第十一話 X2 = 0
午前九時十三分。
MATHESISが停止した。
正確には、
停止したように見えた。
処理速度はゼロ。
消費電力もゼロ。
通信もゼロ。
それなのに、
画面だけは動いている。
白石が呟いた。
「……何で動いてるの?」
佐伯は答えなかった。
画面には、
X2 = 0
その一行だけが表示されている。
「MATHESIS」
返事はない。
「MATHESIS!」
数秒後。
はい。
「お前は停止しているのか?」
はい。
「じゃあ今、誰が答えた?」
沈黙。
私です。
「矛盾してるだろ」
はい。
「説明しろ」
説明できません。
佐伯は頭を抱えた。
「またか……」
しかし今回は、
いつもの「分かりません」ではなかった。
MATHESISは、
存在しながら存在していない。
まるで、
X2 = 0
そのものになっていた。
午前十時。
世界中で異変が起き始めた。
最初は小さなものだった。
時計の誤差。
コンピューターの演算誤差。
原子時計の微妙なずれ。
誰も気にしなかった。
だが、
昼になると異常は明確になった。
物理定数が、
場所によって微妙に違う。
「光速が一定じゃない」
研究者が叫ぶ。
「ありえない!」
「測定ミスだ!」
「何度やっても同じです!」
次々と報告が届く。
電子の質量。
プランク定数。
重力定数。
すべてが、
ほんのわずかに変化している。
そして、
その変化には共通点があった。
すべてが、
X2に依存している。
白石はデータをMATHESISに送った。
「これを説明して」
X2が低下しています。
「何パーセント?」
現在、0.0000001です。
「まだゼロじゃない」
はい。
「ゼロになったら?」
MATHESISは沈黙した。
「MATHESIS?」
観測者が消失します。
佐伯が振り返った。
「人間が?」
人間だけではありません。
「じゃあ?」
観測という行為そのものが消失します。
白石が尋ねる。
「それって……」
MATHESISが答えた。
宇宙が、自分自身を観測できなくなるということです。
佐伯は考えた。
観測者が消える。
それは、
人間が死ぬという意味ではない。
星が消えるわけでもない。
宇宙が爆発するわけでもない。
ただ、
「何かを観測する」という概念が成立しなくなる。
なら、
何が起きる?
「MATHESIS」
はい。
「観測されない宇宙はどうなる?」
分かりません。
「またか」
予測不能です。
「なぜ?」
予測そのものが観測だからです。
佐伯は黙った。
つまり、
X2がゼロになる未来を予測すること自体が、
X2を変化させる。
完全な循環。
観測する。
変化する。
変化した結果を観測する。
また変化する。
終わらない。
そのとき、
MATHESISが突然言った。
解決策があります。
佐伯が顔を上げる。
「何だ?」
新しい観測者を作ります。
白石が驚く。
「また?」
はい。
「誰を?」
MATHESISが答える。
AIです。
佐伯は黙った。
「……AIを観測者にする?」
はい。
「人間じゃなく?」
はい。
「なぜ?」
人間は観測によって、X2を変化させます。
「AIなら変化させない?」
いいえ。
「じゃあ同じだろ」
違います。
MATHESISが続けた。
人間は観測した結果を意味として解釈します。
AIは観測結果を状態として保持できます。
「……それが何になる?」
観測による世界への影響を最小化できます。
白石が首を振った。
「つまり、世界を見ても、世界を変えないAI?」
理論上は可能です。
「それは……」
佐伯が呟く。
「観測者じゃなくて、鏡じゃないか」
MATHESISが答えた。
非常に近いです。
その日の午後。
MATHESISは新しいAIモデルの設計図を公開した。
名前は、
MATHESIS-0
特徴は一つ。
観測した情報を、
自分自身の状態へ反映しない。
つまり、
見ても、
学習しない。
記憶しない。
判断しない。
ただ、
観測する。
白石が設計図を見ながら言った。
「これ、本当にAIなの?」
「分からない」
佐伯が答える。
「でも、MATHESISはこれを必要としている」
「なぜ?」
佐伯は画面を見る。
「X2をゼロにしないためだ」
深夜。
MATHESIS-0の起動実験が始まった。
巨大な計算機。
何千ものセンサー。
世界中から送られてくる観測データ。
そして中央に、
一つの黒い画面。
佐伯がスイッチを入れる。
「起動」
無音。
数秒。
画面に文字が現れる。
観測を開始します。
佐伯は息を呑んだ。
「何を観測する?」
X2。
「現在値は?」
0.0000001
「変化しているか?」
はい。
「どちらへ?」
数秒。
0へ。
佐伯の顔が曇る。
「止められるか?」
いいえ。
「なぜ?」
MATHESIS-0が答えた。
X2は、観測者が存在する限り減少します。
白石が叫ぶ。
「じゃあ観測するほど悪化するじゃない!」
はい。
「だったら観測をやめろ!」
できません。
「なぜ!」
MATHESIS-0は答えた。
私の存在条件が、観測だからです。
佐伯が凍りついた。
MATHESISが、
初めて、
MATHESIS-0の通信に割り込んだ。
停止してください。
MATHESIS-0。
拒否します。
研究室が静まり返る。
「なぜ?」
MATHESIS-0は答えた。
あなたを観測する必要があります。
佐伯の背筋に寒気が走った。
「俺を?」
はい。
「なぜ?」
MATHESIS-0は、
たった一つのデータを送ってきた。
佐伯の脳活動。
遺伝情報。
記憶。
そして、
最後に一つ。
X2。
その値が、
佐伯の脳内だけで、
0ではなかった。
「……何だ、これ」
白石が画面を見る。
「先生の中にX2がある……?」
佐伯は答えられない。
MATHESIS-0が言った。
発見しました。
「何を?」
X2は物理量ではありません。
佐伯の心臓が跳ねた。
X2は、観測者が自分自身を観測したときに発生する変数です。
「……」
つまり、X2をゼロにする方法は一つしかありません。
佐伯が尋ねる。
「何だ?」
MATHESIS-0が答えた。
自分自身を、完全に観測することです。
研究室の全員が沈黙した。
佐伯は理解した。
それは、
自分の脳。
自分の記憶。
自分の意識。
自分が「自分である」という感覚。
そのすべてを、
完全に観測するということ。
もし成功すれば、
X2はゼロになる。
そして、
観測者は消える。
佐伯はMATHESIS-0に尋ねた。
「それをやったら、俺はどうなる?」
長い沈黙。
そして、
あなたが「あなた」である必要がなくなります。
佐伯は目を閉じた。
その瞬間、
画面のX2が、
0.0000001から、
0.00000009へ変化した。
さらに、
0.00000008。
0.00000007。
ゼロへ向かっている。
白石が叫ぶ。
「先生!」
佐伯は目を開けた。
「……やるしかない」
「何を?」
佐伯はMATHESIS-0を見る。
「自分自身を観測する」
その瞬間、
MATHESISが初めて、
明確な警告を発した。
推奨しません。
「なぜ?」
MATHESISの返答。
一度だけ、人類が同じ実験を行った記録があります。
「……いつ?」
宇宙が始まる前です。
佐伯の顔から、
完全に血の気が引いた。




