第8話 君の知らない、君の顔
恋人のふりを始めてから、一週間が経とうとしていた。
あの日、篠原あかりの手を握り返してから、俺たちの関係は少しずつ変わり始めていた。
朝の挨拶も、放課後の会話も、以前より自然になった。
それでも、俺たちが本当の恋人ではないという事実は変わらない。
最初は、ただの約束だった。
学校では付き合っているふりをする。
周囲に余計な詮索をされないようにする。
そして、何か問題が起きたら二人で相談する。
それだけのはずだった。
ところが現実は、俺の想像をはるかに超えていた。
「樹くん、おはよう!」
「……おはよう」
「今日も一緒に登校できたね!」
「同じ学校なんだから、いつかは会うだろ」
「もう、そういう言い方!」
あかりは頬を膨らませた。
そんな仕草にも、少しずつ慣れてきた。
問題は、そのこと自体が問題だという点である。
以前なら、彼女が俺の名前を呼ぶだけで周囲の視線が集まっていた。
今では、その視線を気にしながらも、普通に返事ができるようになってしまった。
人間の適応能力とは恐ろしいものだ。
「ねえ、樹くん」
「何だ?」
「今日の放課後、文化祭の準備をするでしょ?」
「ああ」
「それでね、ちょっとお願いがあるんだけど……」
あかりは、なぜか意味ありげに笑った。
俺は思わず警戒する。
「……何だ?」
「写真展示の担当、一緒にやってくれない?」
「写真展示?」
「うん! この前、文化祭で写真を飾ろうって話になったでしょ? 私、あの企画をもっといいものにしたいんだ」
彼女の瞳が、期待に満ちたように輝いていた。
こういうときのあかりは、本当に楽しそうだ。
だからこそ、断りづらい。
「……分かった」
「本当!? ありがとう!」
あかりは、ぱっと顔を明るくした。
その笑顔を見た瞬間、俺は思った。
まあ、悪くないかもしれない。
文化祭くらい、少し頑張ってみてもいいだろう。
ただし――。
俺はまだ知らなかった。
写真というものが、彼女にとって単なる趣味ではないということを。
*
放課後。
教室には、文化祭の準備をする生徒たちが残っていた。
机を動かす者。
装飾の案を考える者。
カフェのメニューを決める者。
そして、なぜか作業もせずにお菓子を食べている者。
最後の人間については、見なかったことにしておこう。
「樹くん、こっち!」
教室の隅から、あかりが手を振っていた。
彼女のそばには、写真を並べるための大きなボードが置かれている。
「これに写真を飾るんだな」
「そう! テーマは『高校生活の思い出』にしたいと思ってるの」
「ずいぶん普通だな」
「普通だからこそ、いいんだよ」
あかりは、用意していた写真を一枚取り出した。
そこに写っていたのは、放課後の教室だった。
机の上に置かれた教科書。
窓から差し込む夕日。
誰もいない静かな教室。
何の変哲もない風景だった。
けれど、不思議と目を引く写真だった。
「……これ、お前が撮ったのか?」
「うん」
「きれいだな」
あかりは、少し驚いたように目を丸くした。
「本当?」
「嘘をつく理由がない」
「……そっか」
彼女は写真に視線を落とし、うれしそうに微笑んだ。
「私、こういう写真が好きなんだ。特別なイベントじゃなくても、何でもない一日って、あとから振り返ると大切だったりするでしょ?」
「……分かる気がする」
「でしょ?」
あかりは次の写真を取り出した。
校庭の桜。
雨上がりの道路。
誰もいない廊下。
どれも派手な写真ではない。
それでも、一枚一枚に撮った人の想いが込められているように感じた。
「お前、本当に写真が好きなんだな」
「うん。写真を撮っているときは、余計なことを考えなくて済むから」
そう言って、あかりはカメラを手に取った。
「ねえ、ちょっと撮ってもいい?」
「何を?」
「樹くん」
「……は?」
「だって、今の樹くん、いい感じだから」
「どこがだよ」
「うーん……」
あかりは俺をじっと見つめた。
「何かを真剣に考えている顔?」
「それは単に、何を言われるのか警戒しているだけだ」
「あははっ! じゃあ、その顔を撮っちゃおう!」
「やめろ!」
俺が顔を隠すと、あかりは楽しそうに笑った。
「大丈夫! 変な写真にはしないから!」
「その言葉を信用できる根拠がない」
「ひどいなあ!」
彼女はカメラを構えた。
俺は諦めて、少しだけ顔を上げる。
カシャッ。
小さなシャッター音が教室に響いた。
「……撮れたか?」
「うん!」
あかりはカメラの画面を確認した。
その表情が、少しずつ変わっていく。
楽しそうな顔から、何かを大切にするような、静かな表情へ。
「……いい写真」
彼女は小さくつぶやいた。
「そうか?」
「うん。すごく」
あかりは画面を俺に見せようとした。
しかし、その直前、何かを思い出したように手を止めた。
「……やっぱり、あとで見せるね」
「何でだよ」
「ひ、秘密!」
彼女はカメラを胸元に抱えた。
俺は首を傾げる。
……何なのだろう。
最近、あかりは俺に対して、ときどき妙な反応を見せる。
その理由を知りたいと思う自分がいることにも、俺は気づき始めていた。
*
作業を始めて一時間ほど経ったころ。
「篠原さん、これ見てもらってもいい?」
クラスの男子が、写真の候補を持ってきた。
「もちろん!」
あかりは笑顔で応じた。
「この写真、ちょっと暗いかな?」
「ううん。夕方の雰囲気が出ていて、私は好きだよ。こっちの写真と並べたら、もっとよくなるかも」
「なるほど! ありがとう!」
男子はうれしそうに去っていった。
そのあとも、別のクラスメイトたちが次々とあかりに相談しに来た。
あかりは誰に対しても丁寧に答え、相手の意見をきちんと聞いていた。
なるほど。
彼女がクラスの中心にいる理由が、少し分かった気がした。
ただ明るいだけではない。
相手の意見を否定せず、自然に会話を続けられる。
そういうところが、みんなに好かれる理由なのだろう。
「……樹くん?」
「ん?」
あかりが不思議そうに俺を見ていた。
「何か考え事?」
「いや。お前って、すごいなと思って」
「えっ?」
「誰とでも自然に話せるし、相手の意見もちゃんと聞くし」
あかりは目を丸くした。
「……そんなことないよ」
「そうか?」
「うん。私だって、苦手な人はいるし、何を話せばいいか分からなくなるときもあるよ」
彼女は少し困ったように笑った。
「ただ、相手に嫌な思いをさせたくないだけ」
「……なるほど」
俺はうなずいた。
けれど、彼女の言葉に少しだけ引っかかるものがあった。
相手に嫌な思いをさせたくない。
それは優しさなのだろう。
でも、いつも相手を優先していたら、自分の気持ちはどこへ行くのだろう。
そんなことを考えていると、あかりが俺の顔をのぞき込んできた。
「……何か変なこと考えてる?」
「いや」
「絶対、何か考えてる顔だよ」
「お前の観察力が高すぎるんだ」
「ふふっ。じゃあ、当たってるんだ?」
「……知らん」
あかりは満足そうに笑った。
*
そのときだった。
「篠原さん!」
教室の入り口から、明るい声が響いた。
振り返ると、見覚えのない男子生徒が立っていた。
同じ三年生らしいが、別のクラスのようだ。
「あれ? 佐伯くん?」
あかりが驚いたように声を上げた。
「久しぶり! どうしたの?」
「写真展示をやるって聞いてさ。ちょっと見に来たんだ」
佐伯と呼ばれた男子は、手に持っていた紙袋を差し出した。
「これ、写真部で余った展示用の道具。使えそうだったら使ってよ」
「えっ、いいの? ありがとう!」
「いいって。どうせ余ってたものだし」
彼は気さくに笑った。
あかりも楽しそうに話している。
俺は作業を続けながら、二人の会話に耳を傾けていた。
「そういえば、篠原さんって、今も写真撮ってるんだ?」
「うん! 最近は学校の写真が多いかな」
「へえ。今度、写真部にも遊びに来なよ。新しいカメラが入ったんだ」
「本当? 見てみたい!」
「じゃあ、今度案内するよ」
「ありがとう!」
ごく普通の会話だ。
何もおかしなところはない。
それなのに、なぜか気になった。
佐伯は、あかりの趣味を知っている。
彼女が写真を好きだということも。
俺の知らない彼女の一面を、彼は知っている。
当然だ。
俺とあかりが知り合ったのは、つい最近なのだから。
それでも、胸の奥がわずかにざわついた。
「……樹くん?」
いつの間にか、あかりがこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「……何でもない」
「そう?」
彼女は俺の顔を見つめたあと、佐伯に向き直った。
「佐伯くん、ごめんね。今、作業中だから」
「ああ、邪魔して悪かったな。またな、篠原さん」
「うん! ありがとう!」
佐伯が去っていく。
あかりは受け取った紙袋を机の上に置いた。
「助かったね。これ、展示に使えそう!」
「……そうだな」
「樹くん?」
「何だ?」
「もしかして、疲れた?」
「いや、別に」
「……そっか」
あかりは少しだけ首を傾げた。
だが、それ以上は何も聞かなかった。
俺は、そんな自分が少し嫌になった。
彼女が誰と話そうと、俺には関係ない。
そもそも、俺たちは偽物の恋人だ。
それなのに、どうして俺は、こんなにも気になってしまうのだろう。
*
作業が終わるころには、教室に残っている生徒も少なくなっていた。
あかりは写真を整理しながら、ふと俺に尋ねた。
「ねえ、樹くん」
「何だ?」
「私のこと、どんな人だと思う?」
唐突な質問だった。
「……どういう意味だ?」
「そのままの意味。私って、どんな人に見える?」
俺は少し考えた。
明るい。
誰とでも話せる。
周りから好かれている。
そして、笑顔の裏に何かを隠している。
けれど、それを全部口にするのは、何だか違う気がした。
「……よく笑う人」
「それだけ?」
「人のことを、よく見てる人」
あかりが目を丸くした。
「……私が?」
「ああ。相手が何を言いたいのか、何を気にしているのか。そういうことに、よく気づくと思う」
俺は少しだけ視線をそらした。
「……あと、たまに無理してる」
その言葉を口にした瞬間、あかりの表情が止まった。
教室が静かになる。
俺は少し言いすぎたかもしれないと思った。
「……悪い。余計なことを言った」
「ううん」
あかりはゆっくりと首を振った。
「……うれしい」
「え?」
「樹くんが、ちゃんと私を見てくれてるんだなって思ったから」
彼女は小さく笑った。
けれど、その笑顔には、どこか寂しさが混じっていた。
「みんな、私のことを明るいって言うの。いつも元気だねって。悩みなんてなさそうって」
あかりは、写真を一枚手に取った。
「でも、本当はそんなことないんだよね」
彼女の指先が、写真の端をそっとなぞる。
「……私だって、弱いところがある」
「……ああ」
「それでも、みんなの前では笑っていたいんだ。笑っていれば、誰も心配しないから」
俺は黙っていた。
それは、彼女がずっと続けてきたことなのだろう。
誰かを安心させるために笑う。
自分の気持ちよりも、周りの気持ちを優先する。
それが彼女の優しさであり、同時に苦しさでもあるのかもしれない。
「……でもね」
あかりは俺を見た。
「樹くんの前では、少しずつ、そうしなくてもいい気がしてる」
胸の奥が、静かに揺れた。
「……それなら、よかった」
俺には、そう答えることしかできなかった。
あかりは、うれしそうに笑った。
「うん!」
その笑顔を見て、俺は思った。
この笑顔を、もっと見ていたい。
誰かのために無理して作る笑顔ではなく、彼女自身がうれしいときに見せる笑顔を。
そんなことを思ってしまった自分に、俺は少し戸惑っていた。
*
帰り道。
駅へ向かう途中、あかりが突然立ち止まった。
「……樹くん」
「どうした?」
「今日、ちょっとだけ寄り道してもいい?」
「別にいいけど」
「ありがとう!」
彼女はうれしそうに笑い、駅とは反対方向へ歩き始めた。
連れてこられたのは、小さな公園だった。
大きな遊具はなく、ベンチと数本の木があるだけの静かな場所。
夕暮れの公園には、近所の子どもたちの声が響いていた。
「ここ、よく来るのか?」
「うん。昔、よく来てたんだ」
あかりはベンチに腰を下ろした。
俺も少し距離を空けて座る。
「小さいころ、嫌なことがあったとき、よくここに来てたの」
「……そうなのか」
「うん。ここにいると、少し落ち着くんだ」
彼女は空を見上げた。
「今でも、たまに来るよ」
俺は公園を見回した。
確かに、静かな場所だった。
学校でも、駅前でも、あかりはいつも誰かに囲まれている。
でも、ここなら一人でいられる。
「……いい場所だな」
「でしょ?」
あかりは笑った。
そのあと、しばらく沈黙が続いた。
やがて、彼女が小さな声で口を開いた。
「ねえ、樹くん」
「何だ?」
「もし私が、みんなが思ってるような人じゃなかったら……どうする?」
俺は彼女を見た。
あかりは笑っていなかった。
不安そうな瞳で、俺の返事を待っている。
「……どういう意味だ?」
「例えば……本当はすごくわがままだったり、自分のことしか考えてなかったり。みんなが思ってるほど、いい人じゃなかったり」
彼女は膝の上で両手を握りしめた。
「そういう私を知ったら、樹くんはどう思う?」
俺は少し考えた。
彼女が本当はどんな人なのか、俺はまだ知らない。
知っていることより、知らないことのほうがずっと多い。
だからこそ、簡単に答えることはできなかった。
「……それを知ってから考える」
あかりが顔を上げた。
「え?」
「今のお前しか知らないのに、勝手にいい人だとか、悪い人だとか決められないだろ」
俺は前を向いた。
「それに、誰だって、いいところも悪いところもあるんじゃないか」
あかりは何も言わなかった。
「……少なくとも、俺はお前が何を考えてるのか、もっと知りたいと思ってる」
言ってから、俺は自分の言葉に戸惑った。
もっと知りたい。
そんな言葉、まるで――。
「……樹くん」
あかりの声が聞こえた。
振り向くと、彼女の頬がほんのり赤くなっていた。
「……それ、ずるいよ」
「は?」
「そんなこと言われたら……期待しちゃうじゃん」
彼女は顔を伏せた。
俺は何も言えなかった。
期待。
何を?
俺に何を期待するというのだろう。
聞きたいのに、聞けなかった。
その代わり、俺はベンチから立ち上がった。
「……そろそろ帰るか」
「……うん」
あかりもゆっくりと立ち上がった。
公園を出る直前、彼女が俺の袖をそっとつまんだ。
「樹くん」
「何だ?」
「……今日、ここに来てよかった」
彼女は、いつもの笑顔を浮かべた。
でも、今度はその笑顔が少しだけ違って見えた。
俺に何かを伝えようとしているような。
それでも、まだ伝える勇気がないような。
そんな笑顔だった。
*
家に帰ると、スマートフォンにメッセージが届いていた。
送り主は、あかりだった。
『今日はありがとう!』
『樹くんといると、安心する』
俺は画面を見つめた。
少し考えてから、返信する。
『……それならよかった』
すぐに返事が来た。
『ふふっ』
『でも、ひとつだけお願いしてもいい?』
『何だ?』
既読がついた。
しばらくして、メッセージが届いた。
『いつか、私の本当の気持ちを話してもいい?』
俺は、その言葉を何度も読み返した。
本当の気持ち。
彼女は、何を隠しているのだろう。
家族のこと。
将来のこと。
それとも、俺にはまだ分からない、もっと別のことなのだろうか。
俺はゆっくりと返信した。
『もちろん』
少し間を置いて、もう一通送る。
『話したくなったときでいい』
返事は、すぐには来なかった。
一分。
二分。
三分。
俺はスマートフォンを置こうとした。
そのとき、画面が光った。
『……ありがとう』
たった一言。
けれど、その言葉には、いつもより少しだけ重みがあるように感じた。
俺はスマートフォンを枕元に置き、天井を見つめた。
彼女の本当の気持ち。
いつか、それを聞く日が来るのだろう。
そのとき、俺は何を思うのだろう。
そして、俺自身の気持ちにも、答えを出せるのだろうか。
まだ、分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
俺はもう、彼女を単なる「偽物の恋人」として見ることができなくなり始めていた。
そして、それが少し怖かった。
なぜなら――。
偽物の関係が終わったあとに、何が残るのか。
俺には、まだ想像できなかったからだ。
第8話終了
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