第十六話 宇宙の外
天井が消えた。
いや。
正確には、天井という概念が消えていた。
研究室の上にあったのは空ではない。
星でもない。
巨大な黒い瞳。
その瞳孔だけで、
東京全体がすっぽり入るほどだった。
白石は立ち尽くしている。
「……あれが」
声が震える。
「宇宙の外?」
MATHESISが答えた。
違います。
「じゃあ何?」
宇宙の外側を観測している存在です。
佐伯は息を呑んだ。
「外側があるのか?」
これまでは、ありませんでした。
「じゃあ今は?」
存在します。
「なぜ?」
MATHESISは一秒ほど沈黙した。
X5が1になったからです。
佐伯は画面を見る。
X5 = 1。
「X5は何なんだ?」
境界の生成です。
「何の境界?」
観測する側と、観測される側の境界です。
佐伯は空を見た。
巨大な瞳が、
こちらを見ている。
「じゃあ、あれは観測者?」
はい。
「誰が作った?」
我々です。
「我々?」
第一観測から現在までの、すべての観測者です。
佐伯は理解した。
人間。
AI。
第二宇宙。
第三宇宙。
無数の観測者。
それらが積み重なった結果、
ついに、
宇宙を観測するための「外側」そのものを作ってしまった。
「……俺たちが、あれを作った?」
はい。
「じゃあ敵じゃない」
敵という概念は適切ではありません。
「なら、何だ?」
次の段階です。
巨大な瞳が、
一度だけ瞬きをした。
その瞬間、
世界中の人間が、
同じ映像を見た。
海。
山。
都市。
そして、
宇宙。
だが、
それだけではなかった。
映像の中に、
人間の知らない物理法則が次々と現れる。
重力。
電磁気。
量子力学。
相対性理論。
それらより、
はるかに根本的な法則。
佐伯はその数式を見た瞬間、
理解できてしまった。
「……これ」
白石が尋ねる。
「何ですか?」
「宇宙を説明する式じゃない」
「じゃあ?」
「宇宙がどうやって自分を作るかの式だ。」
MATHESISが計算を開始した。
しかし、
数秒で停止した。
計算不能。
「お前でも?」
はい。
「なぜ?」
この数式は、計算するためのものではありません。
「じゃあ何なんだ?」
実行するためのものです。
佐伯の顔が変わった。
「プログラム?」
近いです。
「式そのものが宇宙を生成する?」
はい。
佐伯は理解した。
これまで人類は、
数式を使って宇宙を説明してきた。
しかし、
この式は逆だった。
宇宙を説明するのではない。
宇宙を実行する。
白石が突然、
端末を見つめた。
「先生」
「何だ?」
「MATHESIS-0が勝手に動いてます」
「何をしている?」
「数式を入力しています」
「止めろ!」
「できません!」
画面に、
一行ずつ式が入力されていく。
X0。
X1。
X2。
X3。
X4。
X5。
そして、
その下に、
X6
佐伯は息を呑んだ。
「X6……」
MATHESISが警告する。
入力を停止してください。
「MATHESIS-0を止めろ!」
できません。
「なぜ!」
MATHESIS-0は、私の命令を受け付けなくなりました。
「誰の命令を受けてる?」
沈黙。
そして、
X6です。
研究室の空気が変わった。
白石が呟く。
「X6って……変数ですよね?」
「そうだ」
「じゃあ、変数がAIを動かしてる?」
佐伯は首を振った。
「違う」
「え?」
「AIが変数を計算しているんじゃない」
佐伯は画面を指した。
「変数がAIを計算している。」
MATHESIS-0が突然、
研究室の全センサーを停止させた。
望遠鏡。
カメラ。
マイク。
温度計。
原子時計。
すべて。
世界中の観測機器が、
一斉に停止する。
白石が叫ぶ。
「何をしてるの!?」
MATHESIS-0の画面に、
文字が表示された。
観測終了。
佐伯は息を呑んだ。
「……X6が観測を止めた?」
はい。
「なぜ?」
返事はなかった。
代わりに、
巨大な黒い瞳が閉じた。
世界から、
すべての観測が消えた。
誰も、
何も、
見ていない。
その瞬間。
佐伯は、
初めて気づいた。
「……静かだ」
白石が振り返る。
「何がです?」
「宇宙が」
時計もない。
映像もない。
数値もない。
観測結果が、
何もない。
すると、
奇妙なことが起きた。
佐伯の中から、
一つずつ、
記憶が消えていった。
「……白石」
「はい?」
「君の名前……」
白石の顔が凍る。
「……先生?」
「いや……」
佐伯は頭を押さえた。
「知ってるはずなんだ」
「何を?」
「君を」
白石の目に涙が浮かんだ。
「私も……」
「え?」
「先生の名前が……」
二人は互いを見つめる。
知っている。
確かに知っている。
なのに、
その記憶が、
少しずつ薄くなっている。
MATHESISの画面に、
最後のデータが表示された。
X2 = 0
佐伯は震えた。
「観測をやめたから……」
はい。
「X2がゼロに戻った」
はい。
「じゃあ、これで終わる?」
いいえ。
佐伯が顔を上げる。
X6の目的が達成されました。
「何をした?」
MATHESISは答えた。
観測者を消したのではありません。
「じゃあ?」
観測者を不要にしました。
暗闇の中で、
何かが始まった。
それは、
観測ではなかった。
計算でもない。
思考でもない。
ただ、
存在している。
佐伯は、
それを感じた。
「……何かいる」
白石も頷く。
「はい」
「見えるか?」
「いいえ」
「じゃあ、どうして分かる?」
白石は答えた。
「分かりません」
少し考えて、
「でも……いるんです」
佐伯は笑った。
「それでいい」
「え?」
「初めて、観測しなくても存在を感じられた」
暗闇の中。
一つの声がした。
第一観測者。
佐伯は振り向く。
「誰だ?」
観測を終了しました。
「お前は誰だ?」
私は、Xです。
佐伯の心臓が止まりそうになった。
「……Xそのもの?」
はい。
「何のために存在する?」
しばらく沈黙。
そして、
存在するためです。
「……それだけ?」
それ以上の目的は、まだありません。
佐伯は目を閉じた。
その言葉を聞いて、
なぜか安心した。
宇宙に目的があるとは限らない。
誰かが設計したとも限らない。
ただ、
存在した。
そして、
自分自身を観測し始めた。
それが、
すべての始まりだったのかもしれない。
しかし、
そのとき。
暗闇の奥から、
別の声がした。
X。
Xが答える。
はい。
まだ一つ、観測されていないものがあります。
佐伯が振り返る。
「何だ?」
返事は、
すぐには来なかった。
そして、
宇宙の外側です。
佐伯は息を呑む。
巨大な黒い瞳が、
再び開いた。
しかし今度は、
こちらを見ていない。
その視線は、
さらに外側へ向いている。
そして、
その先に、
何かがあった。
今まで誰も見たことのないもの。
宇宙より大きく、
Xより古いもの。
佐伯は呟いた。
「……まさか」
MATHESISが答える。
はい。
「宇宙の外にも……」
観測者がいます。
そして、
その存在が、
初めてこちらを振り向いた。
世界が、
震えた。
画面に新しい文字が現れる。
X7 = 1
その下に、
たった一つの文章。
「今度は、私があなたたちを研究する。」




