Episode.14 女帝と侍従長の秘め事
警察庁刑事局の審議官を務める、それでいて実質的に警察社会の実権を掌握していると言われ、常勝の女帝という異名を持つ観月の、とある休日の出来事である。
表立った業務と並行して、彼女は特殊捜査部という極秘部署の最終的な責任者でもある。特捜の部長として組織を束ねているはずの早乙女は、いくつかの理由があって庁内にいないことが多い。そんな事情も踏まえ、業務をスムーズに回すために、早乙女の上の観月が普段から各種判断を行う形になっている。
常に余裕のある微笑を湛える優雅な姿がその象徴とされているが――観月は日常的に、激務をこなしているのだった。
そして、その激務からほんのひととき解放される休日。彼女はいつもはきりりと結い上げている髪をゆるくまとめ、珍しくキッチンに立っていた。料理などほぼしないのに、今日は何となくそんな気分だった。完全に女帝の気まぐれである。
「……フライパン一つでできるとは言え……面倒ね」
女帝はスマートフォンでナポリタンのレシピ検索をしながら、そう呟いた。
具材を切って炒め、そのフライパンに水を加えてパスタも一緒に茹で、味付けをして水分を飛ばす、という簡略化された手順だ。ただ観月は、普段料理などしない。
知性と美貌、判断力や統率力まで兼ね備える完全無欠の――天が何物も与えすぎた女帝にも、苦手分野はあった。それが料理なのである。それなのに何故、彼女が現在キッチンに立っているのか――それこそ気まぐれである。
材料はこのために午前中に買い出しに出かけた。ストックしていたと思った玉ねぎは冷蔵庫の中でミイラ化していた。前回料理をしてから、少なくともそれだけの期間が空いているわけである。ピーマンに関してはそう言えば久しくこの家では見かけていない。パスタのストックは辛うじてあったが、ソーセージはなかった。
観月は手始めに玉ねぎを切ろうとした。皮を剥ぎ取り、まずは半分にカットしようとして、
「……あ」
およそ半分とは呼べない割合で二つに切れた。しかも危うく自分の指まで切ってしまうところだった。
「…………」
無言で包丁を見やる。それから、危うく切れそうだった左手の指に視線を移す。
「危ないわね」
また小さく独りごちて、改めて気を引き締めて玉ねぎに包丁を入れた。それをどうにか薄切りにする。彼女は薄切りにしているつもりだが、その厚みは不均一だ。それでもどうにかレシピに記載されている四分の一個分をカットすると、次はピーマンに取り掛かる。レシピには種を取り輪切りにする、と書かれていた。
「……種を取る、ってどうすんのよ」
――彼女は普段、料理をしない。それは不得手だからに他ならず、繰り返すがこのナポリタンの調理は気まぐれに思い立ったのである。
「……面倒ね」
ピーマン、種の取り方、とスマートフォンで検索した彼女はそう呟いて、トップに出てきた結果に従ってピーマンのヘタに親指を当て、一旦押し込んだ。それからヘタを引っ張ると良い、と書いてあったが、力加減を間違えたらしく、ピーマンはくしゃっと音を立てて割れた。輪切りは諦めるよりなさそうだった。
しばらく崩れたピーマンを見やってから、気持ちを切り替えてとにかく細切りにする。しかしそれも、お世辞にも均一とは呼べない細さだった。
ソーセージも不格好ながら切り終えると、それらをフライパンで炒める。玉ねぎがしんなりするまで、とのことだったが、しんなりどころか焦げ始めたので慌てて次の工程に移った。塩水を加えてパスタをそこで一緒に茹でてしまう工程だ。パスタは半分に折ると良いとのことだった。
一束分のパスタを束ねるテープを外すと、なるべく真ん中で折れるように持ち、力を加える。しかし上手く折れず、他の具材と同じようにパスタの長さも不揃いだった――逆にどうすればこんな風に折れるのか、ちょっとしたミステリーである。
またそれを無言で見てから、観月はそれをフライパンに投入した。煮立ってきたので蓋をし、記載されている茹で時間通りにタイマーをセットした。
「……あら?」
そこで彼女は気付いた。ピーマンを加えるのはこのあとらしい。しかし目の前の蓋をされたフライパンには、既にピーマンが加えられている。レシピの手順を見落としてしまったようだ。
「まあ、いいわ。どうせ私が食べるんだし」
そしてそのまま、タイマーが鳴るのを待つ。
タイマーが鳴って蓋を開けると、パスタがくっついて固まっていた。
「…………」
もう一度レシピを見ると、くっつかないように時々混ぜる、と書かれていた。またもや見落としである。仕事の書類に関しては決して見落としなどしないのに、慣れないことはするものではない。ため息を吐いて菜箸でどうにかほぐし――ほぐしきれなかったが――そこに調味料を加えた。あとはやや火加減を強くして、水分を飛ばしながら炒めれば完成らしい。
観月は火を強めると、仕上げにかかった。
結果として、どう見ても黒焦げの、ナポリタンではない物体が完成した。
「おかしいわね、どういうことかしら」
解せぬ、という表情で、観月はフライパンを見やる。無論問題は火加減であったが、女帝はそのことには気付かなかった。
香ばしいと呼ぶより、焦げた匂いが漂っている。玉ねぎはほぼ炭化しているし、そもそもフライパンの中はほぼ黒い。
「…………」
これは彼女の昼食の予定だった。しかし――とても食べられる代物ではない。
途方に暮れていると、インターホンが鳴った。
「……誰かしら」
コンロの火が消えていることを確認してから、女帝はモニターを確認する。
「……十六夜?」
モニターには、部下である十六夜の姿が映し出されていた。相変わらずの無表情である。玄関に向かいドアを開けると、
「休日に申し訳ありません、観月審議官。何となく、お困りなのではと思いまして、こちらをお持ちしました」
十六夜は、売り物と見紛うようなテイクアウト容器を差し出した。彼女は観月と同じマンションに住んでいるのであった。
「これは……?」
「和風パスタを作っていたのですが、少々作りすぎまして。お召し上がり頂ければ、と」
実は、十六夜の趣味の一つが料理である。普段は無機質な、しかし春の陽だまりを思わせる声の持ち主の侍従長という印象が強く、かなり有能な観月の部下なのだが、その私生活は極めて家庭的でもある。それを知っているのは観月と、十六夜の弟である尊くらいのはずだ。
「……相変わらず、タイミングが良すぎるわね、十六夜」
「恐縮です」
侍従長は恭しく頭を下げる。それから、
「……審議官、失礼ですが……何か焦げているのでは……」
僅かに戸惑いながら言った。
「……そうね、焦げたわね」
女帝は静かに認める。
「……まさか、審議官、料理を――」
「悪い?」
「いえ、お申し付け下されば私が喜んでいたしますのに……」
十六夜は陽だまりを思わせる声で言う。観月は苦笑して、
「そこまであなたをこき使えないわよ。けれど――結局今日は、そうなってしまったかしらね」
侍従長に告げた。
十六夜は再び恭しく頭を下げる。彼女は知っている。かなり控えめに言って、観月に料理は向いていないことを。
「……よろしければ、お片付けを手伝いますが……」
「それは気持ちだけ頂くわ。あなたも休日くらいゆっくりなさい」
侍従長の申し出を、女帝は微笑みながら断った。
「ありがとうございます」
「それは私の台詞よ。差し入れ、ありがたく頂くわ」
「お口に合えば良いのですが……」
「ふふ、環は何を謙遜しているのかしら」
女帝の笑みを受け、十六夜は頬をほんのりと赤く染めた。
「……では、失礼します、審議官。尊が待っていますので」
「ええ、ありがとう。相変わらず仲が良いわね。尊くんにもよろしく伝えて」
普段はクールで有能な侍従長が実は弟を溺愛していることを、特捜の面々は知らない。
「はい」
その侍従長は一礼すると、帰って行った。
それを見送り、女帝は室内に戻る。ダイニングテーブルに十六夜から受け取った容器を置き、一旦キッチンに引き返して、無駄にしてしまった食材のなれの果ての入ったフライパンをシンクに置くと、せめて片付けやすいように水を注いだ。しばらく放置しておけば洗いやすくなるはずだ。
それから、グラスに水を注いで、ついでにフォークも持ってダイニングテーブルに向かう。
テイクアウト容器の中には、彩りの綺麗な冷静パスタが詰められていた。
「……本当に、相変わらずさすがね、十六夜」
彼女の料理の腕前はプロ級なのである。趣味の域を超えている。そもそもテイクアウト容器を自宅に常備している辺りで、その本気度が知れるというものである。
「さて、と。いただきます」
女帝はそう言って、フォークを手に取った。




