第4話 付き合っているふりをしてください
翌日の放課後。
俺――黒沢樹は、教室の隅でスマートフォンを眺めていた。
画面には、昨夜届いたメッセージと、それに対する自分の返信が表示されている。
『明日の放課後、少し時間ある?』
送り主は、篠原あかり。
学校一の美少女で、誰とでも気軽に話せて、いつもクラスの中心にいる女子だ。
そんな彼女が、なぜか最近、俺にメッセージを送ってくる。
しかも、昨日は俺の家に泊まった。
……いや、正確には泊まっただけだ。
何もなかった。
何もしていない。
大事なことなので、もう一度言っておこう。
何もしていない。
「黒沢くん?」
「うわっ!」
突然、背後から声をかけられ、俺は危うくスマートフォンを取り落としそうになった。
慌てて振り返ると、そこには今話題にしていた本人が立っていた。
「な、何だよ」
「何だよって……そんなに驚かなくてもよくない?」
あかりは少しだけ頬を膨らませた。
その仕草が妙に子どもっぽくて、俺は思わず視線をそらしてしまう。
「それで、今日の放課後、空いてる?」
「空いてるけど」
「じゃあ、ちょっと付き合って!」
「……どこに?」
「その言い方、なんかデートに誘ってるみたい」
「お前が言ったんだろ!」
思わず声が大きくなった。
教室に残っていた数人が、こちらを振り向く。
あかりは一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。
「ふふっ。樹くんって、意外と面白いね」
「面白くない」
「はいはい。じゃあ、昇降口で待ってるね!」
そう言って、彼女は軽く手を振りながら教室を出ていった。
……どうして俺は、学校一の美少女と放課後に会う約束をしているのだろう。
人生というものは、時々、説明書もなしに難易度を上げてくる。
*
放課後。
昇降口に着くと、あかりは窓際で待っていた。
制服の袖を指先でいじりながら、スマートフォンを操作している。
俺に気づくと、彼女はぱっと顔を上げた。
「樹くん!」
「待たせたか?」
「ううん。私も今来たところ」
「……それ、待ち合わせでよく聞く台詞だな」
「いいじゃん。言ってみたかったんだもん」
あかりは悪びれる様子もなく笑った。
俺たちは校門を出て、駅とは反対方向へ歩き始めた。
「それで、どこに行くんだ?」
「近くのカフェ。ちょっと相談したいことがあるの」
「相談?」
「うん。昨日のことにも関係あるんだけど……」
そう言った彼女の表情が、ほんの少しだけ曇った。
さっきまでの明るい笑顔とは違う、どこか遠慮がちな表情だった。
俺はそれ以上、何も聞かなかった。
無理に話させる必要はない。
話したくなったら、きっと自分から話してくれるだろう。
*
カフェの窓際の席。
俺たちは向かい合って座っていた。
あかりはオレンジジュースを一口飲むと、ストローを指先でくるくると回し始めた。
「実はね、今日、クラスの子に聞かれたの」
「何を?」
「昨日、樹くんと一緒に登校してた理由」
「……ああ」
朝のことを思い出した。
俺とあかりが一緒に歩いているところを、何人かの生徒に見られていたらしい。
当然といえば当然だ。
学校一の美少女と、クラスでも目立たない男子。
そんな二人が一緒に歩いていれば、話題にならないはずがない。
「それで、何て答えたんだ?」
「普通に、一緒に帰っただけって」
「それなら問題ないだろ」
「うん。でも……」
あかりは少し困ったように笑った。
「そのあと、『もしかして付き合ってるの?』って聞かれちゃった」
「……は?」
「だから、付き合ってるのかって」
「いや、聞こえてる。意味が分からなかっただけだ」
「ひどい!」
あかりは再び頬を膨らませた。
けれど、すぐに表情を引き締める。
「それでね。私、ちょっと考えたんだけど……」
彼女はテーブルの上で両手を組んだ。
そして、少しだけ緊張した様子で口を開く。
「私たち、付き合ってるふりをしない?」
「…………は?」
今日二度目の、意味が分からない、である。
いや、今度は意味が分からないどころではない。
できれば、理解したくなかった。
「待て。どうしてそうなる?」
「だって、変に否定したら、逆にいろいろ聞かれそうだし。それに、昨日のこともあるから……」
「昨日のこと?」
「私が樹くんの家に泊まったこと!」
「声が大きい!」
「ご、ごめん!」
あかりは慌てて口を押さえた。
幸い、周りの客はそれぞれ自分たちの会話に夢中になっているようだった。
俺は額に手を当て、深いため息をついた。
「そもそも、付き合ってるふりをしたら、余計に噂になるんじゃないか?」
「それは……そうかもしれないけど」
「だろ?」
「でも、樹くんなら変なことを言いふらしたりしないって思ったから」
その言葉に、俺は返事を止めた。
あかりは視線を落とし、テーブルの上で指先をそっと重ねた。
「私ね、誰かと仲良くすると、すぐにいろいろ言われるんだ。誰と話してたとか、誰と帰ったとか……」
いつもより少し小さな声だった。
「みんな、悪気があるわけじゃないって分かってる。でも、何をするにも周りの目を気にしなきゃいけないのって、時々疲れちゃうんだ」
彼女はいつも笑っている。
誰に話しかけられても、楽しそうに答えている。
だから俺は、彼女が人間関係で悩むことなどないのだと思っていた。
けれど、それは俺が勝手にそう思い込んでいただけなのかもしれない。
「樹くんといると、無理して明るくしなくてもいい気がするんだ」
あかりは少し照れくさそうに笑った。
「何ていうか……ちゃんと自分のままでいられる気がするの」
その言葉が、妙に心に残った。
彼女のことを、俺はまだほとんど知らない。
学校で見せる笑顔の裏に、どんな思いを抱えているのかも。
それでも、今の言葉だけは嘘ではないように思えた。
「だから……少しだけ、協力してほしい」
俺は彼女を見つめた。
断る理由なら、いくらでも思いつく。
面倒だ。
目立ちたくない。
学校中の視線を集めるなんて、絶対にごめんだ。
それでも。
「……期間限定だからな」
「え?」
「付き合ってるふりだ。いつまでも続けるわけにはいかないだろ」
あかりの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当!? ありがとう、樹くん!」
「ただし、条件がある」
「条件?」
「学校で必要以上に目立つことはしない。無理に手をつないだりもしない。それから、何か問題が起きたら、二人で相談して決める」
あかりは少し考えてから、こくりとうなずいた。
「分かった。約束する」
そして、彼女は右手の小指を差し出した。
「じゃあ、約束の指切り!」
「……小学生かよ」
「いいから!」
仕方なく、俺も小指を差し出す。
小さな指が触れ合った。
たったそれだけなのに、なぜか少しだけ落ち着かない。
「これからよろしくね、樹くん」
「ああ……よろしく」
こうして俺は、人生で初めて彼女ができた。
……正確には、彼女ができたふりをすることになった。
この違いは、きっと大きい。
そう信じたい。
*
カフェを出たあと、俺たちは駅へ向かって歩いていた。
「ねえ、樹くん」
「何だ?」
「せっかくだから、呼び方を変えてみない?」
「呼び方?」
「うん。付き合ってるなら、もう少し親しげな感じでもいいかなって」
「今でも十分、親しげだと思うけど」
「えー? じゃあ、あかりって呼んでみて!」
……来た。
難易度が上がった。
俺は前を向いたまま、何度か口を開きかけて、結局何も言えなかった。
彼女の名前を呼ぶだけだ。
たった三文字。
それなのに、どうしてこんなに難しいのだろう。
「あ・か・り」
「うん?」
「…………」
「樹くん?」
「……篠原」
「戻ってるよ!」
あかりは声を上げて笑った。
「もう、練習しようよ。ほら、あかり!」
「……あかり」
今度は、何とか言えた。
彼女は一瞬、目を丸くした。
そして、頬をほんのり赤く染める。
「……うん。合格」
「何の試験だよ」
「私が勝手に作った試験!」
彼女は得意げに胸を張った。
その笑顔を見ていると、不思議な気持ちになる。
学校で見る彼女は、いつも誰かに囲まれている。
けれど今、俺の隣にいる彼女は、少しだけ違って見えた。
よく笑うし、よくしゃべる。
それなのに、時々、何かを確かめるように俺の顔を見る。
まるで、ここにいてもいいのかと尋ねているように。
「……何?」
俺の視線に気づいたあかりが首を傾げた。
「いや。何でもない」
「怪しいなあ」
「気のせいだ」
「ふーん?」
彼女は意味ありげに笑った。
そして、突然、俺の制服の袖をつまんだ。
「じゃあ、練習その二!」
「まだあるのか?」
「あるよ。恋人っぽく、一緒に帰る練習!」
「今、まさに一緒に帰ってるだろ」
「そうだけど、もっと自然に!」
「これ以上どう自然にしろと……」
文句を言いながらも、俺は歩く速度を少しだけ落とした。
あかりが隣を歩きやすいように。
彼女はそれに気づいたのか、何も言わずに微笑んだ。
その小さな笑顔を見て、俺もほんの少しだけ口元を緩めていた。
*
その日の夜。
家に帰った俺は、ベッドに寝転がりながらスマートフォンを眺めていた。
画面には、あかりからのメッセージが届いている。
『今日はありがとう!』
『明日から、学校では恋人ってことにするね!』
『でも、嫌になったらすぐに言ってね』
最後の一文が、少しだけ気になった。
あかりは本当に、この関係を望んでいるのだろうか。
それとも、俺に迷惑をかけていると思っているのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は返信を打った。
『分かった。そっちも無理するなよ』
すぐに返事が来た。
『うん!』
続けて、もう一通。
『おやすみ、樹くん』
たったそれだけの短い言葉。
それなのに、俺はしばらく画面から目を離せなかった。
「……おやすみ、か」
誰かから寝る前にメッセージをもらう。
それだけのことが、こんなにも不思議な気分になるとは思わなかった。
俺はスマートフォンを枕元に置き、目を閉じた。
明日から、学校での俺の立場は変わる。
今まで誰にも注目されなかった俺が、学校一の美少女の彼氏になるのだから。
もちろん、ふりだけど。
……ふりのはずだ。
*
翌朝。
教室に入った俺は、すぐに異変に気づいた。
何人ものクラスメイトが、こちらを見ている。
ひそひそと話す声が聞こえてきた。
「ねえ、あれって黒沢くんだよね?」
「篠原さんと一緒に帰ってたっていう……」
「本当に付き合ってるのかな?」
嫌な予感しかしない。
俺が自分の席に逃げ込もうとした、その瞬間だった。
「樹くん!」
教室の入り口から、明るい声が響いた。
篠原あかりが、笑顔でこちらに向かってくる。
そして、クラス全員が見ている前で――
「おはよう!」
彼女は俺の机の横に立ち、当たり前のように微笑んだ。
「今日、一緒にお昼食べようね?」
教室が静まり返った。
数秒後。
「「「ええええええっ!?」」」
クラス中から、驚きの声が上がった。
俺はゆっくりと天井を見上げた。
神様。
もし聞こえているのなら、ひとつだけお願いがあります。
どうか、卒業まで俺の心臓がもちますように。
……いや。
できれば、明日まででもいいです。
こうして、俺と篠原あかりの、秘密の恋人生活が始まった。
ただし――
この時の俺は、まだ知らなかった。
彼女の笑顔の裏に隠された、本当の気持ちも。
そして、この偽物の関係が、いつか俺たち自身の心を大きく揺さぶることになるのも。
まだ、何も知らなかったのだ。
第4話終了
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