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『偽物の恋人だったはずなのに、君を本気で好きになってしまった』  作者: 雨宮 怜


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第6話 どうして、あいつのことが気になるんだ

恋人のふりを始めてから、三日が経った。


 たった三日。


 それなのに、俺の平穏だった高校生活は、ずいぶん遠い昔のことのように感じられた。


「樹くん、おはよう!」


「……おはよう」


「今日も眠そうだね?」


「お前のせいだ」


「えっ!? 私、何かした?」


「……何でもない」


 朝からこんな会話を交わしている時点で、すでにおかしい。


 以前の俺なら、教室に入っても誰にも気づかれず、自分の席で静かに過ごしていた。


 それが今では、学校一の美少女が毎朝のように俺の席までやってくる。


 当然、周囲の視線も集まる。


 女子からの好奇の視線もそうだが、男子からの視線は特に痛い。


「黒沢……」


 隣の席の男子が、恨めしそうな目で俺を見ていた。


「お前、何か裏技でも使ったのか?」


「人生に裏技があるなら、俺が一番知りたい」


「じゃあ、どうやって篠原さんと付き合えたんだよ!」


「……気づいたら、こうなっていた」


「それが一番聞きたいんだよ!」


 説明できるわけがない。


 何しろ、俺自身がまだこの状況を理解しきれていないのだから。


「樹くん?」


 あかりが俺の机に手を置き、顔をのぞき込んできた。


「今日のお昼、どうする?」


「いつもどおりでいいんじゃないか?」


「じゃあ、屋上ね!」


「……分かった」


 あかりは満足そうにうなずくと、自分の席へ戻っていった。


 その後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。


 彼女は誰に対しても明るい。


 けれど最近、俺にだけ見せる表情があるような気がする。


 みんなに向ける、明るくて隙のない笑顔とは違う。


 少しだけ気の抜けた、自然な表情。


 それが演技なのか、それとも本心なのか。


 考え始めると、どうしても答えが出なかった。


     *


 一時間目と二時間目の授業が終わった休み時間。


 教室の入り口から、聞き覚えのある声が響いた。


「あかり、ちょっといい?」


 朝倉悠真だった。


 彼が教室に姿を現すと、何人かの女子が小さくざわめいた。


 成績優秀で、運動もできて、顔もいい。


 おまけに性格まで悪くなさそうなのだから、世の中は不公平だと思う。


「あ、悠真! どうしたの?」


「ちょっと話したいことがあってさ」


「いいよ。どうしたの?」


 悠真は一瞬だけ俺のほうに視線を向けた。


 それから、何事もなかったかのようにあかりへ向き直る。


「最近、放課後って忙しい?」


「え? どうして?」


「久しぶりに一緒に帰らないかと思って」


 あかりは少し考えるように視線を上げた。


「うーん……今日は樹くんと帰る約束をしてるんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、俺はノートから顔を上げた。


 悠真は笑顔を崩さなかった。


「そっか。じゃあ、また今度だな」


「うん! ごめんね」


「謝らなくていいよ」


 彼は軽く手を振り、教室を出ていった。


 何事もなかったような会話だった。


 それなのに、俺の頭には彼の言葉が妙に残っていた。


 ――久しぶりに一緒に帰らないか。


 昔からの友達なら、別に珍しい誘いでもないだろう。


 それ以上の意味なんてない。


 ……ないはずだ。


「樹くん?」


「……何だ?」


「どうしたの? さっきから難しい顔してるよ」


「いつもこんな顔だ」


「そうかなあ?」


 あかりは不思議そうに首を傾げた。


 そして、少しだけ声を落とした。


「もしかして……悠真のこと、気になる?」


「別に」


 考えるより先に、言葉が口から出ていた。


 あかりは俺の顔をじっと見つめる。


「本当に?」


「本当だ」


「……そっか」


 彼女は小さく笑った。


 けれど、その笑顔は、なぜか少し寂しそうに見えた。


     *


 昼休み。


 いつもの屋上で、俺たちは並んで弁当を食べていた。


 今日のあかりは、いつもより静かだった。


 普段なら、学校であった出来事や、授業中に先生が言った妙な冗談まで、次から次へと話してくれる。


 だが今日は、何度か口を開きかけては、そのたびに言葉を飲み込んでいた。


「……何かあったのか?」


 俺が尋ねると、あかりは顔を上げた。


「え?」


「今日は静かだから」


「あ……ううん。何でもないよ」


「そうか」


 俺はそれ以上、無理に聞こうとはしなかった。


 少しの沈黙が流れたあと、あかりがぽつりと口を開いた。


「悠真とはね、中学の頃から仲がいいんだ」


「……そうなのか」


「うん。昔から何でもできる人で、私が困っていると、いつも助けてくれたの」


 あかりは遠くの空を見つめた。


「中学のとき、私がクラスでちょっと嫌なことを言われたことがあってね。周りの子に合わせて笑っていたけど、本当はすごく傷ついてたんだ」


 俺は黙って聞いていた。


「そのとき、悠真だけが気づいてくれたの。『無理して笑わなくていい』って言ってくれた」


 あかりは懐かしそうに目を細めた。


「それが、すごくうれしかったんだ」


「……そうか」


 俺は箸を止めた。


 無理して笑わなくていい。


 それは、俺も彼女に伝えたいと思っていた言葉だった。


 けれど、悠真は俺よりずっと前に、その言葉を彼女に届けていたのだ。


 当たり前のことだ。


 俺と出会うより前から、二人には二人だけの時間があったのだから。


 それなのに、胸の奥が少しだけ重くなった。


「だから、悠真には感謝してるんだ」


 あかりは俺に視線を戻した。


「もちろん、今も大切な友達だよ」


「……友達、か」


「うん」


 彼女は小さくうなずいた。


 そして、俺の表情をうかがうように尋ねた。


「樹くんは……嫌?」


「何が?」


「私が悠真と仲がいいこと」


 俺はすぐに答えられなかった。


 嫌なのか。


 そう聞かれると、自分でもよく分からない。


 悠真は、あかりにとって大切な人だ。


 俺が口を出すことではない。


 それなのに、彼女が悠真の話をしていると、どうしても落ち着かなくなる。


「……別に、嫌じゃない」


 ようやく答えると、あかりは少しだけ視線を落とした。


「そっか」


 その声は、さっきよりも小さく聞こえた。


 俺は、どう返せばいいのか分からなかった。


 結局、その後は二人ともあまり話さなかった。


 屋上には、風が吹き抜ける音だけが静かに響いていた。


     *


 放課後。


 俺が昇降口で靴を履き替えていると、背後から声をかけられた。


「黒沢くん」


 振り返ると、朝倉悠真が立っていた。


「……何か用か?」


「少し、話せる?」


 断る理由はなかった。


 俺たちは人の少ない校舎裏へ移動した。


 夕方の風が吹き抜け、植え込みの葉がかすかに揺れている。


 悠真はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。


「率直に聞いてもいい?」


「どうぞ」


「あかりとは、本当に付き合ってるの?」


 予想していた質問だった。


 それでも、返事をするまでにわずかな間ができた。


 もちろん、本当のことを話すわけにはいかない。


 あかりと決めた約束がある。


 俺は一度、小さく息を吐いた。


「……付き合ってるよ」


 自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。


 悠真は俺の目をじっと見つめた。


「そっか」


 短い返事だった。


 けれど、彼はすぐに続けた。


「じゃあ、一つだけ頼みたいことがある」


「何だ?」


「あかりを、無理に笑わせようとしないでほしい」


 俺は眉をひそめた。


「……どういう意味だ?」


「誤解しないでほしい。君を責めているわけじゃないんだ」


 悠真は少し困ったように笑った。


「あかりは昔から、周りの期待に応えようとするところがある。誰かを心配させたくなくて、つらくても笑ってしまうんだ」


「……」


「だから、もし彼女が元気のない日があったら、無理に明るくさせようとしないでほしい。何も話さなくても、ただそばにいてあげてほしいんだ」


 俺はすぐには答えられなかった。


 それは、俺もすでに気づき始めていたことだった。


 あかりは笑顔の裏に本音を隠してしまう。


 そして俺は、彼女が自分から話してくれるまで待つことしかできない。


 でも、それでいいのかもしれない。


「……分かった」


 俺は静かに答えた。


「俺にできることなら、そうする」


 悠真は少し驚いたように目を見開いた。


 それから、ほっとしたように笑った。


「ありがとう」


 会話はそれで終わるはずだった。


 だが、悠真は立ち去る前に、もう一度俺を振り返った。


「黒沢くん」


「何だ?」


「君は、あかりのことが好き?」


 心臓が、一度だけ強く跳ねた。


 俺は答えに詰まった。


 好きなのか。


 そんなこと、考えたこともない。


 いや……考えないようにしていたのかもしれない。


 俺たちは偽物の恋人だ。


 始まりから終わりまで、決められた期間だけの関係。


 だから、本気になってはいけない。


「……俺たちは、付き合ってるからな」


 結局、そんな答えしか出てこなかった。


 悠真は俺の顔をしばらく見つめたあと、小さく息を吐いた。


「そっか。変なことを聞いてごめん」


 彼はそれ以上何も言わず、静かに立ち去った。


 俺はしばらく、その場から動けなかった。


 ――君は、あかりのことが好き?


 頭の中で、その質問が何度も繰り返される。


 どうして、あんなことを聞かれて動揺したのだろう。


 ただの偽物の恋人なのに。


     *


 校門を出ると、あかりが待っていた。


「樹くん!」


「……待ってたのか?」


「うん。今日は一緒に帰る約束だったでしょ?」


 そういえば、朝にそんな話をした気がする。


 俺は彼女の隣に並んだ。


「……朝倉と話してた」


 あかりの足が、一瞬だけ止まった。


「悠真と?」


「ああ」


「何を話したの?」


「……お前のこと」


「私の?」


 あかりは不安そうに俺を見た。


「何か言ってた?」


「無理に笑わせないでほしいって」


 彼女は目を丸くした。


「……そっか」


「それと、何も話さなくても、そばにいてやってほしいって」


 あかりはしばらく黙っていた。


 やがて、困ったように笑った。


「悠真らしいなあ……」


「昔から、そういうやつなのか?」


「うん。ちょっとお節介だけどね」


 彼女はそう言ってから、俺の制服の袖をそっとつまんだ。


「でも、樹くんも同じだよ」


「……何が?」


「私が元気ないとき、無理に聞き出そうとしないでしょ?」


 俺は答えなかった。


「それが、うれしいんだ」


 あかりは前を向いたまま続けた。


「私、誰かに心配してもらうと、ちゃんと元気だって伝えなきゃって思っちゃうから。でも、樹くんといると、元気じゃない自分でもいいんだって思えるの」


 夕日が、彼女の横顔を柔らかく照らしていた。


「……ありがとう、樹くん」


 俺は、どう返せばいいのか分からなかった。


 だから、いつものように答えた。


「……別に、何もしてない」


 あかりは小さく笑った。


「うん。知ってる」


 そして、彼女は俺の手を握った。


 いつもより、ほんの少しだけ強く。


     *


 駅に着くまで、俺たちは手をつないで歩いた。


 会話は少なかった。


 けれど、不思議と気まずくはなかった。


 改札の前で、あかりが足を止めた。


「じゃあ、また明日ね」


「ああ。また明日」


 彼女は名残惜しそうに、ゆっくりと手を離そうとした。


 その瞬間、俺は無意識に彼女の手を握り返していた。


「あ……」


 あかりが驚いた顔で俺を見る。


 俺自身も驚いていた。


 どうして手を離したくなかったのか。


 自分でも分からない。


「……樹くん?」


「……いや」


 俺は慌てて手を離した。


「何でもない。気をつけて帰れよ」


 あかりはしばらく俺を見つめていた。


 そして、頬をほんのり赤く染めながら微笑んだ。


「……うん。樹くんもね」


 彼女が改札の向こうへ消えていく。


 俺はその後ろ姿を、しばらく見送っていた。


     *


 その夜。


 ベッドに横になった俺は、天井を見つめていた。


 今日一日、いろいろなことがあった。


 悠真の言葉。


 あかりの笑顔。


 そして、最後に彼女の手を握り返してしまったこと。


「……何やってるんだ、俺は」


 そのとき、スマートフォンが震えた。


 あかりからだった。


『今日は一緒に帰ってくれてありがとう!』


 少し間を置いて、もう一通。


『今日、手を握り返してくれたの、うれしかった』


「…………」


 俺は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 どうして、この女子は、こういうことを恥ずかしげもなく言えるのだろう。


 いや。


 最後のメッセージは、いつもより少しだけ慎重な言葉に見えた。


 まるで、俺の返事を待っているような。


 俺はスマートフォンを持ち直した。


『……気のせいだろ』


 送信。


 数秒後、返事が届いた。


『ふふっ。そういうことにしておくね』


 俺は画面を見つめた。


 それから、返信せずにスマートフォンを置いた。


 これ以上話していたら、何かを言ってしまいそうだった。


 自分でも、まだ分かっていない気持ちを。


 俺たちは、偽物の恋人だ。


 それなのに。


 あかりが笑っていると、安心する。


 あかりが悲しそうにしていると、気になる。


 あかりが誰かと楽しそうに話していると、なぜか落ち着かない。


 そして、彼女が手を離そうとしたとき、俺は無意識に握り返していた。


「……まさか」


 口にしかけた言葉を、俺は飲み込んだ。


 まだ、認めるわけにはいかない。


 この気持ちに名前をつけてしまったら、きっと今までどおりではいられなくなる。


 だから今は、考えないことにした。


 少なくとも、今夜だけは。


 しかし――


 翌朝、俺は思い知らされることになる。


 自分が思っている以上に、あかりの存在が大きくなってしまっていることを。


 そして、そのきっかけを作ったのが、ほかでもない彼女自身だということを。




第6話終了




最後までお読みいただき、ありがとうございます!


皆様の感想やご意見は、今後の執筆の励みになります。


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これからも楽しんでいただける物語をお届けできるよう頑張ります!

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