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第20話 境界の世界③

 マルシェリアの空が、物理的な絶望に塗り潰されていく。

 北の黒い天体が脈動するたび、朝日の朱は吸い込まれるように色を失った。


「……見てくださいよ、レオン。あちらでレンがやり遂げました。僕は君が知らないせいで、これ。雑用です」


 港の建物の屋上の縁に腰掛け、エリオットが穏やかにリュートを爪弾く。

 残酷なほど鮮明に響くその音色とは裏腹に、エリオットの瞳には深い諦念と隠しきれない澱みが混在していた。

 レオンは武器を構えたまま、微動だにしない。

 その視線は、かつての右腕の指先ではなく、後ろで脈動する「黒い穴」に向けられていた。


「エリオット。……それが、お前の選んだ道か」

「選んだ? 選ばれなかったんです。笑えるでしょう? 僕は結局、ここでも『除け者』なんです」


 自嘲気味に口角を上げたエリオットは、旋律を一拍、不協和音で止めた。


「皆さんを引き留めて時間を稼ぐだけの、便利な脇役に過ぎない。レンが島で神話の蓋を開けるのを、ただ黙って手伝わされているだけの観客ですよ」


 エリオットは身を乗り出す。

 影のない地面に立つレオンを、慈しむような、あるいは呪うような眼差しで見下ろした。


「貴方はいつも、僕を核心から一歩遠ざけておく。いや、どのみち止められない。その程度だった……」


 その場の空気が、一瞬で凍りついた。

 エリオットの指が、弦の上でぴたりと止まる。

 ユズハが、その翡翠の瞳を鋭く尖らせてエリオットを睨みつけた。


「ノアをどうするつもり!」

「君か。君も冒険者。喜びたまえよ。これからきっと、楽しい時代がやってくる」

「ノアは? ノアは無事なの?」

「だから言っているでしょう。僕は雑用です」


 引き留め役。その言葉に嘘はない。

 分からなくともエリオットの悔しげな顔に書かれていた。

 レオンはユズハに向き直った。


「ユズハは強いんだな」

「強くない。今だって」

「ずっとノアの側にいた。俺は……」

「そんなの聞きたくない。船。船を見つけて、助けなきゃ」


 だが、周囲に船は見当たらない。

 小さな船を探しても、例えば泳いでいったとしても、あの黒い天体は得体が知れない。

 距離感さえも歪ませている。


「ノアの祖父、ヨーゼフが死の間際、私に遺した言葉がある」


 ユズハの背に向けて、レオンは静かに口を開いた。


「ノアのお爺ちゃんの話、今は……」

「ノアは、『ノクス・マテール』の加護を受けているかも、と」


 ユズハが止まった。

 明け方の冷たい空気に触れた瞬間、北の天体が頷いた気がした。

 ユズハがなぞるように呟く。


「ノクス……マテール?」


 身体を重く支配する「遅延」の音に抗いながら、ユズハは顔を上げた。

 その不気味な響きが、ノアがどんな喧騒の中でも、あの薄汚れた藁束一つで現世から断絶していた理由を裏付けていた。


「……ふふ」


 屋上の上で、エリオットが低く笑い出した。

 その笑い声には、呆れたような、救いようのない虚脱感が混じっている。


「……何ですか、それは。レオンは本当にそれしか知らなかったんですね。だから、か。……僕の、完全な誤算でしたよ」


 最後の一音を、エリオットが静かに奏でた。


「まぁ。レンの方も上手くはいかなかった。それが唯一の僕の救いだね」


 戦いが起きることはない。

 エリオットにも戦う意志はない。

 何が起きているか、何が起きるのか分からない。


 だから、ユズハ以外の皆は動けずにいた。



 暫くそのまま。

 だが、北に小さな光が見えた。


「……ノア」


 ユズハの震える声が、無音の広場に落ちる。

 北の空を、あの絶望的な「欠落」を見上げる。

 あんな不気味な天体が出現して、世界が書き換えられて。

 その中心にいるノアは、今、どうなっているのか。


 海の向こうに、島が見えている。距離は、決して遠くない。

 それでも。北の空に浮かぶ黒い天体だけが、すべてを歪めていた。


 ユズハは海辺に立ち、波打ち際で足元を砕く水をただ受けていた。

 そのとき、水面に違和感が走る。

 波とは違う動き。

 流れを切る、一直線の軌跡。ユズハの翡翠の瞳が、わずかに揺れた。


「あれは」


 レオンが顔を上げる。


「……船か」


 まだ遠い。人影は見えない。

 だが、確実にこちらへ向かっている。

 ユズハは一歩踏み出した。


「ノアだ」


 何も見えないが、ユズハは呟いた。

 レオンが、わずかに目を細める。


「見えるのか」

「ううん。でも、分かる」


 説明はない。ただ風が抜ける。

 その空気に、別の気配が混じった。


「へぇ」


 軽い声。エリオットが、少し後ろに立っていた。

 いつも通りの調子。だが、その視線は軽くない。

 エリオットは船ではなく、さらにその先を見つめていた。


「本当に羨ましい」


 エリオットにも何が起きているかは分かっていない。

 でも、それが引き起こす何かは分かっていた。


 だからこその悔しさだったのだろう。


「混ぜてくれてたらさ。僕、あっち側だったかもしれないのに」


 エリオットは、小さく息を吐いた。


「まぁ、いいけど」


 エリオットは視線を上げた。北の空。黒い天体。


「君たち、運がいいよ」

「今更、何?」

「ノアが生きている。だから負け惜しみ?」


「何を言ってるんだい。あれこそが、ダクネスマキア。冒険者が、ちゃんと意味を持つ時代の始まりなんだよ」


 エリオットはわずかに笑った。


「感謝してほしいなぁ」


 誰に向けた言葉かは分からない。


「……では。今湧いた気持ちが消える前に、僕は帰らせてもらう」


 エリオットの存在が、少しずつ薄れていく。

 そのまま、その気配は完全に消え去った。

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