第2話 彼女と過ごした、忘れられない夜
篠原あかりという女の子は、どうにも俺の理解を超えている。
それが、高校三年生になってから、俺が最初に知ったことだった。
「それじゃあ、黒沢くん。よろしくお願いします!」
「……本当に俺でいいのか?」
「またそれ? 今日だけで何回同じこと聞くの?」
「大事なことだからな」
「大丈夫だよ。私、人を見る目には自信があるから!」
そう言って、篠原は得意げに胸を張った。
俺は思わず小さく息を吐いた。
放課後。
俺たちは写真部の部室に来ていた。
正確に言えば、俺はそのまま帰宅するつもりだったのだが、彼女の勢いに押される形でここまで連れてこられたのだ。
昨日まで、ほとんど会話すらしたことのなかった相手と、まさかこんな場所で一緒に過ごすことになるとは思わなかった。
写真部は部員が少なく、現在はほとんど活動休止状態らしい。
部室には古いカメラや使われなくなった三脚、それに何年も前の文化祭で撮影された写真がいくつも残されていた。
窓から差し込む夕日が、床の上に長い影を落としている。
「へえ……こんな場所があったんだ」
篠原は興味深そうに室内を見回していた。
「学校の中なのに、知らない場所って結構あるんだね」
「篠原なら、学校中のことを知ってると思ってた」
「えっ、私を何だと思ってるの?」
「……学校の案内板」
「人間です!」
即座に返ってきた言葉に、思わず笑いそうになった。
「……あっ」
篠原がこちらを向いた。
「今、笑った?」
「笑ってない」
「絶対に笑った!」
「気のせいだろ」
「黒沢くんって、意外とひどい人なんだね」
「初対面に近い相手への評価としては、ずいぶん早いな」
「じゃあ、もっと知ればいいんだね?」
「……え?」
「私、黒沢くんのこと、もっと知りたいし!」
彼女は何でもないことのように言った。
俺の思考が一瞬止まる。
この人は、自分の発言が相手にどれだけの影響を与えるのか、分かっているのだろうか。
いや、きっと分かっていないからこそ、こんなことを自然に言えるのかもしれない。
「……撮影するんじゃなかったのか?」
「話をそらした!」
「そらしてない」
「そらしてるよ!」
篠原は楽しそうに笑った。
俺はこれ以上何か言われる前に、カメラを手に取って撮影の準備を始めた。
とりあえず、今は写真に集中しよう。
そうすれば、余計なことを考えずに済むはずだ。
……たぶん。
◇
「じゃあ、まずは普通に立ってみて」
「普通に?」
「うん。できるだけ自然な感じで」
「……こう?」
篠原は両手を前でそろえ、背筋をぴんと伸ばした。
まるで入学案内のパンフレットに載っている優等生のような立ち姿だった。
「……篠原」
「はい!」
「面接を受けに来たわけじゃないんだぞ」
「えっ、違うの?」
「違うよ」
「そっか……残念」
何が残念なんだ。
俺は苦笑しながらカメラを構えた。
ファインダー越しに彼女を見る。
普段は大勢の友人に囲まれている彼女が、今は俺一人の視線を意識している。
それが、何だか不思議だった。
「もっと自然にしていいよ」
「自然って、意外と難しいね」
「いつも友達と話してるときみたいにすればいい」
「……黒沢くんの前で?」
「そうだけど」
「それはそれで、ちょっと恥ずかしいんだけど」
彼女は小さくつぶやいた。
「……何か言った?」
「何でもない!」
篠原は慌てて顔を上げた。
耳がほんのり赤くなっている。
……気のせいだろうか。
俺は余計なことを考えないように、シャッターを切った。
カシャッ。
「えっ、今撮ったの?」
「撮ったけど」
「待って! 今の絶対変な顔だった!」
「いや、普通だったぞ」
「本当に?」
「ああ」
彼女は疑わしそうに俺の顔を見つめた。
「……見せて?」
「まだ確認中」
「一枚くらい、いいじゃん!」
そう言って、彼女は画面をのぞき込もうと身を乗り出した。
その拍子に、肩が軽く触れる。
近い。
思っていた以上に近い。
髪が頬に触れそうな距離で、彼女の顔がカメラの画面をのぞき込んでいる。
俺はカメラを持ったまま、思わず動きを止めてしまった。
「……黒沢くん?」
「な、何だ?」
「顔、赤くない?」
「夕日のせいだ」
「夕日、反対側にあるけど?」
「…………」
「ふふっ。分かりやすいね」
彼女は楽しそうに笑った。
……本当に、この人のことが分からない。
どうしてこんなにも自然に人の懐に入り込めるのだろう。
どうして、俺ばかりがこんなに動揺しているのだろう。
そして、どうして。
彼女が笑うたびに、もう一枚写真を撮りたいと思ってしまうのだろう。
◇
撮影を終える頃には、窓の外はすっかり夕暮れに染まっていた。
「今日はありがとう、黒沢くん!」
篠原はスマートフォンで写真を確認しながら、満足そうに笑っていた。
「思ってたより、ずっと楽しかった!」
「それならよかった」
「ねえ、またお願いしてもいい?」
「……内容による」
「やった!」
「まだ了承してないんだけど」
「細かいことは気にしない!」
気にする。
俺はそういう細かいことを気にする人間なんだ。
そんなことを考えながら、カメラを片づけていると、篠原が鞄を肩に掛けて部室の扉を開けた。
その瞬間だった。
彼女のスマートフォンが短く震えた。
画面を確認した篠原の表情が、ほんの一瞬だけ変わる。
「……あ」
「どうした?」
「ううん。何でもないよ」
そう答えると、彼女はすぐにスマートフォンをしまった。
けれど、さっきまで浮かべていた笑顔は、いつの間にか消えていた。
気のせいかもしれない。
そう思おうとしたが、どうしても気になった。
それでも、俺たちはまだ知り合ったばかりだ。
相手の事情に踏み込めるほど、親しいわけではない。
だから俺は、何も聞かないことにした。
このときは、まだ知らなかった。
その小さな変化が、今夜の出来事につながっていくことを。
◇
午後七時十二分。
駅へ向かう途中、突然雨が降り始めた。
「うそ……」
隣を歩いていた篠原が空を見上げる。
「天気予報では晴れだったのに!」
「最近の天気予報は当てにならないな」
「黒沢くん、傘は?」
「ある」
「……えっ?」
俺は鞄から折り畳み傘を取り出した。
篠原はそれを見て、目を丸くする。
「準備いいね!」
「朝、雨が降るかもしれないと思っただけだ」
「すごい。私、完全に油断してた」
「駅までなら、入っていくか?」
言ってから、自分の発言を少しだけ後悔した。
相合い傘。
つまり、篠原あかりと一つの傘に入るということだ。
いや、別におかしなことではない。
雨が降っているのだから、濡れないためには合理的な選択だ。
それ以上の意味なんてない。
……ないはずだ。
「いいの?」
「ああ」
「じゃあ、お言葉に甘えて!」
彼女は俺の隣にやってきた。
傘を開く。
雨粒が傘の表面を叩く音が、周囲のざわめきを少しずつ遠ざけていく。
歩き始めると、彼女の肩が俺の腕に触れた。
俺は反射的に傘を彼女のほうへ傾ける。
「……黒沢くん、そっち濡れてるよ?」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ」
彼女は俺の手元を見て、それから顔を上げた。
「もう少し真ん中に寄ってもいい?」
「……好きにしてくれ」
「じゃあ、遠慮なく!」
彼女は半歩、俺との距離を縮めた。
近い。
朝から何度も思っているが、やっぱり近い。
けれど、彼女の肩が雨に濡れなくなったことに、俺は少しだけ安心していた。
「ねえ」
「何だ?」
「黒沢くんって、優しいね」
「……普通だろ」
「そうかな」
彼女は前を向いたまま、ぽつりと言った。
「私、こういうの結構うれしいよ」
雨音に混じったその声は、いつもより少し小さく聞こえた。
俺は何も答えられなかった。
何と返せばいいのか、分からなかったからだ。
◇
駅に着く頃には、雨はさらに強くなっていた。
「じゃあ、また明日ね!」
「ああ。また明日」
改札へ向かう彼女の背中を見送り、俺は反対方向へ歩き出した。
そのときだった。
少し離れた場所から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「……だから、今日は帰りたくないの」
足が止まった。
篠原だった。
どうやら電話をしているらしい。
いつもの明るい声とは違う。
どこか苦しそうで、今にも消えてしまいそうな声だった。
「お願い。今夜だけでいいから……」
彼女の声が震えた。
俺は思わず振り返った。
篠原は駅の柱のそばに立ち、スマートフォンを強く握りしめていた。
「……分かった。ごめんね」
通話が切れる。
彼女はしばらく、その場から動かなかった。
やがて顔を上げたとき、目元には涙が浮かんでいた。
俺はどうすればいいのか分からなかった。
見なかったことにして帰るべきだろうか。
それとも、声をかけるべきだろうか。
余計なお世話かもしれない。
迷惑に思われるかもしれない。
それでも。
「……篠原?」
気づけば、俺は彼女の名前を呼んでいた。
彼女は驚いたように振り返る。
「……黒沢くん?」
「いや、その……」
何を言えばいい。
大丈夫か、と聞くべきなのか。
何があったのか、と尋ねるべきなのか。
どちらも、今の彼女にかける言葉としては軽すぎる気がした。
結局、俺の口から出てきたのは、こんな言葉だった。
「……帰る場所、ないのか?」
彼女は答えなかった。
ただ、唇をきゅっと結び、うつむいた。
その沈黙が、何よりも雄弁に答えを物語っていた。
◇
午後八時。
俺は自宅の玄関で、人生最大級の問題に直面していた。
目の前には、篠原あかりがいる。
学校で一番人気があると言っても過言ではない女の子だ。
その彼女が、今夜は俺の家に泊まることになった。
……いや、誤解しないでほしい。
別に何か特別なことがあるわけではない。
駅で話を聞いたところ、彼女は家族と口論になり、今夜はどうしても家に帰りたくないらしい。
詳しい事情については、まだ話したくないと言われた。
近くに住む友人にも連絡してみたそうだが、今日は都合がつかなかったという。
もちろん、俺も最初は迷った。
俺たちは、まだ知り合ったばかりだ。
それでも、雨の中で一人立ち尽くす彼女を、そのまま帰すことはできなかった。
ひとまず、家族には事情を説明してある。
今夜は客間を使ってもらうことになった。
「……お邪魔します」
玄関で靴を脱ぐ篠原を見ながら、俺は落ち着かない気持ちを隠せずにいた。
「狭い家だけど、ゆっくりしていってくれ」
「うん。ありがとう」
彼女は小さく微笑んだ。
その笑顔は、学校で見せるものとは少し違っていた。
無理に明るく振る舞おうとしていない。
ただ、ようやく安心できる場所を見つけたような、そんな表情だった。
その顔を見て、俺も少しだけ肩の力が抜けた。
「とりあえず、温かいものでも飲むか?」
「……うん。ありがとう」
彼女は静かにうなずいた。
◇
午後九時。
俺たちはリビングのテーブルを挟んで向かい合っていた。
テーブルの上には、温かいお茶と、コンビニで買ってきたプリンが二つ並んでいる。
相手が篠原あかりだということを除けば、驚くほどいつも通りの時間だった。
「……樹くんって、プリン好きなの?」
彼女がスプーンを手に取りながら尋ねた。
「まあ、普通に好きだけど」
「私も好き!」
「そうか」
「…………」
「…………」
「……会話、終わっちゃったね」
「悪かったな」
篠原はくすくすと笑った。
「でも、こういうのもいいね」
「こういうの?」
「うん。無理して話さなくてもいい感じ」
俺は少し意外に思った。
篠原は、いつも誰かと話している。
沈黙を作らないように、誰かが退屈しないように、常に周囲に気を配っているように見えた。
そんな彼女が、沈黙を心地よいと言うなんて。
「……学校だと、疲れるのか?」
思わず尋ねていた。
篠原はスプーンを持つ手を止めた。
「……どうして?」
「いや。いつも、みんなと楽しそうに話してるから」
彼女は少しだけ黙った。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「うん。楽しいよ。友達と話すのも好きだし、みんなが笑ってくれるのもうれしい」
「……そうか」
「でもね」
彼女はプリンに視線を落とした。
「いつも元気でいなきゃって、思っちゃうんだ」
俺は黙って耳を傾けた。
「みんな、私が笑ってると安心するから。悩みなんてなさそうって言われるし、何でもできそうって思われてるし」
彼女は困ったように笑った。
「だから、ちょっと疲れたくらいで弱音を吐いたら、がっかりされるんじゃないかなって」
「……そんなことないだろ」
「うん。頭では分かってるよ」
彼女はスプーンをそっと置いた。
「でも、怖いんだよね」
その言葉は、とても小さかった。
俺はすぐには返事ができなかった。
彼女の気持ちを、完全に理解することはできない。
俺は、そもそも人と深く関わることを避けてきた人間だ。
誰かに期待されることも、誰かに注目されることも、できるだけ避けてきた。
だから、簡単に分かったふりはしたくなかった。
それでも。
「……少なくとも、俺はがっかりしない」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出てきた。
篠原が顔を上げる。
「え?」
「篠原が疲れてるなら、疲れてるって言えばいいだろ。無理して笑う必要なんてないと思う」
「……」
「それに、俺は篠原のこと、まだそんなに知らないし」
「ちょっと、それはひどくない?」
「最後まで聞け」
彼女が口を閉じた。
「だから、これから知っていけばいいんじゃないか」
言い終わった瞬間、急に恥ずかしくなった。
何だ、その台詞は。
まるで恋愛ドラマの主人公みたいじゃないか。
普段の俺なら、絶対に口にしない言葉だ。
けれど、篠原は笑わなかった。
彼女はしばらく俺の顔を見つめていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……黒沢くんって、ずるいね」
「何が?」
「そういうこと、普通の顔で言うんだもん」
「普通の顔って何だよ」
「知らない!」
彼女は照れ隠しのように顔をそらした。
その耳がほんのり赤くなっていることに、俺は気づかないふりをした。
◇
午後十時三十分。
そろそろ休む時間になった。
客間には布団を用意してある。
俺は予備の毛布を渡し、部屋の前で立ち止まった。
「何か必要なものがあったら、遠慮なく言ってくれ」
「うん。ありがとう」
「それと……明日の朝、家族には連絡したほうがいいと思う」
彼女の表情が、ほんの少し曇った。
「……そうだね」
「無理にとは言わないけど」
「ううん。分かってる」
彼女は毛布を抱え直した。
「黒沢くん」
「何だ?」
「今日、ここに来てよかった」
その言葉に、俺は一瞬だけ返事を忘れた。
「……そうか」
「うん」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「おやすみ、樹くん」
「……おやすみ」
客間の扉が静かに閉まった。
俺は自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。
長い一日だった。
朝、隣の席に篠原あかりがいると知った。
昼、一緒に弁当を食べた。
放課後、彼女の写真を撮った。
雨の中、一つの傘に入った。
そして今、彼女は俺の家の客間で眠ろうとしている。
……何なんだ、この一日は。
俺は枕に顔を埋めた。
明日になれば、きっと元通りになる。
篠原は学校でいつものように笑い、俺はいつものように目立たず過ごす。
今日のことは、きっと少し特別な一日だっただけだ。
そう思った。
……いや、そう思おうとした。
◇
午前零時十三分。
俺はまだ眠れずにいた。
理由は、自分でもよく分かっている。
隣の客間に、篠原あかりがいるからだ。
もちろん、それだけが理由ではない。
彼女が最後に見せた、あの寂しそうな表情。
いつも笑っている彼女が、誰にも見せられない気持ちを抱えていること。
そして、そんな彼女が、どうして俺に話してくれたのか。
考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。
そのときだった。
コン、コン。
扉をノックする音が聞こえた。
「……樹くん?」
篠原の声だった。
俺は思わずベッドから起き上がった。
「ど、どうした?」
「……起きてる?」
「ああ」
「ちょっとだけ、話してもいい?」
俺は部屋の扉を開けた。
篠原は毛布を肩に掛けたまま、廊下に立っていた。
「眠れないのか?」
「うん。ちょっとだけ」
彼女は困ったように笑った。
「迷惑だったら、戻るけど……」
「いや、別に」
俺は廊下の明かりをつけた。
「リビングで話すか?」
「……うん」
俺たちは再びリビングへ向かった。
部屋の明かりはつけず、テーブルの上にある小さな照明だけをつける。
篠原はソファに腰を下ろし、毛布を膝の上に広げた。
「……ねえ、樹くん」
「何だ?」
「私、明日になったら、いつも通りに戻れるかな」
その質問に、俺はすぐには答えられなかった。
彼女は続ける。
「学校では、いつも通り笑って、友達と話して。今日のことなんて、何もなかったみたいにできるかな」
「……無理して戻る必要はないんじゃないか」
「でも、みんなに心配をかけたくないし」
「心配をかけたくないのと、一人で抱え込むのは別だろ」
彼女は目を見開いた。
また余計なことを言ってしまったかもしれない。
そう思ったとき、彼女が小さく笑った。
「樹くんって、たまにすごく大人みたいなこと言うよね」
「たまに、って何だよ」
「普段は、すごく分かりやすく慌てるのに」
「……もう寝ていいか?」
「ここ、樹くんの家だよ?」
「そうだった」
彼女は声を押さえて笑った。
俺も、つられるように笑ってしまう。
しばらくして、彼女は少しだけ俺のほうへ体を向けた。
「……もう少しだけ、ここにいてもいい?」
「もちろん」
俺はそう答えた。
それ以上、何も聞かなかった。
彼女が話したくなるまで、待てばいい。
沈黙が訪れる。
けれど、今度は気まずくなかった。
窓の外では、雨がまだ静かに降り続いていた。
篠原は毛布を握りしめたまま、ゆっくりと目を閉じる。
「……樹くん」
「ん?」
「今日は、ありがとう」
「……どういたしまして」
彼女は小さくうなずいた。
やがて、その頭がゆっくりと傾いていく。
「……篠原?」
返事はない。
眠ってしまったらしい。
俺はしばらく、その場で固まっていた。
起こしたほうがいいだろうか。
客間へ連れていくべきだろうか。
いや、せっかく眠れたのに、起こすのもかわいそうだ。
結局、俺は彼女の肩に毛布をそっと掛け直した。
そして、少し離れた場所に座り、彼女が目を覚ますのを待つことにした。
眠っている彼女の表情は、学校で見るものよりずっと穏やかだった。
普段の笑顔の奥に、こんな表情もあったのか。
そう思った。
俺は窓の外に目を向けた。
雨は、いつの間にか弱くなっていた。
明日、彼女はどんな顔で俺に話しかけるのだろう。
いつものように笑うのだろうか。
それとも、今日のことを恥ずかしがるのだろうか。
どちらにしても。
明日の学校が、いつもより少しだけ楽しみになっている自分がいた。
◇
午前零時四十分。
篠原が目を覚ました。
「……ん」
彼女はゆっくりと顔を上げる。
そして、俺と目が合った。
「…………」
「…………」
沈黙。
五秒。
十秒。
十五秒。
「……えっ?」
彼女の顔が、みるみる赤くなっていく。
「え、ちょっと待って。私、寝てた?」
「ああ」
「ここで?」
「ああ」
「樹くんの隣で?」
「ああ」
「…………」
彼女は毛布を顔まで引き上げた。
「……うそでしょ」
「いや、事実だ」
「何で起こしてくれなかったの!?」
「気持ちよさそうに寝てたから」
「そ、そういう問題じゃないよ!」
彼女は毛布の中で小さく身を縮めた。
「……恥ずかしい」
その声は、ほとんど聞こえないくらい小さかった。
俺は思わず小さく笑った。
「何だ。学校中の人気者でも、寝顔を見られるのは恥ずかしいんだな」
「……樹くん」
「何だ?」
「明日、覚えててね」
「何を?」
彼女は毛布から顔を出した。
そして、少しだけ真剣な表情で言った。
「今日のこと、絶対に忘れないから」
「……それ、俺が忘れちゃいけないやつなのか?」
「そう!」
彼女は勢いよく立ち上がった。
「もう寝る! おやすみ!」
「お、おう。おやすみ」
彼女は逃げるように客間へ戻っていった。
扉が閉まる。
俺は一人、リビングに取り残された。
「……何だったんだ、今の」
思わずつぶやく。
けれど、自分の口元が緩んでいることには、最後まで気づかなかった。
◇
翌朝。
俺はいつもより少し早く目を覚ました。
カーテンを開けると、昨日の雨が嘘だったかのように、空はすっかり晴れ渡っていた。
時計を見る。
午前六時三十分。
まだ早い。
もう一度寝ようかと考えていると、台所から物音が聞こえてきた。
「……ん?」
嫌な予感がした。
まさか。
いや、そんなはずはない。
俺は部屋を出て、台所へ向かった。
そこには――。
エプロンを身につけた篠原あかりがいた。
「おはよう、樹くん!」
彼女はフライパンを手に、笑顔で振り返った。
「朝ごはん、作ってるよ!」
「…………」
夢だろうか。
もう一度ベッドに戻って、寝直したほうがいいのではないだろうか。
そんなことを考えたが、目の前の彼女は消えてくれなかった。
「……何してるんだ?」
「見て分からない? 料理!」
「いや、それは分かるけど……」
「昨日、お世話になったお礼!」
彼女は得意げに胸を張った。
「私、料理は結構得意なんだから!」
「……そうか」
「うん!」
彼女はフライパンの中を確認した。
そして、数秒後。
「……あれ?」
「どうした?」
「ちょっと焦げたかも」
「…………」
「だ、大丈夫! まだ食べられるから!」
どうやら、学校中の人気者にも苦手なことはあるらしい。
俺は思わず笑ってしまった。
「……樹くん?」
「いや、悪い」
「笑ったでしょ!」
「少しだけ」
「もう!」
彼女は頬を膨らませた。
それから俺の顔を見ると、ふっと表情を和らげた。
「……でも、よかった」
「何が?」
「樹くんが笑ってくれて」
俺は返事に困った。
その言葉が、なぜか胸の奥に残ったからだ。
◇
朝食を終えたあと、俺たちは家を出た。
駅までの道を並んで歩く。
昨日とは違い、空は青く、風も穏やかだった。
「ねえ、樹くん」
「何だ?」
「昨日のことなんだけど」
俺は少しだけ緊張した。
「……うん」
「本当に、ありがとう」
彼女は前を向いたまま言った。
「昨日はちょっと……いろいろあって。でも、樹くんがいてくれて、すごく安心した」
「……そうか」
「うん」
彼女は足を止めた。
俺もつられて立ち止まる。
彼女はいつもの明るい笑顔ではなく、少し照れたような表情で俺を見つめた。
「だから、その……」
「……?」
「これからも、仲良くしてくれる?」
その質問は、あまりにもまっすぐだった。
俺は少しだけ考えた。
昨日まで、俺と篠原はほとんど話したことがなかった。
それなのに、たった一日で、こんなにも多くのことが変わってしまった。
正直、まだ戸惑っている。
彼女のことを知らないことも多い。
これからどうなるのかも分からない。
それでも。
「……ああ。もちろん」
俺はそう答えた。
篠原の顔が、ぱっと明るくなる。
「……よかった!」
彼女は心からうれしそうに笑った。
その笑顔を見て、俺も少しだけ笑った。
そして、俺たちは再び歩き始めた。
いつもと同じ通学路。
いつもと同じ朝。
けれど、俺の隣には、昨日までとは違う女の子がいる。
そのことを意識するたび、心臓が少しだけ落ち着かなくなった。
俺はまだ知らない。
この女の子が、これからどれだけ俺の日常を変えていくのか。
彼女の笑顔の奥に、どれだけの秘密が隠されているのか。
そして――。
俺自身が、彼女のことをどう思い始めているのか。
ただ一つだけ、確かなことがある。
高校三年生の春。
俺の平穏な日常は、もう二度と、昨日までと同じには戻らない。
そして、その変化は俺が思っていたよりもずっと早く訪れた。
「ねえ、樹くん!」
「……今度は何だ?」
篠原は、いたずらっぽく笑った。
「今日も、一緒にお昼食べようね!」
「…………」
俺は空を見上げた。
春の空は、今日もやけに青かった。
どうやら。
俺の高校生活は、本当に騒がしくなりそうだ。
第2話終了
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