第11話 続・キュプロス砦の番人⑦
その古都は、もはや神に見捨てられたのではない、「忘れ去られた」のだ。
かつて石畳の路地には、瑞々しい花の香りが満ちていた。
広場の中央には回廊がそびえ、その奥で豊穣の女神像が祈りを受けていたはずだった。
だが今、その聖域にあるのは崩落の音と、石の隙間から這い出す野茨だけである。
人々の心が離れるにつれて、橋は断ち切られ、街はその形を保ったまま止まった。
剥がれた漆喰と崩れた窓枠の中で、かつての栄華を知るのは、摩耗した女神像の欠けた唇だけだった。
その視線の下に、レオン、ガレス、リリア、エマ、エリオットの五人が立っている。
崩れた回廊を背に、無駄のない配置で間合いを取っていた。
中央のレオンは一度だけ女神像に視線を向け、すぐに外した。
「こんなとこまで来たぜ」
ガレスが、振り返らずに告げた。
石畳の奥から足音が近づく。
一切の迷いがない、規則正しい足取りだった。
暁紅蓮隊が姿を現す。
ライガが先頭に立ち、そのまま鋭い間合いまで踏み込んで静止した。
「探したぜ」
軽い声とは裏腹に、その視線は鋭い。
「用件は」
レオンの短い問いに、ライガが肩を鳴らした。
「王命だ。お前らを連れて来いってよ」
空気がわずかに張る。レオンは一拍だけ沈黙した。
「その王は、何を考えている」
「知らねぇよ。だがな、来てもらう」
ライガが一歩踏み込んだ瞬間、ガレスが動いた。
崩れた回廊の影から踏み込み、間合いを一気に詰める。
振り下ろされる一撃を、ライガが正面で受け止めた。
衝撃が腕を軋ませる。押し返そうとするが、ガレスの圧力を押し切れない。
ライガが半歩下がったのと同時に、空気が震えた。
「――燃えなさい」
シエラの詠唱が走り、炎が一直線に放たれる。
リリアはその場を動かず、短い詠唱とともに指先を動かした。
放たれた魔力が真正面から衝突し、炎と衝撃が爆ぜる。
余波が石畳を砕き、粉塵が舞い上がった。
シエラは間を空けず、角度を変えて再び詠唱を重ねる。
リリアは最小限の動きで軌道を外すが、完全には避けきれない。
「アルファがよぉ! 俺達はお前たちに憧れていた!」
叫ぶ。
「そしてノアを切り捨てた。でも、俺は捨てたことを後悔した」
炎がリリアの衣を焦がす。
リリアはそのまま、圧縮された魔力を一直線に撃ち返した。
シエラが詠唱を重ねて防ぐが、完全には防ぎきれない。
「お前らも同じだろ? ノアはすげぇ。後悔したんだろ?」
衝撃が身体を揺らし、シエラの足が滑った。
リリアの追撃が来るが、ロイドが前に出て盾で受け止める。
重い。ロイドが必死に踏み締める中、ライガが言葉を重ねる。
「だからこんな辺境で、意地になって、ひねくれてっ!」
ロイドがじわじわと削られていく。
後方でフィナが声を落とすと、仲間の乱れた呼吸が戻った。
シエラの詠唱が繋がり、再び炎が広がる。
リリアは一歩引き、迷わず炎の中へと踏み込んだ。
「……ッ!」
短い詠唱。
リリアが放った魔力が炎を押し返し、ぶつかり、爆ぜた。
シエラの詠唱がわずかに遅れ、その差でリリアの一撃が通る。
シエラの身体が後ろに弾かれ、ロイドがそれを支えた。
倒れはしないものの、完全に押されていた。
「お前はさっきから何を言っている? 同じだと?」
レオンの声が低く響く。
前衛も同様だった。ガレスの圧がライガを下げ、レオンの剣がレンを追い詰める。
「同じだろ!」
「ライガ、お前は何も知らない。お前たちの後悔はレベルアップブーストを捨てたことだ」
「レベルアップ……あれか。お前らは違うのかよっ!」
「俺達は危険な任務だからノアを切り捨てた。お前達とは次元が違う」
レオンは攻撃を受け流しながら、狙いを変えてライガへと向かった。
「根本は同じだろ!」
「その程度か。話にならない」
ライガも構えるが、レオンの速度には間に合わない。
鋭い刃が、ライガの喉元でぴたりと止まった。
「……ここまでですか」
レンが静かに言った。横でライガも弾き飛ばされ、首元に刃を突きつけられている。
全てが止まった。
誰も倒れてはいないが、実力差は明白だった。
「……強ぇな」
「分かったなら、帰れ」
レオンの一言で全員が武器を収める。
張り詰めていた空気が緩み、静寂が戻る。
その中で、レンが一歩前に出た。
「……分かりませんね」
「何がだ」
「貴方たちは強い。それは疑いようがない。ですが、それでは足りません。ノアを捨てた理由にはなっても。ユズハという少女に、ノアを捨てさせようとした理由にはなっていない」
空気が凍りついた。
「……何だと?」
レオンの声が低く落ちるが、レンは臆さず続けた。
「貴方の理屈は、アルファとしての判断です。ですが、それを他者にまで適用している。そこに、貴方個人の意思が混ざっている」
言い切る黒髪男に、沈黙が降りた。
そのやり取りを知るのは、ノア、ユズハ、そしてアルファの面々だけだった。
レオンの視線が深く沈んでいく。
「……それを、どこで知った」
「……やはり」
その瞬間、乾いた風が吹き抜けた。
誰かが一瞬だけ視線を逸らした、その刹那。
「……レン?」
シエラの戸惑う声が響く。
レンがいたはずの場所に、今は何もない。
気配も、足音も、魔力の揺らぎさえもが完全に消え去っていた。
「……おい」
ライガが振り返り、ロイドが周囲を見回すが、どこにもその姿はない。
レオンだけが微動だにせず、石畳へと視線を落としていた。
そこには、レンが踏み出しかけた一歩分の痕跡だけが残っている。
まるで、存在そのものが最初から切り取られたかのように。
◇
レンの姿は、もうどこにもない。
崩れた石柱が落とす長い影の中にも、無残に積み上がった瓦礫の隙間にも。
微かな気配さえ残さず、乾いた風だけが石の匂いを連れて吹き抜けていく。
静寂が支配する神殿跡で、誰もがすぐには動けずにいた。
銀髪を揺らし、レオンがゆっくりと視線を上げた。
その鋭い双眸が、正面に立つライガを捉える。
「……一つ確認する」
「誰の命令で、我々を追ってきた」
静かな、だが確かな威圧感を孕んだ問い。
赤髪のリーダーは不快そうに眉を寄せ、反発するように言い返した。
「は?」
「王命だっつってんだろ」
苛立ちは隠さない。
銀髪の男は、感情を排したまま小さく頷いた。
「それは知っている」
「誰が、それを伝えた」
「……騎士団だ」
「正式な伝令だ。文書もある」
「偽装じゃない。形式は完全に整ってる」
重厚な盾を持つ男が低い声で付け足し、隣の魔導師もそれに続く。
銀髪のリーダーは、そこで初めて深い思索に耽るように目を伏せた。
「……最悪ね」
「逃げ場なし、ってか」
白装束を纏った女が小さく息を漏らし、巨大な斧を担いだ男が肩を鳴らした。
その不穏な空気に、赤髪の戦士が堪らず声を荒らげる。
「だから何だよ」
「王命は理由だ」
「経路ではない」
「王は、お前たちに直接触れていない」
レオンは直接答えず、独白のように言葉を紡いだ。
赤髪のリーダーは沈黙した。
実際、彼らが受け取った命令は、幾層もの組織を介して届けられたものであったからだ。
銀髪の男の視線が、かつて少年がいた位置の石畳へと落ちる。
「……繋がっているな」
小さく呟き、再び顔を上げた。
「我々は、追われていたわけではない」
「当てられた」
「……は?」
「ノアに狙いをつけた」
「その上で」
「我々と接触させた」
魔導師の少女の表情が驚愕に固まり、盾使いの男の呼吸が僅かに重くなる。
「最初から、舞台は出来てたってわけだ」
「役者も、配置も、全部」
斧を担いだ巨漢が低く笑う。
その隣の魔導師が静かに引き継ぐと、リーダーは重々しく頷いた。
「そうだ」
「狙いを定められた戦いだ」
その言葉だけが、崩れた神殿の空間に冷たく落ちた。
風が止み、あらゆる音が消失する。
ただ、自分たちが巨大な意図に踊らされているという事実だけが、そこに色濃く残った。




