、ってさ」
その内容はあまりにも狂気に満ちていた。
レオンの瞳が、鋭く細められる。
「黄泉の国……女王ノクス・マテール。あの伝説上の冥府を、現世に引きずり出したというのか」
その名が出た瞬間、周囲の空気が一気に沈み込んだ。
禁忌に触れたような、本能的な恐怖が場を支配する。
「こんなことも言ってやがったぞ。あのババアは」
カリスが吐き捨てるように、マリーの言葉を繰り返した。
「清流の中で長く生きるのはつまらぬ、だとよ」
その傲慢な一言に、ディルクが顔をしかめた。
「は? 何言ってんだ、その糞ババアは……。ってか、そのババアって」
理解を拒絶する、剥き出しの怒り。
そして、確定する。
「マリー・ド・オルレアン。まさか、だよね」
「やっぱりそうなのかよ。つまらないから地獄を蘇らせるなんて、そんな理屈が通るかよ!」
ディルクの怒りは、そのまま目の前のシャルルへと向けられた。
彼は荒々しく一歩を踏み出す。
シャルルはそれを受け止め、薄く笑みを浮かべた。
「ディルクも責めるようになったねぇ。……でも、その通りだ。ボクも、あそこまで狂っているとは思わなかったよ」
潔いまでの肯定だった。
ユズハが、ノアを抱えたまま、低い声で問う。
「……で。なんでノアなの? なんで、あの子を連れて行ったのよ」
シャルルは直接は答えず、再びレオンへと視線を戻した。
「だから、ボクの最初の質問に戻るんだよ、レオン。君はどこまで……何を知っていた?」
再び問いが循環する。
場の視線がレオンに集まり、彼の決断を促す形となった。
「俺は」
そこで
「……マリーさんが」
重い沈黙の中、ノアがぽつりと、掠れた声で呟いた。
「マリーさんが……極楽鳥の羽毛を持ってるって、僕に教えてくれたんだ」
朝日が水面を照らし、その遥か奥に黒い天体が不気味に浮かんでいる。
海を渡る風は弱く、揺れも少ない。
だが、誰もその静けさに安らぎを感じる者はいなかった。
ノアの言葉が、真空のような静寂の中に落ちる。
シャルルが、今日何度目か分からないため息を吐き出した。
肩をすくめる仕草は軽いが、その瞳からは一切の温度が消えていた。
「……あぁ、なるほどね。そういうことか」
シャルルが一歩だけ踏み出し、ノア、そしてユズハへと視線を移していく。
「まだ繋がっていないけど。マリーが関係していた、ってこと」
一瞬、時が止まったかのように空気が固まった。
ユズハの声が、低く這う。
「あの、マリーさんが」
姿が見えた、気がした。
それは確信に基づくものではなく、信じたくないという祈りに似たものだった。
シャルルは容赦なく、その脆い希望を打ち砕く。
「あの婆さんが手を引いていたのは間違いない。ノアという『核』を手に入れるためにね」
ディルクが激しく舌打ちした。
バルトは言葉を発せず、ただ静かに、しかし冷徹な目で事態の全容を把握しようとしていた。
レオンもまた、自らの甘さを噛みしめるように口を閉ざしている。
カリスが一歩前に出ると、腕を組み、シャルルを正面から見据えた。
「……狂ってる、で済ませる話じゃないだろ。これは」
「済ませる気なんて、最初からないよ」
シャルルは軽く笑う。
だが、その碧宝の瞳に宿る知性は、すでに次の標的を捉えていた。
「これでやるべきことが明確になった。……点と線が繋がっただけだ」
視線が、再びノアに向く。
少年は何も言わなかった。
ただ、シャルルの視線から目を逸らさず、何かを見極めようとしている。
「なら、やることは一つだ」
シャルルは港の向こう、マルシェリアの街の方角を指し示した。
「マルシェリアギルド」
一拍の重い間。
「セレナなら、あの婆さんと今も繋がっているはずだ」
ユズハが、迷いなく答えた。
「うん。何が起きてるのか、確かめなきゃ」
バルトが重々しく息を吐き出す。
「……これ以上、好き勝手させるわけにはいかねぇからな」
ディルクが肩を激しく鳴らし、武器の感触を確かめた。
「あぁ。ってか、職人ギルドも間違いなく深く噛んでやがる。面白くねぇ話だが、借りは返させてもらうぜ」
ユズハがノアを支えるように歩き出し、後に続く仲間たちの列が港を離れていく。
ノアはユズハの腕に身を任せながら、消えることのない北の黒い天体を、ただ静かに見つめ続けていた。




