第10話 偽物の恋人、本当の気持ち
月曜日の朝。
教室に入った俺は、自分の席に鞄を置き、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
先週の金曜日から、どうにも気持ちが落ち着かない。
理由は分かっている。
篠原あかり。
彼女のことを考える時間が、以前より明らかに増えていた。
朝、彼女が学校に来るのを待つようになったこと。
昼休み、一緒に昼食を食べられるか気にするようになったこと。
放課後、どんな顔で話しかけてくるのか、いつの間にか楽しみにしていること。
以前の俺なら、他人の行動をこんなに気にすることはなかった。
「……面倒なことになったな」
「何が面倒なの?」
「うわっ!」
突然、すぐ横から声がして、思わず肩が跳ねた。
振り向くと、あかりが不思議そうに俺を見つめていた。
「お、おはよう、樹くん」
「……おはよう。いつからそこに?」
「今来たところだよ。樹くんが何かつぶやいてたから、気になっちゃって」
「独り言だ。忘れてくれ」
「えー? 気になるなあ」
あかりは俺の机に両手をつき、顔をのぞき込んできた。
近い。
いつもと変わらない距離のはずなのに、最近は妙に意識してしまう。
「……顔が近い」
「そう?」
「そうだ」
「じゃあ、これくらい?」
彼女は少しだけ身を引いた。
しかし、すぐにいたずらっぽく笑う。
「それとも、もっと離れたほうがいい?」
「……好きにしてくれ」
「ふふっ。樹くんって、こういうとき本当に分かりやすいよね」
「何がだ」
「ひ・み・つ!」
あかりは楽しそうに笑い、自分の席へ戻っていった。
俺は机に額をつけた。
朝から心臓に悪い。
そもそも、偽物の恋人という設定は誰が考えたのだろう。
……俺たちだった。
自分たちの判断を、少しだけ後悔した。
*
午前中の授業が終わり、昼休みになった。
「樹くん、お昼食べよう!」
「ああ」
俺たちはいつものように弁当を持って屋上へ向かった。
最近では、クラスメイトたちも俺たちが一緒にいることに慣れてきたらしい。
最初のころのように、いちいち関係を聞かれることも少なくなった。
ただ、ときどきこちらを見て意味ありげに笑っている連中はいる。
何を想像しているのかは知らないが、あまり知りたくもない。
「ねえ、樹くん」
「何だ?」
「今日の放課後、少し時間ある?」
「文化祭の準備か?」
「うん。それもあるんだけど……」
あかりは箸を止め、少しだけ迷うように視線を泳がせた。
「二人で、写真を撮りに行かない?」
「写真?」
「うん。展示に使う写真はだいぶ集まったでしょ? でも、もう少しだけ撮っておきたいものがあるんだ」
「どんな写真だ?」
「それは、行ってからのお楽しみ!」
また秘密か。
最近、彼女は俺に秘密を作るのが上手になってきた気がする。
「……分かった」
「本当? やった!」
あかりは、ぱっと顔を明るくした。
その笑顔を見ていると、不思議と断る理由がなくなってしまう。
……いや。
最初から、断るつもりなどなかったのかもしれない。
*
放課後。
俺たちは学校から少し離れた商店街へ向かった。
あかりは首からカメラを下げ、いつも以上に楽しそうな様子で歩いていた。
「ここ、昔から好きなんだ」
彼女が立ち止まったのは、小さな花屋の前だった。
店先には、色とりどりの花が並んでいる。
「小さいころ、お母さんとよく来てたの。季節が変わるたびに、違う花を買って帰ったんだ」
「……そうなのか」
「うん。だから、ここを通ると昔のことを思い出すんだよね」
あかりはカメラを構えた。
花そのものだけでなく、店先に置かれた小さな黒板や、窓から差し込む夕方の光まで、丁寧に画角に収めていく。
静かな商店街に、シャッター音が響いた。
「……撮れた?」
「うん!」
彼女は液晶画面を確認し、満足そうにうなずいた。
「写真って不思議だよね」
「何が?」
「同じ場所でも、撮る日や時間によって、全然違う写真になるの」
あかりはカメラを胸元に抱えた。
「そのときは何でもないと思っていた景色でも、何年かたってから見返すと、すごく大切なものに思えたりするんだよ」
「……なるほどな」
「だから、私は写真を撮るのが好き。忘れたくないものを、ちゃんと残しておきたいから」
そう話す彼女の横顔は、いつもの明るい表情とは少し違っていた。
穏やかで、真剣で。
何より、自分の好きなものについて話しているときの彼女は、とても自然だった。
金曜日に話してくれた、進路のこと。
母親とのすれ違い。
自分の夢を諦めたくないという気持ち。
きっと、まだ簡単には解決できない問題なのだろう。
それでも、今こうして好きなものについて楽しそうに話す彼女を見ていると、少しだけ安心した。
「……あかり」
「ん?」
「やっぱり、お前は写真が好きなんだな」
彼女は一瞬、驚いたように目を見開いた。
それから、少し照れたように笑った。
「……うん。大好き」
その言葉を聞いたとき、俺は思った。
彼女が本当にやりたいことを、もっと応援できたらいい。
誰かに認められるためではなく、彼女自身が好きだと思える道を選べるように。
俺にできることがあるなら、少しでも力になりたい。
……いつから、こんなことを考えるようになったのだろう。
「樹くん?」
「……何でもない」
「また独り言?」
「違う」
「じゃあ、何を考えてたの?」
「秘密だ」
「あっ、ずるい!」
あかりは頬を膨らませた。
その反応がおかしくて、俺は思わず笑った。
今度は、彼女にも見られてしまった。
「……あ、笑った!」
「見間違いだ」
「見間違いじゃないよ! 今、絶対に笑った!」
「証拠は?」
「えっ……!」
あかりは一瞬考え込んだ。
そして、カメラを構える。
「じゃあ、今から証拠を撮る!」
「待て。何の証拠だ」
「樹くんが笑った証拠!」
「そんなものを撮るな!」
シャッター音が響いた。
液晶画面を確認したあかりは、声を上げて笑った。
「撮れた! 樹くんの笑顔!」
「消せ」
「やだ!」
「……篠原」
「あ、今、名字に戻った!」
「消してくれ、あかり」
口にしてから、俺は固まった。
あかりも、ぴたりと動きを止めた。
数秒間、沈黙が流れる。
そして。
「……もう一回、呼んで?」
彼女が小さな声で言った。
「……何を?」
「私の名前」
「……さっき呼んだだろ」
「うん。でも、もう一回」
あかりはカメラを胸元に抱え、少しだけ視線をそらした。
「……樹くんに名前で呼ばれるの、好きだから」
胸の奥が、妙に熱くなった。
俺は一度だけ息を吐き、彼女を見た。
「……あかり」
「……はい」
返事は、いつもより小さかった。
彼女の頬が、ほんのりと赤く染まっている。
それを見た俺まで、何だか恥ずかしくなってきた。
「……もういいだろ」
「うん……!」
あかりはうれしそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は思った。
名前を呼ぶだけで、こんなに喜んでくれるのなら。
これからも、何度でも呼びたい。
……そんなことを考えている自分が、少しだけ信じられなかった。
*
商店街を抜けると、小さな公園があった。
遊具のそばでは、子どもたちが楽しそうに走り回っている。
ベンチの近くには、夕方の光が差し込んでいた。
「あ、ここ!」
あかりが足を止めた。
「どうした?」
「この公園、前にも話したよね? 小さいころ、落ち込んだときによく来てた場所」
「……覚えてる」
「今日はね、ここで撮りたい写真があるの」
彼女は公園を見渡した。
そして、再びカメラを構える。
走っていく子どもたち。
ベンチに座って話している年配の夫婦。
風に揺れる木々。
どれも、特別な景色というわけではない。
けれど、あかりは一枚一枚、大切そうに写真へ収めていった。
やがて、彼女はカメラを下ろした。
「……樹くん」
「何だ?」
「私たち、卒業したらどうなるんだろうね」
不意に、そんなことを聞かれた。
「どうなるって?」
「学校が別々になったり、忙しくなったりするかもしれないでしょ?」
「……まあ、そうだな」
「今みたいに、毎日会えるわけじゃなくなるかもしれない」
あかりはカメラのストラップを指先でいじった。
「そう考えると、ちょっと寂しいなって」
俺は、すぐには答えられなかった。
卒業まで、まだ時間はある。
けれど、その時間が永遠に続くわけではない。
いつか、俺たちは別々の道を歩き始める。
そのとき、今の関係はどうなるのだろう。
偽物の恋人という約束も。
毎日のように交わすメッセージも。
一緒に帰る時間も。
すべてが終わってしまうのだろうか。
「……樹くん?」
「……いや」
俺は視線を落とした。
「俺も、今の時間がなくなるのは……少し寂しいと思う」
言葉にした瞬間、自分の気持ちに気づいた。
俺は、今の時間を失いたくないのだ。
彼女と話す時間を。
彼女が笑う姿を見る時間を。
彼女が自分の気持ちを話してくれる時間を。
それが、偽物の恋人という関係だからなのか。
それとも、別の理由があるのか。
まだ、はっきりとは分からない。
けれど。
「……じゃあさ」
あかりが、そっと顔を上げた。
「卒業するまでに、いっぱい思い出を作ろうよ」
「思い出?」
「うん! 文化祭も、受験も、何でもない放課後も。あとで写真を見返したときに、楽しかったなって思えるように」
彼女はカメラを持ち上げた。
「樹くんとの写真も、もっと増やしたいな」
「……俺の写真?」
「そう。嫌?」
その問いに、俺は首を横に振った。
「……嫌じゃない」
「本当?」
「ああ」
あかりの顔が、ぱっと明るくなった。
「じゃあ、約束!」
彼女は小指を差し出した。
以前、偽物の恋人になると決めたときにも交わした、指切り。
俺は、その小指を見つめた。
「……また約束か」
「うん。大事な約束だから」
俺は小さく息を吐き、自分の小指を絡めた。
「……分かった」
「絶対だよ?」
「ああ」
小指が離れる。
たったそれだけのことなのに、なぜか胸の奥に温かいものが残った。
*
公園を出たころには、空がすっかり夕焼けに染まっていた。
駅までの道を、俺たちは並んで歩いていた。
あかりは今日撮った写真を確認しながら、ときどき楽しそうに笑っている。
「ねえ、樹くん」
「何だ?」
「今日、すごく楽しかった!」
「……それはよかった」
「それだけ?」
「……俺も楽しかった」
「えっ?」
あかりが顔を上げた。
俺は少しだけ視線をそらした。
「……だから、俺も楽しかったって言ったんだ」
「……そっか」
彼女はうれしそうに笑った。
「……よかった」
その声が、妙に優しかった。
しばらく歩いていると、駅前の人通りが増えてきた。
そのときだった。
「あれ? あかり?」
聞き覚えのある声がした。
振り向くと、朝倉悠真が立っていた。
制服姿の彼は、俺たちを見ると少し驚いたように目を見開いた。
「二人とも、今帰り?」
「うん! 悠真は?」
「塾に行くところ。……写真を撮りに行ってたのか?」
「そうなの! 文化祭の展示用にね」
あかりがカメラを見せる。
悠真はそれを見て、穏やかに笑った。
「そっか。あかり、本当に写真が好きだもんな」
「……うん!」
その返事には、少しだけうれしそうな響きがあった。
俺は二人の会話を聞きながら、胸の奥に小さな違和感を覚えていた。
悠真は、あかりのことをよく知っている。
写真が好きなことも。
落ち込んだときにどうなるのかも。
昔から、ずっとそばにいたのだから当然なのだろう。
それでも、なぜか気になった。
「……黒沢」
悠真が俺を見た。
「ん?」
「文化祭の準備、順調?」
「ああ。何とか」
「そっか。あかり、頑張りすぎるところがあるからさ。無理してたら、少し休ませてやって」
以前にも、似たようなことを言われた。
あかりのことを心配しているのだろう。
その気持ちは、よく分かる。
「……分かった」
俺が答えると、悠真は小さくうなずいた。
それから、あかりへ視線を戻した。
「じゃあ、俺は行くよ。また明日」
「うん! 頑張ってね!」
「ああ。二人も気をつけて」
悠真は手を振り、駅の反対側へ歩いていった。
その背中を、あかりは少しの間見つめていた。
「……幼なじみって、いいよな」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「え?」
「いや。何でもない」
あかりは少し考えてから、俺の顔をのぞき込んだ。
「……もしかして、悠真のこと気にしてる?」
「別に」
「本当に?」
「本当だ」
「ふーん……?」
彼女は、いたずらっぽく笑った。
「じゃあ、どうしてそんなに早く答えるの?」
「……」
反論できなかった。
あかりは楽しそうに笑い、俺の隣に並び直した。
「大丈夫だよ」
「……何が?」
「悠真は大切な幼なじみだけど、今、私と一緒に帰ってるのは樹くんでしょ?」
その言葉に、俺は思わず彼女を見た。
あかりは、まっすぐ前を向いていた。
「……だから、今は樹くんとの時間を大事にしたいな」
心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
何か言わなければと思った。
けれど、言葉が出てこない。
「……あかり」
「ん?」
「……そういうこと、簡単に言うな」
「えっ、どうして?」
「……こっちが困る」
彼女は一瞬きょとんとしたあと、顔を赤くした。
「……そ、そういう意味で言ったんじゃ……!」
「……じゃあ、どういう意味だ?」
「も、もう! 樹くんの意地悪!」
あかりは俺の腕を軽くたたいた。
その反応がおかしくて、俺は小さく笑った。
彼女も、つられるように笑った。
夕焼けの道に、二人の笑い声が響いた。
*
駅の改札前。
いつもなら、ここで「また明日」と言って別れる。
けれど、その日は、あかりがなかなか動こうとしなかった。
「……樹くん」
「何だ?」
「今日、もう一つだけお願いしてもいい?」
「……内容による」
「えー、まだ何も言ってないのに!」
「念のためだ」
「ひどいなあ……」
あかりは少し頬を膨らませたあと、意を決したように顔を上げた。
「……手、つないでもいい?」
俺は固まった。
「……は?」
「だから、手!」
「聞こえてる」
「じゃあ、返事してよ……!」
彼女の顔が、少しずつ赤くなっていく。
言い出した本人も、相当恥ずかしいらしい。
「……どうして?」
俺が尋ねると、あかりは少しだけ考えた。
「……今日は、いっぱい話を聞いてもらったから」
「それと手をつなぐことに、何の関係が?」
「……お礼、みたいなもの?」
「手をつなぐことがお礼になるのか?」
「……もう! 樹くんの鈍感!」
あかりは顔を真っ赤にして、うつむいた。
俺は困った。
正直に言えば、嫌ではなかった。
むしろ、彼女が自分から手をつなぎたいと言ってくれたことが、うれしかった。
でも、それをそのまま口にするのは難しかった。
だから俺は、静かに手を差し出した。
「……ほら」
あかりが顔を上げた。
「……いいの?」
「嫌なら、最初から出さない」
「……ありがとう」
彼女は、そっと俺の手を握った。
指先が触れ、手のひらが重なる。
それだけなのに、周囲の音が少し遠くなったような気がした。
あかりはうつむいたまま、小さく笑っていた。
「……温かいね」
「……そうか?」
「うん」
彼女は、少しだけ握る力を強めた。
「……このまま、もう少しだけ一緒にいたいな」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥に、ある思いが浮かんだ。
もし、今ここで手を離したら。
俺たちは、いつものように別れて帰る。
明日になれば、また学校で会える。
それで十分なはずだった。
なのに。
今は、手を離したくなかった。
「……あかり」
「……なに?」
「……もう少しだけなら、いい」
彼女は驚いたように顔を上げた。
それから、今まで見たことがないくらい、うれしそうに笑った。
「……うん!」
俺たちは、改札の前から少し離れた場所へ移動した。
手をつないだまま、特別な話をするわけでもなく、ただ今日撮った写真について話した。
どの写真を文化祭に使うか。
どの写真は展示せず、自分たちだけで楽しむか。
そんな何でもない話を。
やがて、あかりが足を止めた。
「……樹くん」
「ん?」
「……目、閉じてくれる?」
「……何で?」
「お願い」
いつもとは違う、真剣な声だった。
俺は少し迷った。
けれど、彼女の表情を見て、静かに目を閉じた。
「……閉じたぞ」
「……うん」
小さな足音が近づいた。
そして。
頬に、柔らかな感触が触れた。
ほんの一瞬だった。
俺が目を開けると、目の前にあかりがいた。
顔を真っ赤にして、今にも逃げ出しそうな表情をしている。
「……あ、あかり?」
「……ご、ごめん!」
彼女は慌てて一歩下がった。
「嫌だったら、本当にごめんね! 私、その……!」
言葉がうまく続かないらしい。
俺は、まだ何が起きたのか理解できずにいた。
頬に触れた、ほんの一瞬の感触。
あれは――。
「……キス?」
口にしてから、自分の声が少し裏返っていたことに気づいた。
あかりは両手で顔を覆った。
「……言わないで! 自分でも分かってるから!」
「……いや、でも……」
「……だって!」
彼女は指の隙間から、こちらを見た。
「……今日は、樹くんにありがとうって伝えたかったの。それに……」
声が、だんだん小さくなる。
「……樹くんのこと、前よりもっと好きになってる気がするから」
その言葉に、俺は何も言えなくなった。
あかりは、慌てて首を振った。
「……あっ、今のは、その……! 偽物の彼女として、っていう意味もあるし……でも、全部がそうってわけじゃなくて……!」
自分でも何を言っているのか分からなくなったのだろう。
彼女は、とうとううつむいてしまった。
「……ごめん。困らせちゃったね」
その声を聞いて、俺はようやく我に返った。
「……あかり」
「……うん」
「……嫌じゃなかった」
彼女が、ゆっくりと顔を上げた。
「……本当?」
「ああ」
俺は自分の頬に触れた。
まだ、さっきの感触を意識してしまう。
「……ただ、驚いただけだ」
あかりの目が、少しずつ潤んでいった。
そして、彼女は小さく笑った。
「……よかった」
俺たちは、しばらく何も言わなかった。
手は、まだつながったままだった。
けれど、さっきまでとは違う。
この手の温かさが、今まで以上にはっきりと感じられた。
*
その夜。
自分の部屋に戻った俺は、ベッドに座ったまま動けずにいた。
頬に触れた、あかりの唇。
真っ赤になった彼女の顔。
そして、最後に告げられた言葉。
『樹くんのこと、前よりもっと好きになってる気がするから』
「……何なんだ、これ」
俺は枕をつかんだ。
偽物の恋人。
俺たちは、そういう約束で一緒にいるはずだった。
文化祭が終わるまで。
周囲の目をごまかすために。
お互いが納得したうえで始めた、期間限定の関係。
なのに。
今では、彼女と一緒にいる時間を楽しみにしている。
彼女が笑うと、うれしくなる。
彼女が落ち込んでいると、何とかしてあげたいと思う。
そして今日、頬にキスされたことを、嫌だとは思わなかった。
……いや。
正直に言えば。
うれしかった。
その事実を認めた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「……俺、もしかして……」
言葉の続きを、口にすることはできなかった。
まだ、確信はない。
けれど、もしそうなら。
俺たちの関係は、もう最初の約束だけでは説明できなくなっている。
スマートフォンが震えた。
あかりからのメッセージだった。
『今日はありがとう』
『あと……急にキスして、ごめんね』
俺はしばらく画面を見つめた。
どう返信すればいいのか、分からない。
何度か文字を打っては消した。
そして、ようやく送った。
『……嫌じゃなかったって言っただろ』
送信して、すぐに後悔した。
これでは、まるで――。
考え終わる前に、返事が届いた。
『……うん』
少し間が空く。
『じゃあ、またいつか……してもいい?』
「……っ!」
俺はスマートフォンを落としかけた。
心臓がうるさい。
どうして彼女は、こういうことを平気で聞けるのだろう。
いや、平気ではないのかもしれない。
きっと、彼女も恥ずかしいのだ。
それでも、勇気を出して聞いてくれた。
なら、俺も。
自分の気持ちから逃げるのは、少し違う気がした。
俺は、ゆっくりと文字を打った。
『……そのときは、ちゃんと聞いてくれ』
しばらくして、返事が届いた。
『うん! 約束ね!』
続けて、もう一通。
『おやすみ、樹くん』
俺は画面を見つめ、静かに返信した。
『おやすみ、あかり』
スマートフォンを置く。
窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。
俺たちの関係は、まだ偽物なのかもしれない。
けれど、今日の出来事まで偽物だったとは思えなかった。
彼女が伝えてくれた気持ち。
俺が感じたうれしさ。
そして、もう少しだけ一緒にいたいと思ったこと。
それらは、間違いなく本物だった。
俺は、そっと自分の頬に触れた。
「……参ったな」
小さくつぶやく。
もう、今までどおりの気持ちではいられそうになかった。
そして、俺はまだ知らなかった。
この小さな一歩が、俺たち二人だけでなく、幼なじみである悠真の心にも、少しずつ波紋を広げ始めていることを。
偽物の恋人だった二人の関係は、静かに変わり始めていた。
第10話終了
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