第7話 君の笑顔が、少しだけずるい
翌朝。
目が覚めて最初に思い出したのは、昨夜の出来事だった。
正確には、昨日の帰り道のことだ。
篠原あかりの手を、俺が握り返してしまった。
……いや、別に大したことではない。
恋人同士なら、手をつなぐくらい普通のことだろう。
問題は、俺たちが本当の恋人ではないということだ。
「……はあ」
ベッドの上で、俺は深いため息をついた。
最近、ため息をつく回数が増えている気がする。
原因は分かっている。
学校一の美少女、篠原あかり。
彼女は、俺の平穏な日常を少しずつ、しかし確実に変えていた。
スマートフォンを手に取り、昨夜のメッセージを確認する。
『ふふっ。そういうことにしておくね』
たった一言。
それだけなのに、昨日の彼女の笑顔が頭に浮かんでくる。
「……もう考えるのはやめよう」
俺はスマートフォンを置き、布団から出た。
今日こそは普通に過ごす。
彼女を必要以上に意識しない。
いつもどおりの学校生活を送る。
そう心に決めた。
……その決意が、家を出てから十五分後に崩れるとは思いもしなかった。
*
「樹くん、おはよう!」
校門の近くで、あかりが手を振っていた。
朝日を背に、彼女はいつもどおりの明るい笑顔を浮かべている。
周囲を歩く生徒たちが、ちらちらとこちらを見ていた。
俺は一瞬、本気で回れ右をしたくなった。
しかし、ここで逃げれば余計に怪しまれるだけだ。
「……おはよう」
「今日も一緒に行こう!」
「昨日も一緒だっただろ」
「うん。だから今日も!」
何という論理だ。
反論の余地がない。
俺たちは並んで校門をくぐった。
しばらく歩いたところで、あかりがこちらをのぞき込んできた。
「ねえ、樹くん」
「何だ?」
「昨日、ちゃんと眠れた?」
「……普通に」
「本当?」
「何で疑うんだよ」
「だって、昨日の帰り、ちょっと様子がおかしかったから」
俺は思わず歩く速度を落とした。
「おかしいって、何が?」
「うーん……」
あかりは少し考えたあと、いたずらっぽく笑った。
「私の手、握り返してくれたでしょ?」
「……っ!」
「そのあと、すぐに離しちゃったけど」
「忘れろ」
「えー、どうして?」
「頼むから忘れてくれ」
俺が真剣に頼むと、あかりはとうとう笑い出した。
「あははっ! 分かった、分かった!」
まったく分かっていない顔だった。
「でもね、私、うれしかったよ」
彼女は笑顔のまま、そう付け加えた。
俺は前を向いた。
今の言葉に、どう返事をすればいいのか分からなかったからだ。
……この女子は、本当にずるい。
俺が何も言えなくなると分かっていて、こういうことを言っているのではないだろうか。
そう思いたくなるくらい、彼女の言葉は簡単に俺の心を乱してくる。
*
一時間目のホームルーム。
担任の先生が黒板に大きく文字を書いた。
『文化祭実行委員・クラス企画』
「三年生にとっては、最後の文化祭だ。受験もあるから無理はさせないが、クラスで協力して、いい思い出を作ってほしい」
教室がざわついた。
「先生、何やるんですか?」
「まだ決まっていない。今日のうちに案を出して、放課後に話し合う」
クラスメイトたちが、それぞれ意見を出し始めた。
「カフェがいいんじゃない?」
「お化け屋敷は?」
「三年生でお化け屋敷って、ちょっと子どもっぽくない?」
「じゃあ、演劇は?」
俺は静かにノートを開いた。
できれば目立たず、裏方に回りたい。
装飾でも、会計でも、何でもいい。
人前に立つ役割だけは、どうにか避けたいところだ。
「それから、文化祭実行委員を二名選ぶ」
先生の言葉に、俺は顔を上げた。
嫌な予感がした。
「クラス全体の意見をまとめられる人がいいな。誰か立候補する人はいるか?」
誰も手を挙げない。
教室に沈黙が落ちた。
先生は困ったように頭をかいた。
「じゃあ、推薦でもいいぞ」
その瞬間だった。
「篠原さんがいいと思います!」
クラスの女子が声を上げた。
「私も賛成! 篠原さん、みんなと仲いいし!」
「確かに!」
次々と賛成の声が上がる。
あかりは慌てて手を振った。
「えっ、ちょっと待って! 私、そんなにしっかりしてないよ!」
「いやいや、篠原なら大丈夫だろ」
男子の一人も賛成した。
先生は満足そうにうなずいた。
「よし。では、篠原を一人目にしよう」
あかりは困ったように苦笑いを浮かべた。
そして、先生が二人目を決めようとした、そのときだった。
「篠原さんと黒沢くんがいいんじゃない?」
誰かが言った。
……何だって?
「え、何で俺?」
「だって二人、付き合ってるんだろ?」
「文化祭でも一緒に頑張ればいいじゃん!」
「絶対楽しそう!」
教室が再びざわついた。
俺は思わず頭を抱えた。
恋人のふりを始めたことを、心の底から後悔した瞬間だった。
「黒沢、どうだ?」
先生が俺を見た。
断りたい。
全力で断りたい。
しかし、ここで拒否すれば、あかりとの関係を疑われるかもしれない。
どうしたものかと迷っていると、あかりがこちらを向いた。
「……樹くん」
その声は、いつもより少し小さかった。
無理に引き受けなくてもいい。
そんな気持ちが伝わってくるような表情だった。
俺は小さく息を吐いた。
「……分かりました」
「黒沢くん、ありがとう!」
先生が満足そうにうなずいた。
「では、文化祭実行委員は篠原と黒沢に決定だ」
教室に拍手が広がる。
俺は心の中で、静かに泣いた。
目立たずに過ごすという目標は、どうやら達成できそうにない。
*
ホームルームが終わったあと。
あかりが俺の席にやってきた。
「樹くん、ごめんね」
「何が?」
「実行委員のこと。私と一緒になったせいで、断りにくかったでしょ?」
俺は少し驚いた。
彼女は、そんなことまで気にしていたのか。
「……まあ、少しはな」
「やっぱり……」
あかりは申し訳なさそうに眉を下げた。
「先生にお願いして、別の人に変えてもらおうか?」
「いや、いいよ」
「でも……」
「俺が引き受けたんだ。お前が気にすることじゃない」
そう言うと、あかりはゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとう」
「ただし、仕事はちゃんと分担するからな。全部お前に任せるつもりはない」
「うん!」
彼女の表情がぱっと明るくなった。
「じゃあ、二人で頑張ろうね!」
「ああ」
俺たちは軽く手を合わせた。
その瞬間、周囲から歓声が上がった。
「今の見た!?」
「やっぱり本当に付き合ってるんだ!」
「お似合いすぎる!」
「……」
俺は無言で手を下ろした。
あかりも顔を真っ赤にしている。
「……樹くん」
「何だ?」
「これ、毎日続くのかな……?」
「……たぶんな」
二人そろって、深いため息をついた。
*
放課後。
文化祭の話し合いを終えた俺たちは、教室に残って資料を整理していた。
クラスの企画は、カフェに決まった。
ただのカフェではなく、教室の一角に写真の展示スペースを設けるという案も出ている。
写真。
その言葉を聞いたとき、あかりが少しだけうれしそうな顔をした。
「写真、好きなのか?」
俺が尋ねると、彼女は手元の資料に目を落とした。
「うん。昔から好きだよ」
「そうなのか?」
「うん。景色とか、何気ない瞬間とか……写真に残しておくと、あとから見返せるでしょ?」
あかりは柔らかく笑った。
「楽しかったことも、つらかったことも、忘れたくないから」
その言葉が、妙に心に残った。
「……つらかったことも?」
「うん」
彼女は一瞬、何かを思い出すような表情を浮かべた。
だが、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「ほら、樹くん。こっちの資料も見て!」
話題を変えられてしまった。
俺は少し気になったが、それ以上は聞かなかった。
あかりが話したくないことなら、無理に聞く必要はない。
それに、いつか彼女自身が話してくれるかもしれない。
*
資料の整理を終えたころには、窓の外がオレンジ色に染まっていた。
「ふう……終わった!」
あかりは椅子の背もたれに寄りかかり、両腕を大きく伸ばした。
「お疲れさま」
「樹くんもね!」
彼女は笑顔で答えた。
それから、机の上に置いてあった一枚の写真を手に取った。
「ねえ、これ見て」
写真には、校庭の桜が写っていた。
春の風に花びらが舞い、校舎の窓が夕日を反射している。
「きれいだな」
「でしょ?」
あかりはうれしそうに写真を見つめた。
「去年、友達と撮ったんだ。文化祭の準備で遅くなった日に」
「……いい写真だ」
「うん。私もお気に入り」
彼女は写真をそっと机に戻した。
その表情は、どこか寂しそうだった。
「……どうした?」
「え?」
「今、少し寂しそうだったから」
あかりは目を見開いた。
それから、困ったように笑った。
「樹くんって、意外とよく見てるよね」
「そうか?」
「うん。みんな、私が笑ってると、それだけで安心しちゃうから」
彼女は窓の外に目を向けた。
「でも、樹くんは、笑ってないときの私にも気づいてくれる」
俺は何も言えなかった。
褒められているのだろうか。
それとも、何か別の意味があるのだろうか。
あかりは写真をそっと胸元に抱えた。
「……本当はね、私、ちょっと怖いんだ」
「何が?」
「卒業すること」
思いがけない言葉だった。
「卒業したら、今みたいにみんなと会えなくなるでしょ? 進学先も違うし、住む場所だって変わるかもしれない」
彼女はゆっくりと言葉を続けた。
「今まで当たり前だったことが、全部変わっちゃう気がして」
「……」
「だから、写真を撮るのかもしれない。今の時間が、ちゃんとここにあったんだって、あとから思い出せるように」
彼女の声は、ほんの少し震えていた。
いつもの明るい声とは違う。
俺は、何か気の利いた言葉を探した。
けれど、そんなものは見つからなかった。
だから、正直に言った。
「……俺も、変わるのは苦手だ」
あかりがこちらを向いた。
「樹くんも?」
「ああ。新しい環境も、人間関係も、得意じゃない。できれば、ずっと同じ場所にいたいと思うこともある」
「……意外」
「よく言われる」
俺は小さく笑った。
「でも、同じ場所にいたいと思っても、時間は勝手に進んでいくからな」
「……うん」
「だったら、せめて今の時間を大切にすればいいんじゃないか」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
俺は普段、こんなことを人に言うタイプではない。
あかりはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと笑顔になった。
「……そうだね」
その笑顔は、いつものものとは違っていた。
誰かに見せるための笑顔ではない。
少なくとも、俺にはそう見えた。
「樹くんと話してると、不思議だな」
「何が?」
「心が、少し軽くなるの」
彼女はそう言って、俺の隣に座った。
肩が、ほんの少し触れた。
俺は動けなかった。
あかりも、すぐには離れなかった。
夕日が差し込む教室で、二人きりの時間が静かに流れていく。
やがて、彼女が小さくつぶやいた。
「……もう少しだけ、ここにいてもいい?」
「……ああ」
俺たちは、しばらくそのまま座っていた。
何も話さずに。
けれど、その沈黙は不思議と心地よかった。
*
帰り道。
駅まで歩きながら、あかりはいつもの明るさを取り戻していた。
「ねえ、樹くん!」
「何だ?」
「文化祭、絶対に成功させようね!」
「……ああ。できる範囲で頑張る」
「もう! そこは『絶対成功させよう』って言うところだよ!」
「結果を保証するのは無責任だろ」
「真面目すぎる!」
あかりは楽しそうに笑った。
俺も、つられて少しだけ笑ってしまった。
駅に着くと、彼女は改札の前で立ち止まった。
「今日はありがとう」
「何が?」
「いろいろ。話を聞いてくれて」
「……別に」
「また、それ!」
あかりは頬を膨らませた。
「樹くんは、ありがとうって言われたら、素直に受け取っていいんだよ?」
「……努力する」
「うん。期待してる!」
彼女は手を振り、改札を通っていった。
俺はその後ろ姿を見送りながら、今日のことを思い返した。
あかりの笑顔。
彼女の寂しそうな表情。
そして、隣に座ったときの、かすかな肩の温もり。
俺は、もう一つ気づいていた。
彼女のことを、もっと知りたいと思っている。
何が好きなのか。
何が苦手なのか。
何を考えて、何に悩んでいるのか。
そして、どんなときに、本当に笑うのか。
「……まずいな」
俺は小さくつぶやいた。
偽物の恋人なのに。
彼女のことをもっと知りたいと思うのは、約束の範囲内なのだろうか。
そんなことを考えている時点で、もう手遅れなのかもしれない。
*
その夜。
俺のスマートフォンに、一通のメッセージが届いた。
送り主は、あかりだった。
『樹くん、今日はありがとう』
『文化祭、一緒に頑張ろうね』
そして、少し間を置いて、もう一通。
『今日の私、いつもより自然に笑えてた気がする』
俺は、そのメッセージを何度か読み返した。
しばらく考えてから、返信する。
『そうなら、よかった』
すぐに返事が来た。
『うん!』
『樹くんの前では、無理しなくてもいい気がするんだ』
俺は画面を見つめた。
胸の奥が、静かに温かくなる。
この感情が何なのか、まだ分からない。
分からないけれど。
彼女が俺の前では無理をしなくてもいいと思ってくれるなら、それはきっと、うれしいことなのだろう。
俺はスマートフォンを置き、窓の外を見た。
夜空には、いくつもの星が浮かんでいた。
明日も、学校で彼女に会う。
明後日も、その次の日も。
文化祭の準備があるから、きっと今まで以上に一緒に過ごすことになる。
そう考えると、少しだけ楽しみだった。
……本当に、少しだけだ。
俺は自分にそう言い聞かせ、目を閉じた。
まだ知らない。
この偽物の恋人関係が、俺たちだけではなく、周囲の人々の気持ちまで変えていくことを。
そして、あかりがずっと胸の奥にしまってきた過去が、いつか俺の前に姿を現すことを。
今はただ、明日も彼女が笑ってくれたらいい。
そう思っていた。
第7話終了
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