Episode.4 エキスパートの好奇心
深夜の二・五階、魔捜部屋には、まだ灯りが点いていた。
「……なるほど、この数値にミスがあったからずっとエラーが出てたわけだ」
室内にいるのは情報分析官である黒峰準ただ一人である。室長である羽佐間螺旋にはなるべく早く切り上げて帰るように言われたが、ひとたび解析エンジンがかかった黒峰は、時間も忘れて情報の海に潜っていたのだった。
「じゃあこれを正しいものに書き換えて……これで問題ないはずだね」
いつもは後ろで一つに結んでいるだけの長髪を、更に邪魔にならないように高い位置でお団子にまとめている黒峰は、独りごちながら華麗に端末を操作してその作業を終えた。
「……ふう、エラー解消っと……ん? 待てよ? この構造式……」
黒縁眼鏡がきらりと光った。
「拡張空間に応用すれば……ちょっと便利になるんじゃあ?」
黒峰は優秀な分析官であり、特殊捜査部きっての情報のエキスパートである。
魔捜こと魔力捜査室に常駐しているが、本来の所属は情分こと情報分析室だ。支援要員として魔捜に派遣されているのだ――表向きは。
そして、魔捜や情分を含む特殊捜査部、通称特捜のフロアは、中央合同庁舎第二号館、警察庁に造り出された拡張空間に存在している。そのフロア管理は空管こと空間管理室が行っているのだが――
「……ちょっと、プログラムの試作だけ……」
黒峰は優秀で有能な技官である。そして基本的には善良な人間である。ただし、その好奇心に関しては底なし沼であった。
それから更に数時間、彼は端末の向こうにあるデータの海に潜り続けた。
――やるなら徹底的に、抜かりなく。プログラムの構築にミスがあってはならない。しかも応用対象は拡張空間である。構造式には慎重に触れるべきだ。
すっかり夜も明けた頃、黒峰はふっと端末から手を離した。
「――よし、できた」
大きく伸びをして、まとめていた髪を解く。いつもの位置に結び直してから、もう一度プログラムをチェックし、
「……うんうん、我ながら上出来だね。まあこれはお遊びみたいなものだからちょっとここランダムを入れてみよう、OK。じゃあ間違えて実行しないようにプロテクトをかけ――あ」
チェックボックスにカーソルを運んだはずの指が、滑った。
――次の瞬間、プログラムが起動した。
「――あ、やば」
奇しくもそれは、日勤の特捜メンバー――大抵は皆がそれに相当する――がそろそろ登庁してくる時間帯と重なっていた。
拡張空間への入り口である庁舎の二階と三階を繋ぐ階段を通って、フロアに足を踏み入れた未解こと未解決事件特別捜査室室長、柊智歩は、いつものように未解部屋のドアを開けたつもりだった。プレートにも確かにその名が記されていた。
「……ん?」
しかしドアの先に広がっているのは、見慣れた部屋ではなかった。
「……え、黒峰さん? え、何? ここ、もしかして魔捜?」
「……あ、柊さん……」
「え、どういうこと?」
「あー……いや、あの――」
「……黒峰さんさ、もしかしてまた――」
智歩はすぐに状況を理解した。
「――権限外の情報に触れたっていうか、いじった?」
「……はい、あの、すみません、ちょっと――うっかりプログラムを起動してしまって……」
「そのプログラム……構築許可って取ってる?」
「……取ってない、ですかね」
「……ああ、まあ、だろうね……」
智歩は嘆息する。いつものことと言えば――いつものことである。
「ちなみに今回は、何やらかしたんです?」
「あー……ちょっと、構造式をいじればショートカットできるなぁって……思いまして」
「……拡張空間の?」
「……はい」
「……全体?」
「まあ、はい、結果的に……全体に影響が及ぶかと……」
「……なるほどね、じゃあ……これから騒ぎが大きくなるだろうね」
智歩はスマートフォンを取り出し、室長連絡網を使って状況を簡潔に共有した。
既にその頃には、他の部署の職員も被害に遭い始めていた。空間の接続が書き換えられた結果である。
「…………」
黒峰が青ざめた。
「いや黒峰さん、青ざめるの遅いから! 構造式いじる前に気付いてよそれは!」
「……すぐに修正プログラムの構築を開始します」
「うん、そうだね、すぐにだね」
黒峰は再び、データの海に潜った。
その間、二・五階は混乱に襲われていた。
中でも頭を抱えていたのは、フロア管理を担当する空管室長・甲斐風雅とメインの担当職員数名、それから本来の黒峰の所属部署である情分の室長、宝生まどか、そして――
「…………」
実質的に黒峰の管理を一任されている羽佐間螺旋だった。
空間の接続がおかしくなったため、魔捜部屋には辿り着けない甲斐たちが、空管本部から黒峰と通信を繋いで必死で復旧に当たっている。彼らの朝一の業務がこれであった。
「……羽佐間さん、すみません、黒峰がまた……」
フロアの入り口、総務の区画の近くにある休憩スペースで待機を余儀なくされている宝生が、申し訳なさそうに頭を下げる。
「……いえ――私の管理が不充分でした」
「そのようなことは……本来は黒峰、うちの所属ですし――ですが正直、私の手に負えないばかりに……」
「……お気になさることはありません、宝生さん。実際黒峰さんは有用ではあります」
「……ですがたまに――こういうことが起きるでしょう」
「……それは――否定しませんが……どちらにせよ事態はすぐに収束するでしょう、既に修復に取り掛かっているようですから」
あくまで淡々と応じながら、しかし螺旋の目は誰にも気付かれない程度に――僅かに暗かった。
やがて、フロア内に復旧完了のアナウンスが流れる。
「……復旧したようですね」
螺旋は無感動に言った。
「ですね……はあ、まったく黒峰は……」
宝生が大きなため息を吐く。
「……ではその黒峰さんに――責任者として一言申し上げに行きます」
螺旋も嘆息混じりに言って、各部署に通じる磨り硝子の自動ドアにパスコードを入力する。
「私も情分室長としてご一緒します、羽佐間さん」
宝生がそのあとに続いて、二人は魔捜部屋を目指した。
「黒峰さん」
螺旋はあくまで静かに呼びかけた。
「……螺旋さん、申し訳ありませんでした」
「……何をなさったのか、説明をお願いします」
「はい。昨夜チェックしていた構造式のエラーの原因を特定、解決できたんですけど、それを応用すれば拡張空間内の移動や、空間の維持が効率的になることに気付いて――プログラムの試作を行いました」
「……当然、事前の許可は」
「……すみません、取っていません」
「黒峰……」
宝生も頭を抱え、
「何故そんなものを試作しようと思ったの?」
「……ちょっと、その、えーと、好奇心、ですかね?」
「……その試作品が起動したのは何故?」
酷い頭痛を覚えながらどうにかそう続ける。
「あの――それは、ええと……指が、滑りました」
螺旋と宝生は、深く深く息を吐く。
「――いいですか、黒峰さん」
「はい」
「拡張空間の維持管理は空管が行っています。好奇心で手を出してはいけません。黒峰さんにその権限はないはずです」
「……はい」
「黒峰、あなたこれで何度目? いい加減学習なさい、あなたの好奇心はいつか世界を破壊しそうで怖いわ」
「……申し訳ありません、以後気を付けます」
黒峰は深く頭を下げる。これでも――根は善人なのである。
螺旋と宝生は再び嘆息した。智歩は既に未解部屋に戻っている。
「……今後は許可されていない領域に触れないこと、よろしいですね」
「はい」
「――では以上です。本日の本来の業務を開始します」
そうは言ったものの、螺旋も、そして宝生も、無論空管の甲斐や他の面々も知っている。底なしの好奇心と、その確かな――確かすぎる実力を持ち合わせる黒峰が再び何かをやらかす日が来ることは、それほど遠くはないことを。
螺旋は小さく息を吐き、宝生は情分本部に戻ったらまず常備している胃薬と頭痛薬を飲むことをスケジュールした。




