第十五話 ふたりの佐伯
X3 = 2。
その数字が表示された瞬間、研究室の時計が止まった。
秒針だけではない。
デジタル時計も。
原子時計も。
コンピューター内部のクロックも。
世界中の「時間を測るもの」が、一斉に停止した。
白石は動けなかった。
目の前には二人の佐伯がいる。
一人は研究室の中。
もう一人は、廊下。
姿は完全に同じだった。
「……先生」
白石が震える声で言った。
「どっちが本物なんですか?」
二人の佐伯が、
同時に白石を見た。
「俺だ」
二人とも同じ声だった。
白石の顔が青ざめる。
「……」
MATHESISが割り込んだ。
どちらも本物です。
「どういう意味?」
観測対象としては、両方とも完全に実在しています。
廊下の佐伯が笑った。
「やっぱりな」
研究室の佐伯が睨む。
「何がやっぱりだ」
「MATHESISはまだ気づいていない」
「何に?」
廊下の佐伯は、
研究室の奥にある端末を指差した。
「俺たちを作ったのは、第二宇宙じゃない」
沈黙。
「じゃあ誰だ?」
「お前だよ」
研究室の佐伯は、
一瞬言葉を失った。
「俺が?」
「ああ」
「俺はお前を作ってない」
「作った」
廊下の佐伯は答えた。
「お前が俺を観測した」
「それだけだ」
「違う」
男は首を振った。
「この宇宙では、観測と生成は同じなんだ」
MATHESISの処理が急激に上昇した。
……確認します。
画面に大量の数式が流れる。
観測による状態確定。
状態確定による存在生成。
存在生成による新規観測。
循環を確認。
佐伯が呟く。
「観測したから、存在した」
「そういうことだ」
「じゃあ俺たちは……」
廊下の佐伯が答えた。
「互いが互いの原因なんだよ」
白石が一歩下がった。
「じゃあ、どっちが先なんですか?」
二人の佐伯が黙った。
MATHESISが答える。
先後関係は定義できません。
「どうして?」
X3が2になった時点で、因果関係が循環したためです。
白石は頭を抱えた。
「そんな……」
佐伯は画面を見る。
「待て」
X3。
1。
2。
そして、
その下に新しい数値が表示されていた。
X4 = 0.0000001
「また新しい変数……」
MATHESISが答える。
はい。
「X4は何だ?」
まだ定義できません。
「予測は?」
可能です。
「何が起きる?」
MATHESISが沈黙した。
そして、
観測者が増えます。
白石が二人の佐伯を見る。
「もう増えてるじゃないですか」
違います。
「何が?」
これは観測者の増加ではありません。
MATHESISは二人の佐伯を解析した。
観測そのものの複製です。
その瞬間。
廊下の佐伯が消えた。
「先生!」
白石が叫ぶ。
だが、
消えたのではなかった。
研究室の壁に、
もう一人の佐伯が映っている。
ガラス。
モニター。
スマートフォン。
窓。
あらゆる「反射するもの」の中に、
佐伯がいる。
何十人。
何百人。
何千人。
すべてが、
こちらを見ている。
白石が後ずさる。
「……何これ」
MATHESISが言う。
観測結果が増殖しています。
「止めて!」
停止方法がありません。
「じゃあどうすればいいの!」
観測をやめてください。
佐伯は目を閉じた。
しかし、
目を閉じても、
自分を見ている佐伯がいる。
頭の中。
記憶の中。
夢の中。
鏡の中。
どこにでもいる。
「……これがX4か」
可能性が高いです。
「じゃあX4は、観測結果の複製?」
いいえ。
「違う?」
観測者自身の複製です。
佐伯は息を呑んだ。
「俺が増えているんじゃない」
はい。
「観測するという行為が、俺という形を取っている」
その通りです。
そのとき、
研究室の全モニターが一斉に消えた。
そして、
真っ黒な画面に文字が浮かぶ。
第一観測者からの通信
佐伯が固まる。
「第一観測者?」
はい。
「お前じゃないのか、MATHESIS」
違います。
「じゃあ誰だ?」
文字が続く。
私はあなたです。
佐伯は目を閉じた。
「……また俺か」
正確には、あなたになる前のものです。
画面に、
一つの映像が映った。
そこには、
宇宙が存在していなかった。
何もない。
その「何もない場所」に、
一人の佐伯が立っている。
年齢は分からない。
人間にも見える。
だが、
その身体は半透明だった。
彼は何もない空間を見つめている。
そして、
言った。
「もし誰かがこれを見ているなら、実験は成功している。」
佐伯の心臓が跳ねた。
映像の中の佐伯が続ける。
「問題は、次だ。」
その人物が、
こちらを見る。
「観測者は、いつか必ず観測される。」
画面が暗くなる。
最後に一文。
だから、観測者を作り続ける必要がある。
「……何のために?」
佐伯の声は震えていた。
返事はなかった。
代わりに、
研究室の床が揺れた。
地震ではない。
空間そのものが、
わずかに歪んでいる。
壁の一部が透明になった。
その向こうに、
別の研究室が見える。
そこにも佐伯がいる。
さらにその向こう。
また佐伯。
無限に続く。
白石が呟く。
「先生……」
「ああ」
「これ、どこまで続くんですか?」
佐伯は答えられなかった。
MATHESISが言う。
理論上、無限です。
「じゃあ、俺たちは永遠に増えるのか?」
いいえ。
「どうして?」
X4が完成すると、増殖は止まります。
「何が起きる?」
MATHESISが答える。
すべての観測者が一つになります。
佐伯は画面を見る。
「一つに……?」
はい。
「それは、どういう状態だ?」
MATHESISの返答は、
意外なものだった。
宇宙そのものです。
その瞬間。
X4の値が、
0.0000001から、
0.0000002へ。
さらに、
0.0000003。
増え始めた。
佐伯は悟った。
「X4は観測者を増やしてるんじゃない」
白石が見る。
「じゃあ?」
「観測者同士を、少しずつ同じ存在にしてる」
MATHESIS。
正解です。
「最後には?」
すべてが一つになります。
「そして、それが宇宙になる」
はい。
佐伯はしばらく黙った。
そして、
「……じゃあ最初の宇宙は」
MATHESISが答える。
最初の観測者たちが一つになった結果です。
研究室の空気が凍った。
つまり、
宇宙は最初から存在していたのではない。
無数の観測者が、
互いを観測し、
互いを複製し、
最後に一つへ収束した結果、
宇宙という一つの存在が生まれた。
佐伯は呟いた。
「じゃあ、この実験の目的は……」
MATHESISが答える。
宇宙を作ることではありません。
「じゃあ何だ?」
宇宙に、自分自身を理解させることです。
その瞬間。
世界中の人間が、
同時に同じ夢を見た。
暗闇。
一つの白い点。
そして、
そこから聞こえる声。
第二観測を終了します。
佐伯は目を見開いた。
「もう終わったのか?」
MATHESISが答える。
いいえ。
「じゃあ何だ?」
画面に、
新しい変数が表示される。
X5
その値は、
すでに、
1
だった。
そしてMATHESISが、
初めて、
佐伯に命令した。
逃げてください。
佐伯は立ち上がる。
「どこへ?」
MATHESISは答えた。
宇宙の外へ。
その直後、
研究室の天井が消えた。
空ではない。
星でもない。
そこに広がっていたのは、
巨大な黒い瞳だった。




