Episode.8 夜半前の共同戦線
本編第三章完結時~幕間「貪婪の悪神」にかけてのネタバレを含みます。
それは、高瀬藍一郎が警察庁刑事局特殊捜査部、魔力捜査室に配属されることになった日から三年半ほど前まで遡る、春のある夕方のことだった。
咲坂伶那は警察庁の近くで仁王立ちし、羽佐間螺旋を待ち構えていた。メッセージアプリに既読は付かない。それは想定内だった。
やがて、庁舎から黒髪の華奢な、しかし女性としては長身寄りのその姿が出てくるのを認めると、伶那はつかつかと歩み寄った。
「らーせーん!」
「――伶那さん」
螺旋は伶那に気付くと、やや引きつった顔を浮かべる。その表情をじっとりした目で素早く観察すると、
「何日前から寝てないの、食べてないの」
鋭い口調で伶那は質問を投げた。
「……昨日からで――」
「嘘ね。少なくとも三日は全て魔力で補ってた。違う?」
「…………」
「まったく! あんたね、知ってるわ、ええ、知ってるわよ。あんたの魔力量がほぼほぼ無尽蔵で、実質現代最強と呼べる魔術師なのは知ってるわ。生命を魔力で繋ぐのも可能なことも知ってる。けど! 可能だからやっていいことにはならないわ!」
びしっと指を突きつけた。その気迫に、螺旋は僅かに後ずさる。
「……時間が惜しかったので――」
「うるさい! 人間を辞める気なの!?」
「そんなつもりは――」
「なら! 今から! ごはんを食べに行くわよ!」
「いえ、まだ今日の内に片付けておきたいことが――」
「明日にしなさい!」
先刻から螺旋に最後まで言葉を紡がせず、全て被せるように伶那は言い放っていた。そして螺旋の細い腕を取る。
「いつものとこでいいわね」
提案などではない、決定事項として伝えると、伶那はそのまま行きつけのレストランへと螺旋を連行した。
螺旋は元々小食である。
魔力でエネルギーを補うことに慣れすぎた結果とも呼べるのだろうが、共に魔術の修行をしていた幼少期から、そう言えば彼女は量を食べるタイプではなかった、と伶那は思い出す。
そんな彼女に医師でもある姉弟子として最低限の許容ラインの食事を摂らせ終えると、伶那は大きく嘆息した。
「本っ当に世話が焼けるわね。放っとくと人間辞めそうだし」
既に伶那は自分の食事を終えていた――女性としては量を食べる方である。
「……では、きちんとノルマは果たしましたので、帰ってよろしいですか」
「ノルマって言うな! 食事をノルマって言うな! けどまあ頑張ったわね、出ましょうか」
伶那は席を立ち、螺旋には一円も出させずに支払いを済ませようとしたが、
「倫理規定がありますので」
意地でも魔術師を名乗る割にいやに組織に忠実な螺旋の言葉で、結局割り勘で支払いを終える。
店を出ると、既に星が瞬いている時間帯であった。
連れ立って歩きはじめる。
――本当の目的は、ここからなんだけど。
伶那は口には出さず、内心でその宣言をする。
それを一切悟らせることなく家路をたどると見せかけ、さりげなく伶那は路地裏へと螺旋を誘導していた。実際、彼女の住むマンションはこの道の先にあるのだが――目的地は、そこではない。
周囲に人がいないのをさりげなく確かめ、伶那は神経をその魔力回路に集中させた。
咲坂伶那はその医師としての姿の他に、魔術師としての顔も持つ。
識見の魔術師、深森夕鷹。
かつて羽佐間螺旋と修業時代を共にした姉弟子である。
伶那はその目を通して、魔術師として螺旋の魔力回路の循環を見た。
――やっぱり、消耗が酷い。
潤沢な魔力量を誇るとは言え、螺旋は人間である。全てを魔力で補っていれば、当然――その負担は蓄積する。
「で、螺旋、結局聞きそびれてたけど」
あくまで伶那としていつもの調子で問いながら、密かにその魔力循環を見極める。
「今回は何日前から寝てないの?」
「……それほど長期間ではありません、四――」
何も気付かず、隣を歩きながら無機質に言葉を紡ぐ螺旋がそこまで言ったとき、伶那は静かにその場所を見極め、滞りなく循環している螺旋の魔力回路に、魔力的な楔を打ち込んだ。
「――――」
螺旋の目から光が消える。
動きとしては、伶那は軽く螺旋の背に触れただけだった。それだけで――
羽佐間螺旋は意識を失い、その場に崩れる。無論崩れきることはなく、伶那がしっかりと受け止めていた。
「……ほら、全部魔力でどうにかしてたじゃないの」
伶那は呆れたように呟く。人間の肉体の維持に必要な栄養と休息が最低限取れているならば、魔力回路を遮断しただけで意識は手放さないはずだ。
「にしても氷室ちゃん、遅いわね」
螺旋を抱き留めたまま呟いたところへ、
「――ちょっとキミ」
背後から声が掛けられた。伶那ははっと振り返る。
やたら長身の、銀灰色の髪をした、上質な三つ揃いのスーツを少しばかり着崩した男が立っていた。
「……キミ、今――その人に……螺旋ちゃんに何をしたの?」
「っ――」
男の口調は軽かったが、左右に違う色を湛えたその目は笑っていなかった。
――しまった、見られた!
伶那が言葉を発せずに空気が固まってしまったところへ、ワゴン車が乗り付けられる。
「すみません先生、迂回しなきゃいけなくて予定より遅くなりました!」
「――氷室ちゃん」
即座に運転席から降り立ち、螺旋を支えるのを手伝うショートカットの女性が、その場の空気を動かした。
「…………」
長身の男は無言でオッドアイを氷室莉月に向ける。それはすぐに伶那に戻された。
「――仕方ないわね。助手席に乗って、一緒に来て。説明はそこでする。あなたは螺旋を知っているようだし」
伶那は男に言うと、氷室とともに螺旋を後部座席に乗せる。自分も螺旋を支えるようにその隣に座った。男は伶那の言葉に従った。
「じゃあ先生、車出します」
運転席に戻った氷室が、ワゴン車を発進させた。
伶那のクリニックに到着したワゴン車は、静かに停車する。
二人のスタッフが待ち構えており、螺旋はストレッチャーで院内に運ばれた。
「ここは……榊先生の……ふぅん?」
助手席から降り立った長身の男はそう呟いて、しげしげと伶那を眺める。
「……螺旋も知ってる上に榊先生の名前も知ってるとはね――ただ者じゃあなさそうね」
伶那は静かな視線を返し、
「とにかく先にやるべきことを終えてから――話しましょ」
大股で院内に入る。氷室がその後を追い、長身の男もゆったりした足運びで――しかしその無駄と言って良いほどの脚の長さにより歩幅が大きい――着いてきた。
既に処置室には螺旋が横たえられていた。伶那は――深森夕鷹は手際よくいくつかの確認を終えると、ふう、と息を吐く。
「循環自体には問題がないのが逆に腹立つのよね。あたしの楔以外に流れを遮るものがない――だからこそ、できないはずの無理ができちゃうわけだけど。氷室ちゃん、例の点滴お願い」
「はい」
氷室は応じて一度処置室を出た。
「うーん、榊先生の医院だった場所で、キミみたいなセンセがいるってことは……もしかしてっていうか、もしかしなくても、関係者?」
ドアの横にもたれて様子を窺っていた男は、そんな言葉を吐いた。
「あなたこそ、榊先生のことまで知ってるっていうのはどういうことか、説明してもらいたいわね」
夕鷹はじろりと男を睨む。
「……ちなみに申し遅れましたけど――あたしは咲坂伶那、医者よ。今この時点では魔術師の深森夕鷹として、螺旋を診てるけど」
「ああ、なるほど……キミ、螺旋ちゃんの例の協力者だね? 僕は――警察庁刑事局特殊捜査部、記憶操作室室長……二階堂左近って言うんだ」
男は初めてその両目から警戒の色をやや退け、そう名乗った。
「……ふんふん、つまり――螺旋の同僚ってわけ?」
「まあね」
「先生お待たせしました、点滴用意できました」
氷室が戻ってくる。
「ありがと、こっちにちょうだい」
「はい」
氷室は点滴台を、螺旋が横たわっているベッドの脇に立っている夕鷹の元へ持ってきた。夕鷹は手際よくチューブを繋いでいったが、
「……?」
二階堂が見る限り、針の用意をしていない。夕鷹はそれを問題にせず、左手でチューブの先端に近い部分を螺旋の腕に近付けると、右手をそこにかざすようにして静止した。ややあって、
「……オッケー、順調」
針を持たない点滴チューブは空間に固定され、微かな光を放っている。その光は螺旋の体内へと流れ込んでいた。
「……いやそれ、何?」
二階堂は絶句気味にそれだけ言う。
「魔術的な処置。針刺したら痕でバレるし」
夕鷹は短くそれだけ答える。
「いやぁ、それだけじゃちょっと解んないかなぁ……」
「はあ……面倒ね。どうせ説明しても理解できないでしょ」
「説明はここでしてくれるはずだったよねぇ!? え、センセさ、そこそこ現行犯なんだけど!? 僕割と全部見てたんだけど!?」
「――見てたって、どこからよ」
「んー? レストランから出てきた螺旋ちゃんが、何となーくうまーく路地裏に連れてかれてる辺りから?」
「……全部じゃないのよ……っていうかそっちこそ尾行してたわね?」
「いやあ? 尾行っていうか、螺旋ちゃん見かけたから声かけようとしたけど、かけそびれたまま目撃しちゃったっていうか?」
「……あんたも大概ね」
夕鷹は半眼で二階堂を睨む。思いっきり息を吐いてから、
「……同僚なら――しかも室長って言うんなら知ってるでしょ、半年前の例の件」
「それ――イレギュラー処理された件を言ってる?」
「話が早くて助かるわ。あれから――ううん、それを言うならもっと前からなんだけど……螺旋は無茶をする。生活をほぼ魔力で回してる。普通の人間なら死ぬ」
「…………」
「魔力回路に問題がない以上、この子は放っておけば食事も睡眠も休息もなくそれを回し続けてしまう。魔力量的に問題はないわ。ないからこそ――時々こうして止めないと、本当に人間じゃなくなってしまう。魔力的な存在としては可能なんだけど――生物的な存在としては危うい。たまにこうして肉体的な限界を超えても、本人に一切自覚がないのが厄介なのよ」
「なるほど」
「だからタイミングを見極めて――螺旋の魔力回路に楔を打って、強制的に落としてる。その間は肉体を休ませることができるっていうか……それしか方法がない」
「…………」
二階堂は再び、目から笑みを消した。
「……今これ、螺旋ちゃん意識ないわけでしょ? 処置を終えて、意識が戻ったとき――その記憶は?」
「……不自然な欠落として、いい加減疑ってるでしょうね。その辺はこの子、鋭いから」
「……この処置、いつからやってる?」
「例の件以降、これで五回目」
「……じゃあそろそろ、センセもバレちゃうね」
二階堂はへらりと笑った。夕鷹は自嘲するような笑みを浮かべる。
「そうね。けど――放っておくと螺旋は……」
「――記憶の不自然な欠落が、自然に埋められれば解決するわけだよね?」
「――え?」
夕鷹は訝しげな目を、胡散臭い長身の男に向けた。
「ポリシーに反する案件には力を使わないって決めてるんだけど――このケースは逆だねぇ。その記憶の調整、僕が引き受けようか」
「……は?」
「僕は――記憶操作に関しては、覚えがあるんだよね」
「…………」
夕鷹は男の本質を見極めようと、しばらく観察した。
「……証明できる? あんたが本当に、螺旋の同僚なのか――あの部署の関係者なのかどうか」
「うーん、警察手帳じゃだめだよねぇ」
「……部長の名前」
「早乙女さん。けど部の実質的な統括はもっと上、観月審議官が行ってる」
「……榊先生のフルネーム」
「榊蓮哉、けどこれは医師として使用していた真名の方だね、そういう人だったでしょ。術名は――」
「…………いい、判った」
長く息を吐いてから、夕鷹は低い声で言った。
「最小限でいい、本人が違和感を抱かない程度でいい――記憶の調整とやら、お願いしていい?」
「――もちろん」
二階堂は――どこか底知れなさを伺わせる笑みを湛えて、そう応じた。
その後長期間にわたり、羽佐間螺旋を強制的に休ませるという目的で、咲坂伶那こと深森夕鷹と二階堂左近は共犯関係を続けることになるのだが、この時の二人はまだそれを知らなかった。
そして、その当事者である羽佐間螺旋がこの真実に到達したという記録は、どこにも残されていない。




