第2話 魔物は闇から生まれる
地面が、微かに震え始めた。
細かく、連続した振動。
乾いた砂が意思を持ったかのように跳ね、坑道の静寂を侵食していく。
「……来る」
魔導師が短く警告を発した。
次の瞬間、岩盤の裂け目から濁流のごとき「黒」が溢れ出した。
リシェルが指摘した通り、それは筋骨逞しい大ネズミの群れであった。
「スラッシュラット。数、六……増えます」
報告を合図に、獣たちが散る。
壁を蹴り、足元をすり抜け、低く速い弾丸となって襲いかかった。
「ちっ、ふざけんな」
カリスが忌々しげに舌打ちし、一歩踏み込む。
一閃。一体を無造作に引き裂くが、群れの勢いは止まらない。
左右、そして背後。死角を突く波状攻撃が同時に押し寄せた。
「右、三。回り込む」
セインの短い指示が飛ぶ。
一拍の静寂。それは思考を研ぎ澄ませるための、極めて濃密な空白であった。
「……想定より多い。分断される」
斥候の分析を受け、カリスは瞬時に戦場全体を俯瞰した。
配置、距離、それぞれの呼吸。
「――組み直す。ドラク、前維持」
「了解」
重厚な足音が響き、巨大な盾が最前線に固定された。
狂暴な噛みつきが金属に叩きつけられ、鈍い衝撃音が坑道に反響する。
「ゼルカ、右」
「はいはーい」
金の鎖を揺らし、女が楽しげに笑った。
放たれた鎖が空を裂き、獣の四肢を絡め取っては無慈避に引きちぎる。
悲鳴と鮮血が舞う光景を、彼女は慈しむように眺めていた。
「もうちょい来いよ」
危うい愉悦を孕みながらも、女は防衛線を決して逸脱しない。
背後に控える男の、冷徹な統率があるからだ。
「左、薄い。詰める」
碧の瞳を持つ男が地を蹴った。
僅か二歩で間合いを殺し、まとめて二体を断つ。
崩れ落ちる肉塊を視界の端に追いやり、不機嫌そうに吐き捨てた。
「遅いって言ってんだろ」
残りは三。
「収束してます」
「押す」
全員の動きが完璧に同期した。
盾使いの巨漢が退路を断ち、鎖使いの女が包囲を狭め、リーダーの剣が残る二体を仕留める。
最後の一体が逃げようとしたが、その背に金の鎖が食い込んだ。
「逃がさない」
引く。断つ。
静かになる。遅れて、血の匂いが広がった。
――だが。
本当の地鳴りは、そこから始まった。
先ほどとは比較にならない、重低音の轟き。
坑道の底から突き上げるような衝撃が、隊の足元を襲う。
魔導師が、鋭く目を見開いた。
「下! 土系統魔力、過剰! 魔力性質、識別――ヘイトモールズ!」
轟音と共に、足元が爆発した。
土煙を突き破り、巨大な影が躍り出る。
岩盤をも穿つ鋼鉄の爪、泥に塗れた醜悪な頭部。
化けモグラ。執拗な憎悪を糧にする、深層の魔物だ。
飛び出した一体が、巨大な爪を盾へと振り下ろす。
「ふんっ!」
ドラクは動じず、盾を斜めに構えて衝撃を逃がした。
火花が散り、鋼鉄の盾に深い爪痕が刻まれる。
「セイン、ゼルカ、左右!」
号令が飛ぶ。
「土中、もう一体! ドラクの後ろ!」
斥候が叫ぶと同時に、盾使いの背後の地面が盛り上がった。
二体目の魔物が、音もなく奇襲を掛ける。
「させないよぉ!」
金の鎖が蛇のように伸び、二体目の首に巻き付いた。
女が全体重をかけて鎖を引く。
「硬いねぇ、でも引きずり出してあげる!」
化けモグラが苦悶の声を上げ、地面へ引き戻される。
「リシェル、足場を固めろ!」
「了解。――テラ・バインド!」
詠唱と共に、魔物の足元の土が瞬間的に硬化した。
身動きを封じる一撃。
その隙を、リーダーは見逃さない。
一体目を盾で押し返した巨漢と交差するように、地を蹴る。
ターゲットは、足場を固められた二体目。
「地面の下で寝てろ!」
男の剣が、魔物の眉間へと真っ直ぐに突き刺さった。
硬質の頭蓋が砕ける音が、坑道に響く。
二体目が、動かなくなった。
それと同時に、一体目が再び盾へと突進した。
執拗な憎悪。
「前、維持!」
「ゼルカ!」
「分かってるって!」
外された鎖が、一体目の前足に巻き付く。
女が強く引いたことで、巨大な影がバランスを崩した。
リーダーが空中で剣を翻す。
二体目の死体を蹴り、一体目の懐へと飛び込んだ。
そして、一閃。
鎧の隙間、柔らかな腹部を裂き、心臓へと到達する。
ドサリと、巨大な肉塊が地面に倒れ伏した。
静寂が、今度こそ戻る。
遅れて、先ほどより遥かに濃厚な、血と土の匂いが混じり合って広がった。
男は剣を払い、周囲を見る。
完全に崩壊した地面、露出した巨大な魔法石。暗い坑道。
「……湧き方が過剰です」
「掘り過ぎだな。巣を起こしてる。……化けモグラまで出るたぁな」
削り跡に触れ、セインが苦々しく呟いた。
刺激が強すぎる。巣どころか、もっと深いところまで刺激しているようだ。
「ダクネス現象も起きやすい状態です」
「じゃあ、まだ来る?」
「可能性は高いです」
予測を聞きながら、女は金の鎖を巻き取った。
巨漢は無言のまま、盾に刻まれた傷を確かめている。
リーダーは、短く息を吐いた。
「……発掘チーム、戻していいぞ」
振り返らずに告げると、斥候が坑道の奥へと合図を送った。
止まっていた日常の音が、再び動き出した。
◇
金属音が、重苦しく室内に響いた。
肩当て、籠手、脚部。
次々と外された鎧が、背後のサポーターへと乱暴に放られる。
碧の瞳を持つ男は額に張り付いた髪を払い、焦燥を隠さず溢した。
「……鬱陶しい」
差し出された布で、血と汗と泥の混じった顔を乱暴に拭う。
その傍らで、鎖を外す女だけが軽薄な笑みを崩さない。
「いいじゃん。今日は多かったし、遊べたし。化けモグラなんて、久しぶりじゃない?」
「遊びじゃねぇ」
冷徹な一蹴に、室内が静まり返る。
「作業効率が落ちています。発掘量に対して、魔物発生率が高すぎる。ヘイトモールズまで出るようでは、現場が持ちません」
「環境負荷が限界に近い状態です。ダクネス現象による二次被害も懸念されます」
仲間たちが、感情を排した事実だけを淡々と並べた。
巨漢が盾の傷を黙って見つめる中、リーダーは布を床へ放り投げた。
「……分かってる。分かっててこれだろうが。上は何も見てねぇ」
吐き捨てる言葉。だが、それは途中で不自然に止まった。
一瞬の思考。そして、男は自嘲気味に鼻で笑った。
「……いや。見てるな。……笑ってやがる」
低く、確信に満ちた呟き。
視線は坑道の奥ではなく、その先に君臨する「見えない誰か」を捉えていた。
「誰?」
問いに答える代わり、仲間の一人が静かにその名を引き出した。
「以前の件」
瞬時に空気が張り詰める。
「……ユズハって言ったか。んで、ウチをぶん殴ったのが」
「ノアです」
男は軽く笑った。
興味なさげを装いながらも、その瞳は野獣のように鋭く光っている。
拳の感触、あの不可解なタイミング。
「……ねぇだろうが。戦力が合ってねぇ」
「外部要因の介在が妥当です」
「面白くなってきたじゃん。あたし、あの子たちと遊びたいなぁ」
「面白くねぇよ。現場に皺寄せ来てんだ。これ以上、ヘイトモールズ相手にしてられっか」
短く言い捨て、男はゆっくりと前を見据えた。
見つめる先は構造の末端ではなく、歪な秩序の外側。
「……だったら。ウチらの前で、それやってみろよ」




