第11話 昨日までと同じじゃいられない
火曜日の朝。
俺は鏡の前で、自分の顔をじっと見つめていた。
「……いつもどおりだ」
寝癖は直した。制服にも乱れはない。忘れ物もない。
表情だって、普段と変わらないはずだ。
少なくとも、自分ではそう思いたい。
なのに。
昨日の出来事を思い出すたび、頬が熱くなる。
篠原あかり。
俺の偽物の彼女。
そして――昨日、俺の頬にキスをした女の子。
「……何でこうなるんだ」
俺は鏡から目をそらした。
あのとき、彼女は確かに言った。
『樹くんのこと、前よりもっと好きになってる気がするから』
あれは、どういう意味だったのだろう。
偽物の彼女としての好意なのか。
それとも、もっと別の感情なのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
そもそも、俺自身の気持ちだって、まだ整理できていない。
彼女と一緒にいると楽しい。
笑っている姿を見ると、うれしくなる。
困っていると、何とかして力になりたいと思う。
それに、ほかの男子と親しそうに話していると、なぜか落ち着かなくなる。
……最後の一つについては、今は考えないでおこう。
「……学校に行くか」
これ以上考えていても、時間を無駄にするだけだ。
俺は鞄を手に取り、部屋を出た。
いつもどおりの火曜日。
そうなることを願いながら。
*
教室に入ると、いつもと変わらない騒がしさが広がっていた。
友達と話す声。
机を動かす音。
文化祭の準備について相談する声。
その中に、聞き慣れた明るい声が混じっていた。
「だからね、それは絶対かわいいと思うの!」
あかりだ。
クラスメイトの女子たちと、文化祭のカフェで使う装飾について話しているらしい。
彼女は俺に気づくと、いつものように手を振った。
「樹くん、おはよう!」
「……おはよう」
ここまでは問題ない。
いつもどおりだ。
あかりは女子たちとの会話を終えると、俺の席まで歩いてきた。
「今日、ちょっと早いね?」
「いつもと同じくらいだろ」
「そうだっけ?」
彼女は首をかしげた。
そして、ふっと柔らかく笑った。
「……あ、そうだ。昨日はありがとうね」
昨日。
その一言だけで、俺の思考が止まった。
「……昨日?」
「うん。写真を撮りに行ったこと!」
「あ、ああ……そうだな」
「すっごく楽しかった!」
「……俺も」
それだけの会話のはずだった。
けれど、あかりはなぜか俺の顔をじっと見つめていた。
「……樹くん?」
「何だ?」
「顔、赤くない?」
「赤くない」
「えー? ちょっと赤いよ?」
「……朝だからだ」
「朝って、顔が赤くなるものなの?」
「人による」
「ふふっ。何それ!」
あかりは楽しそうに笑った。
俺は気まずさをごまかすように、机へ視線を落とした。
だめだ。
昨日のことを意識しすぎている。
彼女はいつもどおりに話しかけてくれているのに、俺だけが勝手に動揺している。
……いや。
よく見ると、あかりも少し落ち着かない様子だった。
俺と目が合うと、すぐに視線をそらす。
それなのに、少しするとまたこちらを見てくる。
まるで、俺の反応を確かめているようだった。
「……あかり」
「は、はいっ!」
妙に大きな返事が返ってきた。
「……何か用か?」
「えっ? あ、ううん! 何でもないよ!」
彼女は慌てて首を横に振った。
「じゃ、じゃあ、またあとでね!」
そう言って、自分の席へ戻っていった。
……何だったんだ。
俺は小さく息を吐いた。
昨日までと同じように接しよう。
そう決めたはずなのに。
どうやら、そう簡単にはいかないらしい。
*
午前中の授業は、いつも以上に長く感じられた。
教師の説明は耳に入っている。
ノートもきちんと取っている。
それでも、頭の片隅にはずっとあかりのことがあった。
休み時間。
昼休み。
そして放課後。
今日も彼女と話すことになるだろう。
そのとき、俺はどんな顔をすればいいのだろうか。
「……黒沢」
隣の席の男子が、俺の机を軽くたたいた。
「お前、今日ずっと上の空じゃね?」
「……そうか?」
「そうだよ。さっき先生に当てられたときも、返事が遅かったし」
「考え事をしていただけだ」
「篠原のこと?」
思わず顔を上げてしまった。
「……何でそうなる」
「いや、お前ら最近ずっと一緒にいるじゃん。それに、今日の篠原、お前のこと何回も見てたぞ」
「……気のせいだろ」
「そうかなあ?」
男子は意味ありげに笑った。
「まあ、仲がいいのはいいことだと思うけどな」
「……お前こそ授業に集中しろ」
「はいはい」
男子は笑いながら前を向いた。
俺も教科書へ視線を戻す。
……頼むから、余計なことを言わないでくれ。
今の俺には、考えなければならないことが多すぎる。
*
昼休み。
俺が弁当を取り出していると、あかりがやってきた。
「樹くん、お昼、一緒に食べよう!」
「ああ」
俺たちはいつものように屋上へ向かった。
空はよく晴れていて、風も穏やかだった。
ベンチに並んで座り、それぞれの弁当を広げる。
ここまでは、いつもと何も変わらない。
問題は、そのあとだった。
「……あのさ、樹くん」
「何だ?」
「昨日のことなんだけど……」
思わず箸を止めた。
「……昨日?」
「うん。その……」
あかりは弁当箱に視線を落とした。
頬が、ほんのりと赤くなっている。
何を聞かれるのか、俺には分かっていた。
分かっているからこそ、どう答えればいいのか迷っていた。
「……あのとき、急にキスしちゃって、ごめんね」
「……」
「樹くんが嫌じゃなかったって言ってくれて、すごく安心したの。それで、つい……」
彼女はそこで言葉を切った。
「……でも、やっぱり、ちゃんと聞いてからにするべきだったよね」
俺は、しばらく考えた。
確かに、突然のことだった。
驚いたのも事実だ。
けれど、嫌だったわけではない。
むしろ、彼女がそんなふうに謝る必要はないと思っていた。
「……あかり」
「……うん」
「驚いたのは本当だ」
「……うん」
「でも、嫌だったわけじゃない」
あかりがゆっくりと顔を上げた。
「……本当に?」
「ああ」
俺は一度、息を吐いた。
「ただ……俺も、自分の気持ちがよく分かってないんだ」
あかりは何も言わず、じっと俺を見つめていた。
「お前と一緒にいるのは楽しい。これからも一緒にいたいと思う。でも、それがどういう感情なのか、まだうまく説明できない」
自分の気持ちを言葉にするのは、思っていた以上に難しかった。
それでも、曖昧な返事で彼女に期待を持たせるのは違うと思った。
「……だから、少しだけ時間がほしい」
あかりは目を伏せた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……分かった」
その声は、思っていたよりも落ち着いていた。
「無理に答えを出してほしいわけじゃないよ」
「……ああ」
「私だって、自分の気持ちが全部分かってるわけじゃないし」
彼女は少しだけ笑った。
「だから、ゆっくり考えていこう?」
その言葉に、胸の奥が少し軽くなった。
「……ありがとう」
「ふふっ。どういたしまして」
あかりは弁当箱を持ち直した。
「じゃあ、今日からまた、いつもどおり!」
「……いつもどおり、か」
「うん!」
彼女は元気よくうなずいた。
そして、俺の顔を見て、少しいたずらっぽく笑った。
「……でも、樹くんが私を意識してくれてるって分かったのは、ちょっとうれしいかも」
「……おい」
「あははっ! 冗談だよ!」
彼女は笑いながら箸を動かし始めた。
俺は小さくため息をついた。
やはり、彼女にはかなわない。
けれど、その明るさに救われている自分がいることも、否定できなかった。
*
昼食を終え、教室へ戻ろうとしたときだった。
「……黒沢」
後ろから声をかけられた。
振り向くと、朝倉悠真が立っていた。
「……朝倉?」
「あかりなら、先に教室へ戻ったよ」
「ああ、そうか」
悠真は俺の隣に並んだ。
「少し話せる?」
その表情は、いつもより真剣だった。
「……何だ?」
俺たちは階段のそばで足を止めた。
周囲に人影はほとんどない。
悠真はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「最近、あかりの様子が変わった気がするんだ」
「……変わった?」
「うん。前より楽しそうだし、よく笑うようになった。でも、それだけじゃない」
悠真は俺の目を見た。
「お前と一緒にいるとき、少し緊張してるように見えるんだ」
俺は答えられなかった。
悠真は小さく息を吐いた。
「……何かあった?」
「……特に何も」
「本当に?」
「ああ」
嘘ではない。
……いや、正確には、何もなかったとは言い切れない。
だが、あかりとの間で起きたことを、俺から話すつもりはなかった。
彼女の気持ちを、勝手に他人へ伝えるわけにはいかない。
悠真は俺の表情をしばらく見つめていた。
そして、少しだけ視線を落とした。
「……そっか」
納得したようには見えなかった。
「黒沢」
「何だ?」
「俺、あかりのことを長い間見てきたんだ」
「ああ」
「だから、あいつが無理してるときも、何となく分かる。笑っていても、本当はつらいんじゃないかって思うこともある」
悠真の声は穏やかだった。
「最近は、お前がそばにいるから、少し安心してた」
俺は何も言わなかった。
「でも……」
悠真は一度、言葉を切った。
「お前とあかりが、本当に付き合ってるのか、時々分からなくなるんだ」
心臓が跳ねた。
悠真は俺の目をまっすぐに見つめていた。
「二人は、ちゃんと恋人同士なの?」
答えなければならなかった。
けれど、すぐには口を開けなかった。
俺たちは、偽物の恋人だ。
その事実を、今ここで話すべきなのだろうか。
あかりと相談もせずに?
それは違う。
だから俺は、慎重に言葉を選んだ。
「……俺たちのことは、俺たちで決める」
悠真は静かに目を細めた。
「……そうだね」
それ以上、追及してくることはなかった。
ただ、最後に一つだけ口にした。
「俺は、あかりに幸せになってほしいんだ」
その言葉には、少しの迷いも感じられなかった。
「……だから、お前があいつを大切にしてくれるなら、俺は応援したいと思ってる」
悠真は笑った。
けれど、その笑顔はどこか寂しそうだった。
「……じゃあ、また」
「ああ」
悠真は階段を上っていった。
俺は、その場にしばらく立ち尽くしていた。
あいつも、あかりを大切に思っている。
そのことは、よく分かっていた。
そして、きっと。
俺がまだ自分の気持ちを整理できずにいる間にも、悠真は自分の気持ちと向き合おうとしているのだろう。
……俺は、一体何をしているのだろう。
*
放課後。
文化祭の準備は、予定よりも順調に進んでいた。
写真展示のボードはほぼ完成し、カフェの装飾も少しずつ形になり始めている。
「みんな、お疲れさま! 今日はここまでにしよう!」
委員の生徒がそう声をかけると、教室のあちこちから安堵の声が上がった。
俺が道具を片づけていると、あかりが近づいてきた。
「樹くん、今日もありがとう!」
「ああ。お疲れ」
「うん!」
彼女は少し迷うような表情を浮かべた。
「……ねえ、帰り、一緒に帰ってもいい?」
「……もちろん」
そう答えると、あかりはほっとしたように笑った。
俺たちは並んで学校を出た。
夕方の空は、薄い紫色に染まり始めていた。
「……今日、悠真と話した?」
あかりが尋ねた。
「……ああ」
「何を話したの?」
「お前のことだ」
あかりは驚いたようにこちらを見た。
「……私?」
「最近、様子が変わったって言ってた」
「……そっか」
彼女は少しだけうつむいた。
「悠真、心配してくれてたんだね」
「ああ」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、あかりが静かに口を開いた。
「……樹くん」
「何だ?」
「私ね、最近、少し怖いんだ」
「……何が?」
彼女は夕焼けを見つめていた。
「この関係が終わっちゃうこと」
俺は思わず足を止めそうになった。
「……偽物の恋人っていう約束、覚えてるよね?」
「ああ」
「文化祭が終わったら、私たち、どうなるんだろうって考えちゃうの」
あかりは、寂しそうに笑った。
「最初は、ただ周りに変に思われないためだけだったのにね」
「……そうだな」
「でも、今は……」
彼女は言葉を止めた。
何かを伝えようとして、ためらっているようだった。
「……今は?」
俺が尋ねると、あかりは小さく首を横に振った。
「……ううん。何でもない」
そして、いつものように笑おうとした。
けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
俺は、彼女の言葉の続きを聞きたかった。
今、何を考えているのか。
何がそんなに怖いのか。
俺との関係を、これからどうしたいと思っているのか。
けれど、無理に聞き出すことはできなかった。
だから、俺はただ静かに言った。
「……文化祭が終わるまでに、ちゃんと考えよう」
あかりが顔を上げた。
「……え?」
「俺たちの関係のことだ。これからどうするのか」
俺は彼女を見つめた。
「……俺も、曖昧なまま終わらせたくない」
あかりは、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さくうなずいた。
「……うん」
その返事には、安堵と不安の両方が混じっているように聞こえた。
*
駅に着くころには、夜の気配が近づいていた。
改札の前で、俺たちは足を止めた。
「……じゃあ、また明日」
あかりが言った。
「ああ。また明日」
彼女は改札を通ろうとした。
けれど、数歩進んだところで振り返った。
「……樹くん!」
「……何だ?」
「……私、今日も楽しかったよ」
突然の言葉だった。
俺は少し驚いた。
「……そうか」
「うん!」
あかりは、いつもの明るい笑顔を浮かべた。
「だから、明日も一緒に帰ろうね!」
「……ああ」
彼女は満足そうにうなずき、改札の向こうへ歩いていった。
その背中を見送ったあと、俺は小さく息を吐いた。
明日も一緒に帰る。
たったそれだけの約束が、今は妙にうれしかった。
そして、同時に思った。
この時間が、いつまでも続くわけではない。
いつか、俺たちは答えを出さなければならない。
偽物の恋人のままでいるのか。
それとも――。
「……まだ、分からないな」
俺はそうつぶやき、駅のホームへ向かった。
*
その夜。
悠真は自分の部屋で、机の上に置かれた一枚の写真を見つめていた。
そこには、中学生のころのあかりが写っていた。
少し幼さの残る笑顔。
今よりも不器用で、それでも懸命に笑おうとしていたころの姿。
悠真は、その写真をそっと手に取った。
「……あかり」
昔から、彼女のことをよく知っていた。
つらいときほど、無理に笑おうとすること。
人に心配をかけたくなくて、本音を隠してしまうこと。
自分のことよりも、周りの人の気持ちを優先してしまうこと。
だからこそ、彼女を守りたいと思っていた。
ずっと。
けれど最近、あかりの隣にいるのは自分ではない。
彼女が楽しそうに話す相手。
彼女が本音を見せる相手。
そして、彼女が少しずつ特別な表情を見せる相手。
それは、黒沢樹だった。
悠真は写真を机に戻した。
「……応援するって、決めたのにな」
自分に言い聞かせるように、静かにつぶやく。
あかりが幸せなら、それでいい。
そう思っていたはずだった。
けれど。
もし、彼女が樹を好きになったら。
もし、樹も彼女を好きになったら。
自分は本当に、笑って二人を祝福できるのだろうか。
答えは、まだ出なかった。
悠真は窓の外へ目を向けた。
夜空には、星が一つだけ輝いていた。
「……俺も、そろそろ逃げるのをやめないとな」
彼は小さく息を吐いた。
幼なじみとして、ただそばにいられればいい。
そうやって、自分の本当の気持ちに蓋をしてきた。
けれど、もう限界なのかもしれない。
翌日。
悠真は、あかりに伝えようと決めた。
ずっと胸の奥にしまい込んできた、本当の気持ちを。
それが三人の関係を変えることになるとしても。
もう、何も言わずに見守っているだけではいられなかった。
第11話終了
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