Episode.2 外れ値の日曜日
「……あ、あれ、は……」
クリスマスを数週間後に控えたとある日曜日の午後、行きつけの紅茶専門店に足を踏み入れた十六夜尊は、その後ろ姿を認めてそう呟いた。
綺麗なストレートの黒髪、凛とした佇まい、そして周囲に纏う静かな空気。
「……羽佐間、さん?」
彼が秘密裏に協力している警察庁のとある部署と同じ部門に存在する、魔力捜査室の室長、羽佐間螺旋と思われた。
こぢんまりとした店内には、他に数名の客がいる。その中でその後ろ姿は目を引いた。
――綺麗な、ひと。
尊は素直にそう思う。先日とある命を受け、所属部署からの協力という形で羽佐間と関わった彼は、以来彼女をその認識で記憶している。
階級としては警視だったはずだが、その階級も、魔捜こと魔力捜査室室長という役職も、彼女自身は良しとしないらしい。秩序の魔術師と呼ばれており、羽佐間螺旋という名は術名と呼ばれる偽名だそうだ。魔力を行使するのに最適化された名前で、それが何もよりも大切だと聞いた覚えがある。
以来、それほど頻繁に会うわけではないのだが、尊は彼女のことを『羽佐間さん』と呼んでいる。
尊自身は私立敬文館高校の二年生だ。春になれば三年生である。だが身長は低く、身体もそれほど丈夫ではない。高校生ではあるのだが、警察庁刑事局にある極秘部署、特殊捜査部に属する未解決事件特別捜査室、通称未解に与えられた部屋にいることが多い。彼はその部署の協力者である。ほぼほぼ職員として在籍しているので学校は欠席がちだ。欠席の本当の理由も当然周囲には隠しているが、どうにかなっているどころか違和感もなく溶け込めているのは、同じく特捜の記憶操作室、通称記操の力によるのかもしれなかった。
羽佐間と知り合うきっかけとなった協力の際も、彼はその内容に関して記憶操作を受けており、具体的にどのように協力したのかは既に思い出せない。尊自身を守るため、と説明を受けたし、実際そうなのだろう――あの部署で行われていることは基本的に、普通ではないのだから。
その件の際は、羽佐間の他に尊が身を置く未解の室長、柊智歩が同席していたし、異次捜と呼ばれる異次元捜査室の室長、黒野漆と言うゴシックロリータを纏った女性もいた。メインの依頼元はその黒野だったはずだ。
激しく人見知りをする尊にとって、黒野には警戒心が働いたが――それでも持ちこたえたのは信頼する柊がいたからこそである――羽佐間に対してはそうでもなかった。羽佐間の纏う空気はとても硬質ではあるものの、安定した静けさがあった。
そして意外な共通点があったことも大きいだろう。
尊も彼女も、紅茶愛好家である、という点だ。
そもそも尊が今足を踏み入れたこの店も、有名チェーン店というわけではなく知る人ぞ知る隠れた名店である。だから日曜の午後だというのに、店内には数えるほどの客しかいない。
そして静かな存在感を放っていたのが、羽佐間らしき後ろ姿だった、というわけだ。
――声、を、かけるのは……
尊は逡巡する。相手は特殊な極秘部署の室長だ。自分と繋がりがある、と、万一誰かに知られるとマズい、かもしれない。
それに、魔捜を率いる魔術師としての姿ではない、明らかにプライベートであろうその後ろ姿に声をかけて良いものかどうか、という問題もあった。先日はスーツに身を包んでいたが、今日は恐らく私服である。品のあるコートしか見えないが、仕事用の印象ではない。同じく警察庁に所属する尊の姉がそういったコートを羽織るのは、主に休日である。ファッションに明るいわけではないが、尊は静かにそう観察した。
――と、そこで、羽佐間がふいにこちらを振り向いた。尊と目が合う。
「――こんにちは。先日はありがとうございました」
羽佐間の方からそう発した。
「あ、え、えと、こ、こんにちは」
予想外の出来事に、尊はあたふたしながら挨拶を返す。
「え、えと、えと……」
思いがけない展開に軽くパニックに陥ってしまった尊がわたわたしていると、羽佐間は口元を微かに緩ませた。
「そんなに慌てなくて構いませんよ、十六夜さん。先ほどドアベルが鳴ったのにそこから気配が動かないので、気になって確認したら十六夜さんだったというわけです」
「あ、え、えと、す、すみませ、ん」
尊は人と会話をすることが苦手だ。一度打ち解けてしまえばある程度普通に接することができるが、それまでに時間がかかる。打ち解けている柊や、同じ部署の刑事、四條千早が相手でも、尊の言葉は詰まってしまう。人が嫌いというわけではないが、喋ることそのものがあまり得意ではないのだった。
――数学の難題に静かに向き合う方が、彼にとっては簡単なのだった。彼は数学の神に愛される少年である。
尊が眉を下げて困ったように笑ったのを見て、羽佐間の目元が柔らかくなる。黒野は羽佐間を無表情で硬いとからかうように評していたが――実際からかっていたのだろう――彼女が感情を持たない人間ではないことは、尊には何故かよく解っていた。
「……今日、は、お休み、です、か?」
「ええ」
羽佐間は短く応え、それから、
「……職場に置いている茶葉が切れてしまいそうなので、買いに来ました」
尊が困らないようにとの配慮なのだろう、その背景を説明する。
――やっぱり、優しい、ひと。
一見無機質な彼女の本質をそう捉え、尊は安堵する。黒野に対して抱いたような警戒心を彼女には持たなかったのは、その雰囲気からかもしれなかった。休日だからだろう、やはりスーツではなく、コートの下にはシンプルなニットとロングスカートを纏っているのが判った。
「……キャッスルトンのダージリン、でした、ね」
「……覚えていらっしゃいましたか」
「え、えと……紅茶、の、こと、なので……」
――尊は数学の神に愛される少年であり、同時に羽佐間に負けず劣らずのかなりの紅茶愛好家であった。
羽佐間が棚に向き直るのを見ながらゆっくりと歩を進め、羽佐間の数歩後ろ、やや斜めの位置に立つ。羽佐間は尊よりもかなり背が高い――尊が低いのはもちろん、羽佐間自身女性としては長身な方だった。
自然に見上げた先の棚に、彼女の目当ての品である缶が、一つだけ、あった。
「……あ、それ、一つだけ、です、ね」
「……そのようです」
缶は手のひらに載るサイズで、茶葉の回数分としてはそれほどないだろう。特に、羽佐間や尊のような重度の紅茶愛好家にとっては。
「……在庫、は……」
「確認してみましょう」
連れ立ってこの店の主である老人の元に移動し、在庫がないかどうか質問する。羽佐間が手に取ったそれが最後の一つであり、しばらく入荷の予定がないことを知らされた。
「そいつはお嬢さんを待ってたんでしょうね」
店主は缶を指しながら言って、
「お嬢さんはいつも必ずそいつを買って行かれるから」
秋の午後のような笑みを浮かべた。
「……なるほど」
羽佐間はそう応えてから、
「では大切に頂くことにしましょう」
静かに微笑み返す。
「……足り、ます、か?」
心配になった尊が問うと、羽佐間は尊に向き直った。
「まだ少し残っていますし、今日こちらを手に入れられるので問題ありませんよ」
「良かった、です」
尊は安心してふわりと笑う。その拍子に彼のミルクティー色の柔らかな髪もふわりと揺れるのを、彼は自覚していなかった――特捜関係者で彼を知っている者や学校関係者などは皆、尊を数学の天才であると同時に癒やし系と認識していることを、彼自身は知らないのである。
「ありがとうございます。十六夜さんは、今日は何を?」
「あ、ぼ、僕、は……新しいもの、を、試してみよう、か、と……」
普段の生活では冒険をしない尊だが、紅茶――と数学――に関しては例外なのだ。期間限定、しかもこの店オリジナルのフレーバードティーが発売されたことを知って足を運んだのである。
店主の側を離れて小さな特設コーナーまで移動する。羽佐間も着いてきた。
「これ、です、ね」
「……なるほど」
クリスマスをイメージして香りづけされたという、限定デザインの箱が並んでいる。
「セイロンの、キャラメルフレーバー、みたい、です」
箱を手に取った尊は、嬉々としてその情報を読み上げた。
「……キャラメル、ですか」
羽佐間は何故か少し迷った様子でそう口にしてから、
「ですがセイロンは悪くないです」
尊と同じように箱を手に取る。
「……羽佐間さん、も、買われます、か?」
「たまにはこういった冒険も――良いでしょう」
微かに目元を緩ませた。
「わ、何だか……嬉しい、かも、です」
尊はまた、髪を揺らしてふわりと笑う。羽佐間は目だけで、先ほどよりもやや判りやすく微笑む。
「……あ、あの、羽佐間さん、あれ……あっち、の、アッサム、も……美味しい、です」
「どちらですか」
「あ、えと、こっち、です」
尊はマイブームのアッサム茶葉の前に羽佐間を案内する。
「……なるほど、こちらも試してみましょう」
迷いなくその缶を手に取った。
「これで当面茶葉には困りませんね。ありがとうございます、十六夜さん」
「あ、い、いえ!」
「……マイナーではありますが、こちらのアールグレイも名品ですよ」
「……わ!」
アッサム茶葉の近くに並べられていたものをさりげなく勧められ、尊もそれを手に取る。
「……予算、は、大丈夫、です」
反射的に計算してそう呟いた尊に、また羽佐間の目元が少し緩んだ。そしてそれぞれ目当ての品を手に、会計のために再び店主の元へ移動する。
「……今日は良い買い物ができました」
会計を終え、店名が控えめに印字された紙袋を手にした羽佐間の言葉に、
「僕も、です」
同じように袋を手にする尊も返して店を出た。
「では、私はこちらなので……」
「あ、僕、は、あっちです」
行き先は正反対のようだ。
「――それでは十六夜さん、お気を付けて」
「羽佐間さんも、です。あ、えと、ありがとう、ござい、まし、た」
「こちらこそ」
互いに会釈しあうと、休日の秩序の魔術師は、クリスマスソングが流れる街に消えた。途中までそれを見送って、尊も進行方向に向き直る。
「……ふふ、外れ値、です」
楽しそうに呟くと、紅茶の入った紙袋を手にした尊はゆっくりと歩き出したのだった。




