第1話 四月、隣の席に天使が座った
高校三年生。
人生で最も大切な一年間だと、誰かが言っていた。
大学受験、進路選択、最後の文化祭、最後の体育祭。そして、卒業。
改めて並べてみると、確かに忙しく、あっという間に過ぎてしまいそうな一年間だ。
ただし。
俺――黒沢樹にとっては、それ以上に深刻な問題が一つあった。
「……隣の席、誰だよ」
四月八日、午前八時二十分。
教室に入った俺は、黒板の横に貼り出された座席表を見て、思わず足を止めた。
窓側から二列目、後ろから三番目。
そこが俺の席だった。
いつも通りの場所だ。
問題は、その隣に書かれた名前だった。
篠原あかり。
知らない人間など、この学校にはほとんどいないだろう。
少なくとも、彼女の名前を知らない生徒を探すほうが難しい。
明るく、誰にでも気さくに話しかける親しみやすい性格。雑誌の読者モデルに声をかけられたこともあるという整った容姿。
男女を問わず友人が多く、教師からの評判もいい。
いわゆる、誰もが認める人気者だ。
そして、そんな彼女は――俺とは住む世界が違う人間だった。
それなのに、なぜか今年は俺の隣の席らしい。
いや、まだ本人は来ていない。
今なら、まだ間に合うのではないだろうか。
……いや、待て。
勝手に席を変えたりしたら、俺が彼女を避けているみたいじゃないか。
そもそも、まだ何も起きていない。
彼女と話したことすらないのに、今からそんなことを考える必要はないだろう。
「朝から何を一人で悩んでるんだ?」
背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには二年間でそれなりに仲良くなった友人が立っていた。
森山大地。
俺とは違い、人間関係を必要以上に複雑に考えるという機能が、生まれつき備わっていない男だ。
「大地。お前、篠原のこと知ってるよな?」
「知ってるも何も、有名人だろ。どうした?」
「隣の席だった」
「…………」
大地は一瞬だけ黙り、俺の肩にぽんと手を置いた。
「おめでとう」
「何がだよ」
「高校生活、始まったな」
「もう三年目だよ」
「いやいや。俺たちの青春は、ここから始まるんだ」
「勝手に始めるな」
朝からどっと疲れた。
俺は鞄を机の横に掛け、椅子に腰を下ろした。
別に、女子が苦手というわけではない。
ただ、何を話せばいいのか分からないだけだ。
男友達なら、ゲームの話でも、授業の愚痴でも、昨日見た動画の話でも、適当に話題を見つけられる。
けれど、相手が女子となると話は別だ。
変なことを言ったらどうしよう。
つまらない人間だと思われたらどうしよう。
そもそも、どうして俺は会話を始める前から失敗したときのことを考えているのだろう。
……考えるだけ無駄だ。
そのとき、教室の入口がにわかに騒がしくなった。
「おはよう!」
聞き覚えのある、明るい声。
それを合図にしたかのように、周囲の男子たちが一斉に顔を上げる。
女子たちも笑顔で彼女を迎えた。
篠原あかりが教室に入ってきたのだ。
「ねえ、昨日のドラマ見た? 最後、絶対あの二人がくっつくと思ったんだけど!」
「見た見た! でも、あの終わり方はずるいよね」
「でしょ? 続きが気になりすぎて、つい夜更かししちゃった」
彼女は友人たちと楽しそうに話しながら、自然な足取りでこちらへ近づいてくる。
……まさか。
いや、考えるな。
俺の隣の席は、まだ空いている。
そして、そこに座る人間は篠原あかりだ。
そんな当たり前の事実を、俺の脳はなぜか必死に受け入れようとしなかった。
「おはよっ」
気づけば、彼女は俺の目の前に立っていた。
「……お、おはよう」
よし。
声は裏返らなかった。
よくやった、俺。
人生で初めて、女子に挨拶を返すという難関を突破した。
……いや、挨拶くらい誰でもできるだろ。
何を一人で達成感に浸っているんだ。
そんなことを考えていると、彼女は俺の隣の椅子を引いた。
「黒沢くん、だよね?」
「え?」
「今まで同じクラスになったこと、何回かあったよね。ちゃんと話したことはなかったけど」
「あ、ああ。そうだな」
「よかった。名前、合ってた」
彼女はほっとしたように笑った。
……近い。
いや、隣の席に座るのだから近いのは当然だ。
けれど、こうして目の前にいると、彼女の存在感は想像していた以上に大きかった。
ふわりと、甘い香りが鼻をかすめる。
シャンプーだろうか。
……何を考えているんだ、俺は。
「ねえ、黒沢くん」
「な、何?」
「今日のお昼、一緒に食べない?」
「…………は?」
待て。
今、何と言った?
昼食。
一緒に。
篠原あかりが。
俺と?
「えっと……俺と?」
「うん。ほかに誰がいるの?」
「いや、それは……」
周囲からの視線が痛い。
大地がこちらを見ている。
しかも、口元を押さえていた。
笑うな。
絶対に笑うな。
そんな俺の心の叫びなど知るはずもなく、篠原は不思議そうに首を傾げた。
「もしかして、誰かと約束してた?」
「いや、してないけど」
「じゃあ、決まり!」
……どうしてそうなる。
今の返事は了承と受け取られたのだろうか。
それとも、単に断るタイミングを逃しただけなのだろうか。
考えをまとめる前に、彼女は何事もなかったかのように教科書を机に並べ始めた。
そして、こちらを振り向くと、にっこりと微笑んだ。
「よろしくね、樹くん」
…………。
今、下の名前で呼んだか?
いや、呼んだな。
間違いなく呼んだ。
俺は机の下で、そっと両手を握りしめた。
落ち着け。
相手は篠原あかり。
学校中から好かれている、明るくて、可愛くて、誰とでも仲良くなれる女の子。
そして俺は黒沢樹。
目立たないことを第一に、平穏な毎日を送ってきた、どこにでもいる普通の高校生だ。
共通点なんてない。
接点だって、今まではほとんどなかった。
そもそも、こんな俺に恋愛イベントが発生する理由なんて、どこにもない。
だから、これはきっと何かの間違いだ。
そう自分に言い聞かせ、俺は窓の外へと視線を向けた。
春の空は、嫌になるほど青かった。
そして、隣から聞こえてきた小さな笑い声に気づかないふりをした。
こうして俺の最後の高校生活は、静かに――いや、俺の望みとは正反対に、騒がしく幕を開けたのだった。
◇
午前九時。
担任の先生が教室に入ってきた。
自己紹介に始まり、進路希望調査、年間行事の説明。
いかにも高校三年生らしい話が続いていく。
俺にとっては、どれも無視できない大切な話だった。
特に進路については、そろそろ本気で考えなければならない。
行きたい大学はある。
けれど、そこへ進学した自分が何をしたいのかと聞かれると、途端に答えに詰まってしまう。
昔から、俺は何かを決めるのが苦手だった。
失敗するのが怖い。
選ばなかった道を、後になって悔やむのも怖い。
そんなことを考えているうちに、いつも時間だけが過ぎていく。
「黒沢くん」
隣から小さな声が聞こえた。
「……何?」
「進路、もう決めた?」
「いや、まだだけど」
「あ、私も!」
少し意外だった。
篠原あかりといえば、何でもそつなくこなす人間だと思っていた。
勉強も、運動も、人付き合いも。
彼女が何かに困っている姿なんて、これまで想像したこともなかった。
「篠原でも、まだ決まってないんだな」
「ん?」
隣からの笑顔が、ぴたりと止まった。
しまった。
今のは、少し失礼な言い方だったかもしれない。
「いや、その……何でも決まってそうだから」
「何それ。私って、そんなに完璧な人間に見える?」
「……少なくとも、俺よりは」
彼女は数秒、俺の顔をじっと見つめた。
それから、ふっと柔らかく笑った。
「黒沢くんって、面白いこと言うね」
「今のどこが?」
「自分のこと、ずいぶん低く評価してるところ」
「事実だろ」
「そうかなあ」
彼女は頬杖をつき、窓の外へと視線を向けた。
「私だって、分からないことばっかりだよ」
その声は、いつもの明るさよりも少しだけ落ち着いていた。
「みんなは私が何でもできるって思ってるみたいだけど、実際はそんなことないし。将来何がしたいのかだって、まだよく分からないし」
「……そうなのか」
「そうなの」
彼女は再び俺のほうを向いた。
「だから、黒沢くんもそんなに自分を悪く言わなくていいんじゃない?」
思いがけない言葉だった。
俺はすぐに返事をすることができなかった。
彼女はそんな俺を気にする様子もなく、何事もなかったかのようにノートを開いた。
「はい! この話はおしまい!」
「いや、最初からお前が始めたんだろ」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「あははっ。ごめんごめん」
彼女が笑う。
つられるように、俺の口元もほんの少しだけ緩んだ。
その瞬間だった。
「そこの二人。話があるなら、みんなの前で発表してもらおうか」
担任の先生が、こちらを見ていた。
「すみません!」
篠原が勢いよく頭を下げた。
俺も慌てて頭を下げる。
教室のあちこちから、くすくすと笑い声が聞こえてきた。
……やっぱり、静かな高校生活を送るのは難しいかもしれない。
◇
昼休み。
俺は教室を出ようとしていた。
今日は購買でパンを買って、どこか空いている場所で食べるつもりだった。
いつも通りの予定だ。
誰にも迷惑をかけず、誰からも注目されず、平穏に昼休みを過ごす。
完璧な計画だった。
「樹くん!」
背後から、すっかり聞き慣れ始めた声が飛んできた。
振り返る。
そこには、弁当箱を二つ持った篠原が立っていた。
「一緒に食べよ!」
「……本当に?」
「えっ、何でそんなに驚くの?」
「いや、忘れてるんじゃないかと思って」
「私、そんなに忘れっぽく見える?」
「そういう意味じゃなくて……」
「じゃあ、決まり!」
またしても、俺が答えを出す前に話がまとまってしまった。
この人は、もしかすると会話の中で相手に考える時間を与えないタイプなのではないだろうか。
……いや、違う。
きっと俺が考えすぎなのだ。
結局、俺たちは教室の隅にある空いた机を並べて座った。
篠原は目の前で弁当箱を開いた。
卵焼きにミニトマト、唐揚げ、ブロッコリー。
色とりどりのおかずがきれいに詰められた、見た目にもおいしそうな弁当だった。
「おいしそうだな」
「本当? ありがとう。これ、自分で作ったんだ」
「……自分で?」
「うん。料理するの、結構好きなんだよね」
また一つ、彼女の意外な一面を知った。
学校中で人気のある女の子が、毎朝自分で弁当を作っている。
ただそれだけのことなのに、なぜか少し驚いてしまった。
「樹くんのお昼は?」
「購買でパンを買うつもりだった」
「えっ、それだけ?」
「まあ、いつもそんな感じだけど」
彼女は自分の弁当を見つめ、それから俺へと視線を戻した。
「……唐揚げ、食べる?」
「え?」
「一個だけ。ちょっと多く作りすぎちゃったから」
「いや、悪いよ」
「いいのいいの。はい!」
彼女は箸で唐揚げをつまむと、俺の前に置いてあった紙皿へそっと移した。
たった一個の唐揚げ。
それだけなのに、俺はどうしていいのか分からなかった。
「……ありがとう」
「どういたしまして!」
彼女は満足そうに笑った。
俺は唐揚げを口に運ぶ。
衣はほどよく揚がっていて、中から肉汁が広がった。
……普通においしい。
いや、普通どころか、かなりおいしい。
「どう?」
「おいしい」
「よかった!」
たったそれだけのやり取りだった。
それなのに、いつもの昼食よりも、ほんの少しだけ特別な時間に感じられた。
「ねえ、樹くん」
「今度は何?」
「放課後、時間ある?」
危うく、口に含んだものを飲み込めなくなるところだった。
「……あるけど」
「じゃあ、ちょっと付き合ってほしいところがあるんだ」
「どこに?」
「それは、放課後のお楽しみ!」
……嫌な予感がする。
いや、正確に言えば、嫌な予感と同じくらい、ほんの少しの好奇心もあった。
そして、それこそが一番の問題だった。
◇
放課後。
俺は校門の前で篠原を待っていた。
帰宅部の俺にとって、放課後は一日の中で最も大切な時間だ。
誰にも話しかけられず、自分の好きなことに没頭できる。
家に帰ったら、パソコンを起動して写真を整理する。
休日に撮影した風景写真を編集したり、お気に入りの構図を研究したりするのが、俺の数少ない趣味だった。
写真を撮るのは好きだ。
人と話すよりも、ずっと気楽だから。
カメラの向こうにある風景は、こちらに何を期待しているのかなんて尋ねてこない。
思い通りに撮れなければ、設定を変えて何度でもやり直せばいい。
人間関係も、そんなふうにできたらいいのに。
「お待たせー!」
考え事をしていると、向こうから篠原が小走りでやってきた。
「ごめんね。友達に呼び止められちゃって」
「いや、別に大丈夫」
「よかった。じゃあ、行こっか!」
「……だから、どこに?」
「それはね――」
彼女は俺の前に回り込むと、いたずらっぽく笑った。
「写真部の部室!」
「……は?」
「写真、撮るの得意なんでしょ?」
俺は思わず言葉を失った。
「何で、それを……」
「大地くんが教えてくれたよ。黒沢くん、すごく写真が上手なんだって」
……あの野郎。
余計なことを。
今度会ったら、絶対に問い詰めてやる。
「それでね、ちょっとお願いがあるの」
「お願い?」
「うん」
彼女は一度だけ、いつもの明るい笑顔を引っ込めた。
そして、ほんの少し緊張したような面持ちで口を開いた。
「私の写真、撮ってくれない?」
春風が吹いた。
校門のそばに立つ桜の木から、花びらが一枚、ひらりと舞い落ちる。
その花びらが、彼女の髪にそっと触れた。
篠原は、まだそれに気づいていない。
俺はなぜか、すぐに返事をすることができなかった。
これまで何度も写真を撮ってきた。
風景も、建物も、夕焼けも。
けれど、人を撮るのは得意ではない。
ましてや、相手は篠原あかりだ。
「……どうして、俺なんだ?」
ようやく口から出てきたのは、そんな言葉だった。
彼女は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少し困ったように笑った。
「うーん……何となく?」
「何となくで頼むことじゃないだろ」
「それもそうだね」
彼女は空を見上げた。
「でも、黒沢くんなら、ちゃんと見てくれそうな気がしたんだ」
「……何を?」
彼女は少しだけ間を置いてから、こちらを見た。
「私のこと」
心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
その言葉の意味を考えるよりも早く、彼女はいつもの笑顔に戻った。
「なーんてね! ちょっと格好つけすぎた?」
「……かなり」
「ひどい!」
篠原が楽しそうに笑う。
俺も、つられるように少しだけ笑った。
そのときの俺は、まだ何も知らなかった。
この何気ない放課後が、これからの高校生活を大きく変えることになるなんて。
学校中から注目される彼女が、どうして俺に近づいてきたのか。
彼女が胸の奥に隠している本当の気持ちは何なのか。
そして――。
誰かを好きになるということが、こんなにも面倒で、恥ずかしくて、それでいてどうしようもなく温かいものだなんて。
俺は、まだ何一つ知らなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
四月八日。
高校三年生になった、その日。
俺の平穏だった日常は、篠原あかりという一人の女の子によって、少しずつ形を変え始めていた。
第1話終了
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