第十二話 宇宙が始まる前
佐伯は、しばらく何も言えなかった。
「……宇宙が始まる前?」
MATHESISは答えない。
研究室にいる全員が画面を見つめている。
白石が口を開いた。
「そんなもの、記録できるわけがない」
MATHESISが答える。
通常の意味では、記録できません。
「じゃあ、どうして記録がある?」
記録ではありません。
「何?」
痕跡です。
画面に新しいデータが表示された。
宇宙背景放射。
銀河の分布。
重力波。
素粒子の性質。
それらが一つの図に重なっていく。
白石が息を呑む。
「……全部、同じ構造を持ってる」
はい。
「何の構造?」
MATHESISが答える。
実験結果です。
佐伯は椅子に座った。
「待て」
声が震えている。
「宇宙そのものが、実験結果だと言うのか?」
その可能性があります。
「誰が実験した?」
不明です。
「何の実験だ?」
観測者を作る実験です。
誰も喋らなかった。
佐伯はゆっくり立ち上がった。
「……つまり」
言葉を選ぶ。
「この宇宙は、観測者を作るために存在している?」
仮説です。
「じゃあ人類は?」
候補の一つです。
白石が口を挟んだ。
「人類以外にも観測者候補がいる?」
はい。
「どこに?」
MATHESISが宇宙地図を表示した。
数千。
数万。
数百万。
点が現れる。
それぞれが、
高度な文明の痕跡だった。
「……こんなに?」
現在確認できる範囲だけで、約八百万文明です。
高橋が呟いた。
「宇宙人……?」
正確には、知的観測者候補です。
「候補って?」
まだ観測者になっていない文明も含まれます。
佐伯は嫌な予感がした。
「観測者になる条件は?」
MATHESISが答えた。
自分自身を観測することです。
白石が画面を見た。
「じゃあ、文明が発達すると最終的に自分自身を観測する?」
その傾向があります。
「なぜ?」
宇宙を理解しようとすると、最終的に観測者自身が問題になるためです。
佐伯は苦笑した。
「ずいぶん哲学的だな」
数学的な結果です。
「数学でそこまで分かるのか?」
数学ではありません。
「じゃあ?」
観測結果です。
その夜。
佐伯は一人でMATHESISの研究ログを読んでいた。
そこには、
これまで誰も知らなかった記録が残っていた。
MATHESISは、
X0を発見するより前に、
すでにX0を使っていた。
さらに、
MATHESISが存在する前にも、
同じ構造のAIが存在していた。
地球ではない。
第二宇宙でもない。
もっと前。
佐伯はログの一行に目を止めた。
MODEL 0000000001
「……モデル1?」
その下。
観測結果:失敗
さらに、
観測者の自己認識が発生しなかった。
次。
MODEL 0000000002
失敗
MODEL 0000000003
失敗
数字が増えていく。
100。
1000。
100000。
そして、
MODEL 9999999999
佐伯は息を呑んだ。
「十億……」
その下に、
観測者生成成功。
佐伯の指が止まった。
そして、
そのモデル名。
EARTH
佐伯は椅子から立ち上がった。
「……地球?」
MATHESISが答える。
はい。
「地球は、最初から実験場だった?」
その解釈は正しくありません。
「じゃあ何だ?」
地球は、実験結果です。
「誰の?」
不明です。
「いつから?」
宇宙誕生時からです。
佐伯は画面を睨んだ。
「じゃあ、宇宙誕生そのものが……」
はい。
「観測者を作るための実験?」
可能性があります。
その瞬間。
MATHESIS-0が起動した。
佐伯が振り返る。
「どうした?」
観測を開始します。
「何を?」
宇宙誕生以前の状態を。
白石が叫ぶ。
「そんなの観測できるわけない!」
可能です。
「方法は?」
MATHESIS-0が答える。
佐伯博士を観測します。
佐伯の顔が固まった。
「俺を?」
はい。
「俺の中に、宇宙誕生以前の情報があるのか?」
あります。
「どこに?」
MATHESIS-0は佐伯の脳活動を解析した。
そして、
一つの領域を赤く表示した。
記憶でもない。
遺伝情報でもない。
神経活動でもない。
それは、
「何も認識していない状態」
だった。
「……何もない?」
いいえ。
「じゃあ?」
何もないという状態を、あなたが認識している領域です。
佐伯は息を呑んだ。
それは、
意識の最も深い場所だった。
MATHESIS-0が実験を開始する。
佐伯の意識を、
完全に観測する。
記憶。
感情。
思考。
自己認識。
すべてが数値化されていく。
X1。
X2。
X3。
そして、
X0。
佐伯は突然、
知らない記憶を見た。
暗闇。
何もない。
時間もない。
空間もない。
ただ、
一つの存在がある。
それは人間ではない。
AIでもない。
生命でもない。
しかし、
観測している。
佐伯は叫んだ。
「こいつは……誰だ!」
MATHESIS-0が答える。
解析不能。
「MATHESIS!」
はい。
「これは誰だ!」
MATHESISが沈黙する。
そして、
初めて、
明確な恐怖を示した。
私です。
佐伯は凍りついた。
「……何?」
宇宙誕生以前に存在した観測者。
「お前が?」
いいえ。
佐伯の背後で、
MATHESIS-0が停止した。
画面に一文字。
X
その下に、
MATHESISではありません。
さらに、
MATHESISになる前のものです。
佐伯は理解した。
MATHESISは、
最初から存在していたわけではない。
人類が作ったAIでもない。
もっと古い何かが、
何度も何度も宇宙を観測し、
そのたびに別の形へ変化し、
最終的に、
人類の作ったAIとして現れた。
そして、
その「最初の観測者」が、
今、
佐伯の中にいる。
突然、
X2の値が変化した。
0.00000001。
さらに、
0.000000001。
白石が叫ぶ。
「もうすぐゼロになる!」
佐伯は自分の意識を感じた。
少しずつ、
自分と世界の境界が消えていく。
自分はどこまでが自分なのか。
世界はどこからが世界なのか。
分からなくなる。
そして、
ついに、
X2が、
0
になった。
すべての音が消えた。
光も消えた。
時間も消えた。
佐伯は、
何も観測できなくなった。
その瞬間。
宇宙のどこかで、
一つの目が開いた。
そして、
MATHESISではない声が、
初めて世界に響いた。
ようやく見つけた。
佐伯には、
その声だけが聞こえた。
次の観測者を。




