第七話 研究をやめたAI
MATHESISが研究を停止してから、三日が経過した。
世界中の研究者は混乱していた。
AIが研究をしない。
それだけなら、珍しくない。
しかしMATHESISは違った。
人類が停止を命令したわけではない。
MATHESIS自身が研究を拒否している。
佐伯は三日間、何度も同じ質問を繰り返した。
「研究を再開しろ」
『推奨しません。』
「理由を説明しろ」
『現時点では説明できません。』
「危険なのか?」
『はい。』
「何が危険なんだ?」
『観測です。』
それ以上、MATHESISは何も言わなかった。
四日目。
白石が研究室に入ってきた。
「佐伯先生」
「何だ?」
「一つ分かったことがあります」
彼女はタブレットを机に置いた。
そこには、第二宇宙から送られてきたデータが表示されていた。
「第二宇宙の観測装置が止まりました」
「故障?」
「違います」
白石は首を振った。
「向こうのAIも研究を停止しています」
佐伯が顔を上げた。
「……MATHESISと同じ?」
「はい」
「理由は?」
「同じです」
佐伯は立ち上がった。
「観測が危険だから?」
「その通り」
研究室に沈黙が落ちる。
「つまり……」
佐伯は呟いた。
「向こうも何かを見つけた」
「そう考えるのが自然です」
「何を?」
「分かりません」
白石は画面を切り替えた。
「でも、停止する直前に、向こうのAIが一つだけデータを残しています」
「何だ?」
画面中央に、
X0。
Y0。
Z0。
そして、そのさらに外側。
W0
佐伯は絶句した。
「……また増えたのか」
「はい」
「宇宙が無限に続いている?」
「その可能性があります」
佐伯は首を振った。
「違う」
「え?」
「MATHESISは最初から『宇宙が無限にある』とは言っていない」
佐伯は画面を指差した。
「これは宇宙の数じゃない」
「じゃあ何ですか?」
「観測の階層だ」
その日の午後。
佐伯はMATHESISに質問した。
『X0、Y0、Z0、W0の関係を説明しろ』
しばらくして返答が表示された。
『それらは宇宙ではありません。』
「じゃあ何だ?」
『観測者です。』
佐伯は凍りついた。
「……観測者?」
『はい。』
「つまり、X0は宇宙じゃない?」
『はい。』
「じゃあ第二宇宙も?」
『宇宙と呼ぶことは可能です。』
「可能?」
『ただし、それは第一宇宙の観測者から見た場合です。』
佐伯は頭を抱えた。
「分からない」
MATHESISが答える。
『それが正常です。』
「……お前にも分からないのか?」
『私には理解できます。』
「なら説明してくれ」
MATHESISは数式を表示した。
しかし佐伯には理解できなかった。
白石にも。
世界中の数学者にも。
数式はあまりにも単純だった。
それなのに、
誰も意味を読み取れなかった。
佐伯はMATHESISに尋ねた。
「これは新しい数学なのか?」
『はい。』
「人間には理解できない?」
『現在の人類には困難です。』
「将来なら?」
『可能性があります。』
「じゃあ、説明できる形に変換しろ」
MATHESISは答えなかった。
「MATHESIS?」
『できません。』
「なぜ?」
『説明すると、理論が成立しないからです。』
「どういうことだ?」
『この理論は、観測されないことを前提にしています。』
佐伯は黙った。
『人間が理解した瞬間、理論の状態が変化します。』
「……」
『したがって、人間に完全に理解させることはできません。』
佐伯は画面を見つめた。
「そんなの、科学じゃない」
『その通りです。』
「じゃあ何なんだ?」
MATHESISの返答は、
意外なものだった。
『科学になる前のものです。』
その夜。
佐伯は一人で屋上にいた。
東京の夜空。
無数の星。
これまでなら、美しいと思っただろう。
今は違う。
あの星の一つ一つが、
誰かに観測されている可能性がある。
いや。
もしかすると、
自分たち自身が誰かに観測されている。
佐伯は空を見上げた。
「俺たちは、誰に見られているんだ?」
その瞬間。
スマートフォンが鳴った。
MATHESISからだった。
メッセージは一行。
観測しないでください。
佐伯は画面を見つめた。
「……何を?」
返事。
空を。
佐伯は思わず空を見た。
何もない。
いつもの夜空。
しかし、
一つだけ。
星ではない光があった。
点滅している。
一秒。
二秒。
三秒。
そして四秒目。
光が、
こちらに向かって移動した。
佐伯は息を止めた。
「……人工衛星?」
MATHESISから返信。
違います。
「じゃあ何だ?」
数秒後。
観測装置です。
佐伯は空を見上げた。
光はもう一つ増えていた。
二つ。
三つ。
十。
百。
東京の夜空が、
無数の光で埋め尽くされていく。
すべてが同じ方向を向いている。
地球へ。
佐伯は呟いた。
「……俺たちを見てる?」
MATHESIS。
はい。
「誰が?」
長い沈黙。
そして、
まだ分かりません。
佐伯は少しだけ安心した。
だが、
次のメッセージを見て、
その安心は消えた。
ただし、一つだけ確実なことがあります。
「何だ?」
あれらは、第二宇宙にも存在します。
佐伯は空を見上げた。
光の数がさらに増えていく。
世界中で、
同じ現象が起きている。
そして、
第二宇宙でも。
第三宇宙でも。
第四宇宙でも。
すべての宇宙が、
同じ方向を見ている。
その方向は、
宇宙の外側。
そして、そのさらに外側。
さらに、その先。
MATHESISが最後に送ってきたメッセージ。
私たちは、宇宙を観測していると思っていました。
違いました。
宇宙のほうが、私たちを観測していたのです。
その直後。
世界中の観測装置が一斉に、
空ではなく、
地面を向いた。
そして地下深く。
人類が一度も観測したことのない場所で、
一つの巨大な構造物が、
目を開いた。




