Episode.1 高瀬家の朝
それは、高瀬藍一郎が警察庁刑事局特殊捜査部、魔力捜査室に秘密裏に配属されてから少しした頃のある朝のことだった。
「ちょっとお兄ちゃん、いい加減起きないと遅刻するよー!」
高瀬の部屋のドアを勢いよく開け放ち、妹の紗雪が大きな声を出す。
「……んー」
紗雪には一切明かさずに情報量の多い日々を乗り越えながら過ごしていた高瀬は、珍しく寝坊をしていた。思いの外疲労が蓄積しており、いつもならあり得ないことをやらかしていた。
高瀬は紗雪の声で半覚醒し、生返事をしたその直後に、
「……やべっ!」
がばっと音を立てて飛び起きた。時刻を確認すると、間に合うかどうかどうにも怪しい頃合いだ。
「はいはい、起きたね、まったくもう、遅刻しても知らないよー?」
「悪い紗雪、助かった!」
「はい、ちゃちゃっと支度!」
紗雪はそれだけ言い残し、リビングの方へと姿を消す。
――あの部署への遅刻は、かなりマズい。
高瀬はどたばたと身支度をしながら、無表情で無機質な上司、羽佐間螺旋の顔を思い浮かべる。初日にうっかり役職を付けて呼んだ際の――しかしあれは組織人として至極まっとうな振る舞いだったはずである。彼女が役職や階級を毛嫌いしている方が寧ろ異常なのである――彼女の表情を思い出し、一瞬身が竦んだ。普段は無表情だが、だからこそあの顔は本気で怖かった。
ほぼ魔捜に常駐している黒峰準や結崎つづりはまだ笑って許してくれるかもしれないが、たまに顔を出す城戸透流も、その気になれば余裕で殺気をにじませる目をする男である。
そして高瀬は、魔捜に転属してまだ間もない新人の下っ端なのである。
「いやぜってーマズいだろ遅刻は!」
職場では出さない口調で言い、高瀬は必死で着替えを終えた。
朝食を摂っている時間はない。どう考えてもない。
ここまで寝過ごしてしまったのはいつ以来だろう。スマホのアラームも鳴ったはずなのに、全く気付かなかった。
確かに聞いたこともない部署にいきなり放り込まれ、そこでは当然のように魔力や超能力や悪魔などが存在しており、この二週間ほど高瀬のキャパは溢れ続けていた。
――それにしても、である。
それにしてもここまで疲れ切って寝過ごすとは、社会人としていかがなものか。それに高瀬はそこそこタフである自負もあった。
何とも言い表しようのない悔しさに襲われるが、その悔しさを噛みしめている場合ではない。
時間とは非情なもので、身支度を調える間も止まってくれることなどなかった。
「紗雪悪い、ありがとな、行ってくる!」
玄関に向かうのには、リビングを通る必要がある。
「別にいいよ、気を付け――」
大股でリビングを横切る高瀬を、トーストをかじりながら見やった紗雪は、紡いだ言葉を最後まで言い終えずに、
「――待って、ちょーっと待って! ストップ!」
すごい勢いでトーストを皿に戻し、高瀬に駆け寄って手を伸ばし、その襟首を掴んだ。
「ぐあっ、何すんだ紗雪!」
襟元を背後から下方向に引っ張られた高瀬は、情けない悲鳴を上げて紗雪を振り返る。
「いや本当に待って? 何そのネクタイ!」
「あ? ネクタイ?」
「お兄ちゃん何でそんな悪趣味なネクタイしてんの? ていうか何でそんなの持ってんの! そもそも!」
時間は無情に進んでいる。しかしそれよりも、紗雪の気迫の方が勝っていた。
高瀬はちらりと自分のネクタイを見下ろす。何も考えずに――考える余裕などなくクローゼットに吊るしているものから無造作にひっつかんだものだ。普段からそれなりに収納は考えているので、何も考えずにどれを選んでも問題ないはずだ。
――その、はずだ。
「……何かマズいか、これ?」
高瀬は心からそう問うた。いつ購入したものか、いつから使っているものか、そんなことは覚えていない。ただ収納に並んでいたからには、それなりに使用頻度も高かったもののはずである。
――否。
そう言えばここ最近――ここ数か月、このネクタイを使ったことはあっただろうか?
しかし、紗雪にそこまで言われるほど悪趣味でもないはずだ。何と言ってもすぐ取り出せる場所に吊るしてあったものの内の一つなのだから。
「マズいどころじゃないでしょそれ! お兄ちゃんこれから仕事でしょ? 刑事でしょ? 何よそれ!」
紗雪はとにかくものすごい剣幕で高瀬に迫る。
「そこまで言うことないだろ。いや、マズいのは遅刻の方なんだよ、とにかく行って――」
「それで行くなっ! 妹として恥ずかしすぎるからそれで行くな! ちょっと待ってて!」
紗雪は嵐のように高瀬の部屋に駆けていき、すぐに別のネクタイを手に舞い戻ってきた。この家にあるものを――高瀬のものであっても、彼女はほぼほぼ正確に把握しているのであった。高瀬が現在結んでいるネクタイは、その範囲外にあったわけだが。
「これ! こっちにして! お願いだから!」
「いや、時間が――」
「いいから! とにかくそれじゃあ外に出せない! 恥ずかしくて死ぬ! 私が!」
「マジで遅刻すんだって!」
情けない声で返しながらも、仕方なく高瀬は結んでいたネクタイを解き、紗雪に押しつけられたネイビーのレジメンタルに素早く付け替える。
「よしっ、全速力で走れば間に合う! じゃあこの悪趣味なネクタイは捨てとくね、行ってらっしゃい! あ、あとこれエネルギーゼリーね、走りながら飲んで!」
「はっ!? 捨て――」
「ほら遅れるよお兄ちゃん!」
「だあっ、もう! うわマジでヤベぇ!」
紗雪に押しつけられたエネルギーゼリーを受け取り、高瀬は大急ぎで靴を履き、玄関を飛び出した。全力疾走すれば間に合う――間に合う、か?
「ああくそっ、とにかく走るしかねえっ!」
学生時代、高瀬は陸上部だった。そこそこな俊足ではある。刑事になってからも何かと走った。今はそれを、遅刻を回避するために全力で使うしかない。高瀬は警視庁――と見せかけて、実際はその隣にある警察庁を目指して、ここ半年で一番と呼べるペースでダッシュし始めた。
高瀬の家では、紗雪が件の悪趣味なネクタイを眺めていた。
「……ほんっと、いつの間にこんなの持ってたの、お兄ちゃん?」
しばし半眼でそれを見つめると、紗雪はそれをぽいっとゴミ箱に放り入れる。
「マジでこんなので外歩かれるとか、ないから」
ぱんぱんと両手をはたくと、かじりかけのトーストが置いてあるダイニングテーブルに戻る。
「まったく世話が焼けるお兄ちゃんだな。さあてと、私もあんまのんびりはしてらんないんだった」
独りごちながら席に着き、再びトーストに手を付ける。
コーヒーとともに朝食を終えると、紗雪はさっとカップや皿を洗い、片付けた。
「よし、変なネクタイも捨てたし、ごはんも食べたし。これでオッケー!」
そして自分も用意を調えると、お気に入りのトートバッグを提げる。
「ではでは行きますか!」
満足げに頷いて、紗雪も家を出た。
その朝高瀬はギリギリ寸前で遅刻を回避し、そして人知れず、紗雪の功績により『変なネクタイの新人』という不名誉な称号も回避したのであった。
――もちろん、その紗雪の功績は、誰にも知られることなどなかったのであるが。




