第9話 君が泣きたい夜には
金曜日の朝。
目覚まし時計が鳴る五分前に、俺は目を覚ました。
理由は簡単だ。
昨夜、篠原あかりから届いたメッセージが、どうしても頭から離れなかったからである。
『いつか、私の本当の気持ちを話してもいい?』
あの言葉には、どんな意味が込められていたのだろう。
家庭のことだろうか。
将来のことだろうか。
それとも、俺たちの関係についてなのだろうか。
「……考えても仕方ないか」
小さくつぶやき、俺はベッドから起き上がった。
他人の気持ちは、本人に聞かなければ分からない。
そんな当たり前のことは分かっている。
だから、彼女が話してくれるまで無理に聞き出すつもりはなかった。
ただ、一つだけ気になっていることがある。
いつか彼女が本当の気持ちを打ち明けてくれたとき、俺はそれをきちんと受け止められるのだろうか。
まだ知らない彼女の一面を知ったとき、自分はどう思うのだろう。
そんなことを考えながら、俺は制服に着替えた。
*
学校に着くと、教室はいつも以上に騒がしかった。
「文化祭まで、あと二週間くらいだよね?」
「カフェのメニュー、そろそろ決めないと!」
「写真展示もあるし、準備すること多すぎない?」
文化祭の話題で持ちきりだった。
俺は自分の席に座り、鞄から教科書を取り出す。
できれば、このまま誰にも話しかけられず、静かな一日を過ごしたい。
そんなささやかな願いは、三十秒後に打ち砕かれた。
「樹くん、おはよう!」
聞き慣れた明るい声が響く。
「……おはよう」
「今日、ちょっと眠そうだね?」
「朝から考え事をしていた」
「何を?」
「人生について」
「えっ、急に壮大な話になった!」
「冗談だ」
「あははっ! もう、びっくりした!」
あかりは楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は少しだけ安心した。
昨夜のメッセージのせいで、何か気まずくなるかもしれないと思っていたからだ。
けれど、彼女はいつもと変わらなかった。
明るくて、よく笑って、少しだけ人の心を落ち着かなくさせる。
「ねえ、樹くん」
「何だ?」
「今日の放課後も、写真展示の準備を進めたいんだけど、時間ある?」
「あるよ」
「よかった! じゃあ、一緒に頑張ろうね!」
「ああ」
満足そうにうなずくと、あかりは自分の席へ戻っていった。
その後ろ姿を眺めながら、俺はふと思った。
彼女はいつも、ああして笑っている。
でも、その笑顔の奥に何が隠れているのか、俺はまだ知らない。
いつか、それを知る日が来るのだろうか。
そして、そのとき俺は――。
「黒沢、先生が呼んでるぞ」
「……ああ、分かった」
考え事は、そこで中断された。
どうやら今日も、静かな一日にはなりそうにない。
*
放課後。
俺たちは教室の隅で、写真展示の準備を進めていた。
あかりが選んだ写真を、俺が展示用のボードに貼っていく。
その隣では、別のクラスメイトたちが文化祭で使うカフェの装飾を作っていた。
「樹くん、その写真、もう少し右!」
「これくらいか?」
「ううん、もうちょっと!」
「……これでどうだ?」
「完璧!」
あかりが満足そうに親指を立てた。
俺は小さく息を吐く。
「お前、意外と指示が細かいな」
「だって、せっかく展示するんだから、きれいに飾りたいんだもん!」
「はいはい」
「もう、適当に返事しないでよ!」
あかりは頬を膨らませた。
その表情がおかしくて、俺は思わず口元を緩めた。
「……今、笑った?」
「笑ってない」
「絶対笑った!」
「気のせいだ」
「ひどい!」
文句を言いながらも、あかりは楽しそうだった。
こうして一緒に作業をしていると、少しずつ彼女のことが分かってくる。
意外とこだわりが強いところ。
うれしいとき、目元が少しだけ柔らかくなるところ。
褒められると、照れ隠しのように話題を変えるところ。
そして、何かに夢中になると、周りが見えなくなってしまうところ。
そんなことを考えていると、あかりがふと手を止めた。
「あ……」
「どうした?」
「これ、懐かしいな……」
彼女の手には、一枚の写真があった。
桜の木の下で、幼い女の子がカメラを構えて笑っている。
今よりずっと幼いものの、その面影は確かにあかりのものだった。
「……小さいころの写真か?」
「うん。小学生のときのだよ」
あかりは懐かしそうに写真を見つめた。
「このころは、何も考えずに笑えてた気がする」
その言葉に、俺は手を止めた。
「……今は違うのか?」
あかりは、はっとしたように顔を上げた。
「え?」
「いや……」
聞いてもいいのだろうか。
彼女が話したくないのなら、無理に聞きたくはない。
それでも、昨夜のメッセージを思い出すと、ほんの少しだけ踏み込んでみてもいい気がした。
「……最近、何かあったのか?」
あかりはしばらく黙っていた。
やがて、困ったように笑う。
「……樹くんって、やっぱり鋭いね」
「そうか?」
「うん。でも……今はまだ大丈夫」
彼女は写真をそっと展示用のボードの上に置いた。
「いつか、ちゃんと話すから」
「……分かった」
それ以上、俺は何も聞かなかった。
あかりも小さくうなずき、再び作業に戻る。
そのときだった。
彼女のスマートフォンが、机の上で震えた。
画面に目を落とした瞬間、あかりの表情が変わった。
ほんの一瞬だった。
さっきまで浮かべていた笑顔が消え、顔から血の気が引いたように見えた。
「……あかり?」
俺が名前を呼ぶと、彼女は慌ててスマートフォンを伏せた。
「な、何でもないよ!」
声が、わずかに震えていた。
どう見ても、何でもない人間の声ではなかった。
*
それから数分間、あかりはほとんど口を開かなかった。
いつもなら、作業中も何かしら話しかけてくるのに、今日は違う。
写真を貼る手が止まる。
何度もスマートフォンに目を向ける。
そして、画面を確認するたびに、その表情が曇っていく。
俺は迷っていた。
声をかけるべきか。
それとも、今はそっとしておくべきか。
彼女の様子を見ながら考えた末、俺は静かに口を開いた。
「……今日はもう帰るか?」
あかりが顔を上げる。
「え?」
「今日はここまでにしよう」
「でも、まだ終わってないよ?」
「明日でもできるだろ」
俺は手にしていた写真を机に置いた。
「無理して続ける必要はない」
あかりはしばらく俺の顔を見つめていた。
やがて、ゆっくりとうつむく。
「……ごめん」
「謝ることじゃない」
「……うん」
彼女はスマートフォンを鞄にしまい、静かに立ち上がった。
俺たちは、ほとんど会話を交わさないまま学校を後にした。
*
駅へ向かう帰り道。
夕方の空は、淡いオレンジ色に染まっていた。
いつもなら、あかりは学校であったことを話してくれる。
今日の授業がどうだったとか。
クラスの誰かが変なことを言ったとか。
そんな、何でもない話を。
けれど、今日は違った。
彼女は何も話さなかった。
俺は隣を歩くあかりの横顔を、ちらりと見た。
少しうつむき、唇をきゅっと結んでいる。
何かを必死に我慢しているように見えた。
「……あかり」
「……なに?」
「話したくないなら、無理に話さなくてもいい」
彼女の足が止まった。
俺も立ち止まり、あかりの方を向く。
「でも、一人で抱え込む必要もないから」
あかりは何も言わず、俺を見つめていた。
その瞳が、少しずつ潤んでいく。
「……樹くん」
「……ああ」
「どうして、そんなに優しいの?」
不意にそんなことを言われ、俺は返事に困った。
優しいと言われても、自分ではよく分からない。
ただ、彼女が苦しそうにしているのを見て、放っておけなかった。
「……別に、普通だろ」
そう答えると、あかりは小さく首を横に振った。
「普通じゃないよ……」
彼女は視線を落とした。
「みんな、私が笑っていれば安心するの。だから、つらいことがあっても、笑っていなきゃって思うんだ」
声が少しずつ震えていく。
「でも……本当は、そんなに強くないんだよ」
俺は何も言わなかった。
何か言葉をかけようとしても、うまく見つからなかった。
だから、今は彼女の言葉を遮らずに聞くことにした。
「……今日、お母さんから連絡があったの」
あかりは、ようやく話し始めた。
「進学のこと。前にも話したでしょ? 私が行きたい大学と、お母さんが望んでいる大学が違うって」
「ああ……」
「今日、またその話をしたんだ。でも、やっぱり分かってもらえなかった」
彼女は両手をぎゅっと握りしめた。
「お母さんは、私のためだって言うの。将来困らないように、ちゃんとした道を選びなさいって」
あかりは少しだけ笑った。
けれど、その笑顔は今にも消えてしまいそうだった。
「……分かってるんだよ。お母さんが心配してくれてることも、私の将来を考えてくれてることも」
「……うん」
「でも、私が本当にやりたいことを話すと、いつも困った顔をされるの」
彼女の声が、さらに小さくなる。
「それが……つらいんだ」
俺は黙って彼女の話を聞いていた。
彼女が今必要としているのは、正しい答えでも、立派な助言でもないのかもしれない。
だから、余計なことは言わず、続きを待った。
「……私ね」
あかりは、ゆっくりと顔を上げた。
「写真に関わることを勉強したいんだ」
「……写真?」
「うん。撮影とか、映像とか、そういうこと。まだ将来何になりたいのか、はっきり決まっているわけじゃないけど……好きなことを、もっと深く勉強してみたい」
彼女は、自分の気持ちを確かめるように言葉を続けた。
「でも、お母さんは、もっと安定した進路を選んでほしいみたいで……。私が写真の話をすると、趣味と仕事は違うって言うの」
「……そうか」
「それで、けんかになっちゃった」
あかりは目を伏せた。
「私も、ひどいことを言ったの。お母さんの期待どおりに生きるのは嫌だって……」
彼女の指先が、わずかに震えた。
「言ったあとで後悔した。でも、謝ったら、また自分の気持ちをなかったことにしてしまう気がして……どうしたらいいのか、分からなくなっちゃった」
俺は静かに息を吐いた。
家族の問題に、簡単な答えなんてない。
どちらかが完全に正しくて、どちらかが完全に間違っているとも限らない。
母親が娘の将来を心配する気持ちも、あかりが自分の夢を大切にしたいと思う気持ちも、どちらも本物なのだろう。
それでも――。
自分の人生を、自分で考えたいと思うことは、決して悪いことではないはずだ。
「……あかり」
「……うん?」
「お前が何を選ぶかは、お前自身が決めていいと思う」
彼女が顔を上げた。
「もちろん、家族が心配してくれる気持ちも大切だと思う。でも、お前が本当にやりたいことを、最初から諦める必要はないだろ」
「……樹くん」
「今すぐ答えを出さなくてもいい。大学のことも、将来のことも。自分が納得できるまで、ちゃんと考えればいいと思う」
俺は少しだけ視線をそらした。
「……少なくとも、誰かの期待に応えるためだけに進路を決める必要はない」
あかりは、じっと俺を見つめていた。
そして、ゆっくりとうつむく。
「……ありがとう」
その声は、かすかに震えていた。
*
駅に着くころには、空はすっかり暗くなっていた。
改札の前で、あかりが立ち止まる。
「……今日は、ごめんね」
「だから、謝ることじゃないって」
「でも、せっかく一緒に帰ってくれたのに、暗い話ばかりしちゃった」
「……別に、暗い話だとは思わない」
俺は彼女の目を見た。
「お前にとって大切な話だろ」
あかりは目を見開いた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「……樹くんって、本当に不思議な人だね」
「よく言われる」
「ふふっ。そこは否定しないんだ」
「事実だからな」
彼女は小さく笑った。
その笑顔には、まだ不安が残っていた。
けれど、さっきまでの張り詰めた表情は、少しだけ和らいでいるように見えた。
「……じゃあ、また明日ね」
「ああ。また明日」
あかりは改札を通りかけた。
しかし、途中で足を止め、振り返った。
「樹くん!」
「……何だ?」
「今日、話を聞いてくれてありがとう」
彼女はまっすぐに俺を見つめた。
「……樹くんに話せてよかった」
そう言って、今度こそ改札の向こうへ歩いていった。
俺は彼女の姿が見えなくなるまで、その場に立っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……何か、俺にできることはないのかな」
つぶやいた言葉に、答えてくれる人はいなかった。
*
その夜。
自分の部屋に戻った俺は、文化祭の資料を机の上に広げていた。
けれど、どうしても集中できない。
頭に浮かぶのは、夕方のあかりの表情ばかりだった。
いつも明るく笑っている彼女が、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
何度も笑おうとして、それでもうまく笑えなかった。
その姿が、どうしても頭から離れなかった。
スマートフォンが震えた。
画面には、あかりの名前が表示されていた。
『今日は本当にありがとう』
『樹くんと話して、少しだけ落ち着いたよ』
俺は画面を見つめ、返信する。
『それならよかった』
少し考えてから、もう一通送った。
『また話したくなったら、いつでも聞くから』
送信して、スマートフォンを机の上に置いた。
すぐに返事は来なかった。
十分ほど経ったころ、ようやく画面が光った。
『……うん』
続けて、もう一通。
『ねえ、樹くん』
『何だ?』
今度は、少し時間がかかった。
そして、届いたメッセージを見た瞬間、俺は画面に目を留めた。
『私、樹くんの前では、ちゃんと弱い自分でいられる気がする』
俺は、その言葉を何度も読み返した。
胸の奥が、静かに温かくなる。
同時に、少しだけ怖くなった。
彼女にとって、俺はどんな存在なのだろう。
ただの友達なのか。
偽物の恋人なのか。
それとも、少しずつ違う何かになり始めているのだろうか。
答えは、まだ分からない。
けれど、一つだけ決めたことがある。
彼女が本当の気持ちを話してくれるなら、俺は最後まで聞こう。
無理に笑わせようとはしない。
簡単な答えを押しつけたりもしない。
ただ、彼女が自分の気持ちを大切にできるように、そばにいたい。
そう思った。
そのとき、もう一度スマートフォンが震えた。
『おやすみ、樹くん』
俺は少し考えてから、返信した。
『おやすみ、あかり』
送信したあと、しばらく画面を見つめていた。
彼女の名前を呼ぶことにも、少しずつ慣れてきた。
けれど、慣れたからといって、何も感じなくなったわけではない。
むしろ、その逆だった。
名前を呼ぶたびに、彼女が少しずつ特別な存在になっていく気がする。
俺はスマートフォンを置き、窓の外に目を向けた。
夜空には、厚い雲が広がっていた。
明日も、彼女に会う。
そして、きっといつもどおり笑うのだろう。
だからこそ、俺は願った。
明日の彼女が、今日より少しでも穏やかな気持ちでいられますように。
その笑顔が、誰かの期待に応えるためだけのものではありませんように。
そして、いつか彼女が、自分自身のために笑える日が来ますように。
俺は静かに目を閉じた。
まだ、この気持ちに名前はつけられない。
でも、もう分かっていた。
彼女が泣きたい夜には、できることなら、そばにいたい。
それが、今の俺の本当の気持ちだった。
第9話終了
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