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『偽物の恋人だったはずなのに、君を本気で好きになってしまった』  作者: 雨宮 怜


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第14話 君が隠していた涙の理由

 金曜日の朝。


 教室に入った瞬間、俺はいつもと違う空気を感じた。


 理由はすぐに分かった。


 篠原あかりが、いつものように笑っていなかったからだ。


 正確には、笑ってはいた。


 クラスメイトに話しかけられれば笑顔で答え、文化祭の準備について質問されれば、いつもどおり明るく説明している。


 けれど、その笑顔には、どこか無理をしているようなぎこちなさがあった。


 スマートフォンを確認しては、画面を伏せる。


 誰かから連絡が届くたびに、ほんの少しだけ表情が曇る。


 そんなことを何度も繰り返していた。


 昨夜、あれほど楽しそうにメッセージを送ってきた彼女が、今朝はどこか思いつめたような表情をしている。


 その変化が、どうしても気になった。


「……何かあったのか?」


 自分の席に鞄を置いてから、俺はあかりに声をかけた。


「えっ?」


 彼女は驚いたように顔を上げた。


「あ、樹くん。おはよう!」


「……おはよう」


「どうしたの?」


「それはこっちの台詞だ。朝からずっとスマホを見てるだろ」


「あはは……。そんなに分かりやすかった?」


「……まあな」


 あかりは困ったように笑った。


「ちょっと家のことでね。でも、大丈夫!」


 その言い方で、俺は何となく察した。


 大丈夫ではないのだろう。


 ただ、今は話したくないだけだ。


「……そうか」


 俺は、それ以上聞かなかった。


 無理に聞き出したところで、彼女を困らせるだけだ。


 それに、話したくなったら話してくれることもある。


 だから、今は待とうと思った。


 けれど。


「……樹くん」


「ん?」


「あのね。今日、放課後って時間ある?」


 彼女はスマートフォンを握りしめながら、少しだけ視線を落とした。


「……あるけど」


「じゃあ、少しだけ付き合ってくれないかな」


「分かった」


 俺が答えると、あかりはほっとしたように息を吐いた。


「ありがとう」


 その声は、いつもの明るさよりも少し小さかった。


     *


 放課後。


 文化祭の準備を終えた俺たちは、校舎の裏にあるベンチに座っていた。


 運動部の掛け声が、遠くから聞こえてくる。


 夕方の風は少し冷たかった。


 あかりは、しばらく何も話さなかった。


 膝の上に置いたスマートフォンを、じっと見つめている。


 俺も、無理に話しかけなかった。


 沈黙が苦手な人もいる。


 けれど、今のあかりには、何かを話すための時間が必要なのだと思った。


「……ねえ、樹くん」


 やがて、彼女が静かに口を開いた。


「私、大学に行ったら、写真とか映像について勉強したいって思ってるんだ」


「……前にも話してくれたな」


「うん」


 あかりは小さくうなずいた。


「写真を撮ることが好きなのは、樹くんも知ってるでしょ?」


「ああ」


「でも、ただ趣味として続けるだけじゃなくて、ちゃんと専門的に勉強してみたいの。人の心に残る写真を撮れるようになりたいし、いつか、自分が撮ったものを誰かに届けられる仕事もしてみたい」


 話しているうちに、彼女の声には少しずつ力が戻ってきた。


 好きなものについて話すときの、あの表情だった。


 しかし、次の瞬間。


 あかりは再び視線を落とした。


「……でも、お母さんは反対してる」


「……反対?」


「うん。写真や映像について学べる大学じゃなくて、もっと就職に有利な学部に進んでほしいんだって」


 彼女はスマートフォンを操作し、画面を俺に見せた。


 そこには、母親から届いたメッセージが表示されていた。


『進路のこと、いつまで自分の好きなことだけを考えているつもりなの?』


『大学は遊びに行く場所じゃないのよ。将来のことをもっと真剣に考えなさい』


 短い文章だった。


 けれど、あかりが何度も読み返していた理由は分かった気がした。


「……今日、大学の資料を見せたんだけどね」


 あかりは話を続けた。


「お母さん、ほとんど見てくれなかった。写真の仕事なんて不安定だし、そんなことで将来どうするのって……」


 彼女の指先が、スマートフォンの端を強く握った。


「私だって、何も考えてないわけじゃないよ。学費のことも、卒業したあとの就職のことも、ちゃんと調べてる。簡単じゃないことくらい、私だって分かってる」


「……ああ」


「それでも、好きなことを勉強したいって思うのは、そんなに悪いことなのかな」


 最後の言葉は、ほとんど独り言のようだった。


 俺は、すぐには答えられなかった。


 親が子どもの将来を心配する気持ちは、分からないでもない。


 安定した仕事に就いてほしい。


 苦労してほしくない。


 できるだけ安心できる道を歩んでほしい。


 そう考えること自体は、きっと悪いことではない。


 でも。


 その心配が、本人の願いに耳を傾けない理由になっていいのだろうか。


「……悪くないだろ」


 俺は静かに答えた。


 あかりが顔を上げる。


「好きなことを勉強したいと思うこと自体は、悪くない。将来のことを考えるのも大事だけど、自分が何をしたいのかを考えるのも、同じくらい大事だと思う」


「……樹くん」


「ただ、心配してる人がいるなら、何が心配なのかも聞いてみたらいい。学費なのか、仕事なのか、それとも別のことなのか。そこが分かれば、話し合えることもあるかもしれない」


 俺は、少しだけ言葉を選んだ。


「……すぐに分かってもらえるとは限らないけどな」


 あかりは黙って聞いていた。


「それでも、自分が何をしたいのかまで、なかったことにする必要はないと思う」


 風が吹き、彼女の髪が頬にかかった。


 あかりはそれを耳にかけた。


「……私、ずっと怖かったんだ」


「何が?」


「お母さんに反対されることもそうだけど……自分の夢を選んで、失敗することが」


 彼女は小さく苦笑した。


「もし写真の仕事に就けなかったら? 勉強したのに、何もできなかったら? そのとき、お母さんに『だから言ったでしょう』って言われたら……私、きっとすごく後悔すると思う」


「……」


「でも、何も挑戦しないまま諦めたら、それはそれで、ずっと後悔する気がするの」


 彼女の瞳が、わずかに揺れた。


「どっちを選んでも怖いんだよ」


 俺は、彼女の横顔を見つめた。


 いつも明るいあかり。


 誰にでも優しくて、周りの期待に応えようとするあかり。


 そんな彼女が、今は自分の未来を前にして迷っている。


 きっと、簡単に答えが出る問題ではない。


 俺に正解を教えることもできない。


 それでも。


「……怖くても、考えることはできるだろ」


「え?」


「今すぐ決めなくてもいい。調べて、考えて、話し合って。それでも分からなかったら、また考えればいい」


 俺はベンチの前に広がる校庭へと視線を向けた。


「……少なくとも、誰かに反対されたからって、それだけで自分の夢を諦める必要はないと思う」


 あかりは、しばらく俺を見つめていた。


 やがて、彼女は小さく笑った。


「……樹くんって、たまにすごく真っすぐなこと言うよね」


「……たまに、は余計だ」


「ふふっ、ごめん」


 少しだけ、いつもの笑顔が戻った。


 けれど、その笑顔は長く続かなかった。


「……私ね。お母さんに褒めてもらいたいんだと思う」


 彼女の声が震えた。


「昔から、テストでいい点を取ったら褒めてくれたし、誰かに優しくできたら喜んでくれた。だから、私も頑張ったの。いつも笑って、周りの人に優しくして、心配をかけないようにして……」


 あかりは膝の上で両手を握った。


「そうしていれば、きっとお母さんも安心してくれると思ってた」


「……ああ」


「でも、進路のことになると、何を言っても分かってもらえない気がして……。私がどれだけ頑張っても、結局、私の考えは間違ってるって言われてるみたいで……」


 彼女はそこで言葉を切った。


 目元が、少しずつ赤くなっていく。


「……私、どうしたらいいんだろう」


 その問いに、俺はすぐには答えられなかった。


 大丈夫だと簡単に言うことはできる。


 きっと分かってもらえると、励ますこともできる。


 でも、それは俺の願望でしかない。


 彼女が本当に必要としているのは、根拠のない慰めではないはずだ。


「……分からない」


 俺が正直に答えると、あかりは少し驚いた顔をした。


「……え?」


「俺には、あかりのお母さんを説得する方法なんて分からない。どんな言葉なら伝わるのかも、今すぐには思いつかない」


「……うん」


「でも」


 俺は彼女のほうを向いた。


「あかりが本気で考えてることは、分かった」


 あかりの瞳が揺れた。


「写真が好きなことも、それを将来につなげたいと思ってることも、簡単に決めたわけじゃないってことも」


 俺は、少しだけ息を吸った。


「だから、少なくとも俺は、あかりが何も考えてないなんて思わない」


 あかりは唇を結んだ。


 そして、ゆっくりとうつむいた。


「……ありがとう」


 その声は、とても小さかった。


 次の瞬間、彼女の頬を一筋の涙が伝った。


 俺は思わず息をのんだ。


 けれど、慌てて何かを言うことはしなかった。


 あかりは自分の袖で涙を拭った。


「ご、ごめんね。こんなところで泣くつもりじゃなかったのに……」


「……謝る必要ないだろ」


「でも……」


「泣きたいときくらい、泣けばいい」


 あかりは顔を上げた。


 俺は少しだけ視線をそらしながら続けた。


「……誰も見てないし」


「……樹くんが見てるよ」


「……それは、まあ」


 何も言い返せなかった。


 あかりは涙を拭いながら、ほんの少しだけ笑った。


「……変なの。樹くんといると、泣いてもいい気がする」


「……そうか」


「うん」


 彼女はゆっくりと深呼吸をした。


「今日は、話を聞いてくれてありがとう。少しだけ、気持ちが楽になった」


「……なら、よかった」


 俺は鞄からハンカチを取り出し、彼女に差し出した。


「……使うか?」


「えっ、いいの?」


「……返してくれればいい」


 あかりはハンカチを受け取った。


「……ありがとう。ちゃんと洗って返すね」


「……別に、そのままでもいいけど」


「だめ。大切に使わせてもらうから」


 彼女はハンカチを両手で包むように握った。


 そして、俺の顔を見て、今度は少しだけ自然に笑った。


     *


 駅までの帰り道。


 俺たちは、いつもよりゆっくり歩いた。


 あかりは、さっきよりも落ち着いた様子だった。


「……樹くん」


「何だ?」


「もし、私が写真の道に進んで、うまくいかなかったら……どう思う?」


 突然の質問だった。


 俺は少し考えてから答えた。


「……どうして、うまくいかないって決めつけるんだ?」


「え?」


「まだ何も始まってないだろ。うまくいくかどうかなんて、今は分からない」


「……そうだけど」


「それに、仮に失敗したとしても、それで今まで頑張ったことが全部無駄になるわけじゃないと思う」


 俺は足元の白線を見ながら言った。


「失敗したら、そのときにまた考えればいい。進む道を変えることだってできるだろ」


 あかりは黙って聞いていた。


「……だから、俺がどう思うかなんて、気にしなくていい」


「……そっか」


 彼女は少しだけ笑った。


「樹くんらしい答えだね」


「……どういう意味だ?」


「優しいけど、甘やかしてはくれないところ」


「……褒めてるのか、それ」


「もちろん!」


 あかりは、今度こそいつもの明るさで笑った。


 その笑顔を見て、俺はほっとした。


 けれど、ひとつだけ気になっていたことがある。


「……あかり」


「……え?」


 俺が名前を呼ぶと、彼女は少し驚いたようにこちらを向いた。


「……家のことで、また何かあったら話してくれていいからな」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。


 何を格好つけているのだろう。


 そんなことを言うつもりではなかったのに。


 あかりは、しばらく俺を見つめていた。


 そして、ゆっくりとうなずいた。


「……うん。ありがとう、樹くん」


 彼女は少しだけ俺に近づいた。


 肩が触れそうな距離。


 それでも、彼女はそれ以上近づかなかった。


「……樹くんがいてくれて、よかった」


 その言葉が、胸に残った。


 俺は、うまい返事を見つけられなかった。


 だから、ただ一言だけ返した。


「……俺も」


「……え?」


「……あかりと一緒に帰れて、よかった」


 彼女は目を丸くした。


 次の瞬間、頬を赤くして笑った。


「……そういうこと、急に言うの、ずるいよ」


「……何がだ」


「何でもない!」


 あかりは前を向いた。


 けれど、その口元はずっと緩んでいた。


 俺も、たぶん同じだった。


     *


 家に帰ったあと。


 俺は机に向かいながら、今日のことを考えていた。


 あかりが涙を見せたこと。


 彼女が、自分の夢を諦めたくないと思っていること。


 そして、俺の言葉を聞いて、少しだけ安心したように笑ったこと。


 もっと何かできたのではないか。


 もっと気の利いた言葉をかけられたのではないか。


 考え始めると、きりがなかった。


 そのとき、スマートフォンが震えた。


 あかりからのメッセージだった。


『今日は本当にありがとう』


『樹くんに話せてよかった。まだ何も解決してないけど、ひとりで考えてるときより、少しだけ前を向けそうな気がする』


 俺は、ゆっくりと文字を打った。


『……無理して急いで決めるなよ』


 少し迷ってから、もう一文を加えた。


『話したくなったら、いつでも聞くから』


 送信すると、すぐに既読がついた。


『……うん』


 少し時間が空いて、もう一通届いた。


『ねえ、樹くん』


『私、いつか自分で撮った写真を見せたい人がいるんだ』


 俺は画面を見つめた。


 その人は誰なのだろう。


 家族だろうか。


 悠真だろうか。


 それとも、別の誰かだろうか。


 気になった。


 けれど、聞く勇気はなかった。


 代わりに、こう返信した。


『……その人に見せられるような写真が撮れるといいな』


 返事は、すぐに来た。


『うん』


『その人には、ちゃんと見てほしいから』


 俺はスマートフォンを握りしめた。


 胸の奥が、少しだけざわついた。


 彼女が写真を見せたいと思っている人。


 その人に、自分はなれるのだろうか。


 いや。


 そもそも、どうしてそんなことを気にしているのだろう。


 俺はベッドに横になり、天井を見上げた。


 偽物の恋人。


 そう決めたのは、俺たち自身だ。


 いつか終わることも、最初から分かっていた。


 それなのに。


 今では、彼女の未来に自分がいないことを想像するだけで、胸が苦しくなる。


「……本当に、面倒なことになったな」


 小さくつぶやいた。


 そのとき、またスマートフォンが震えた。


『樹くんも、何か困ったことがあったら話してね』


『私ばっかり頼ってるのは、ちょっと悔しいから!』


 思わず、口元が緩んだ。


『……考えておく』


『それ、絶対話してくれないやつじゃん!』


『……よく分かってるな』


『ふふっ。じゃあ、いつか話してくれるまで待ってるね』


 そのメッセージを見て、俺はしばらく画面から目を離せなかった。


 待っている。


 彼女は、そう言った。


 俺が自分の気持ちを言葉にできるようになるまで。


 俺が自分自身のことを話せるようになるまで。


 急かさず、待ってくれるのだろう。


 ……ずるいな。


 そんなふうにされたら、もっと彼女のそばにいたくなる。


 俺はスマートフォンを枕元に置き、目を閉じた。


 明日、あかりに会ったら。


 少しだけ、自分の話をしてみようか。


 そう思った。


 まだ、何を話すのかも決まっていない。


 それでも、昨日までとは少し違う気持ちで、明日を待っていた。


     *


 同じころ。


 あかりは、自分の部屋の机に向かっていた。


 目の前には、大学のパンフレットが広げられている。


 写真や映像について学べる学部。


 卒業後の進路。


 必要な学費。


 彼女は、もう一度ひとつずつ確認した。


 簡単な道ではない。


 母親が心配する理由も、少しは分かる。


 それでも、諦めたくなかった。


 あかりは、スマートフォンを手に取り、今日撮った写真を開いた。


 写真部の窓際で笑っている自分。


 その写真を撮ったのは、樹だった。


「……樹くん」


 名前を口にすると、今日の会話が思い出された。


 無理に笑わなくてもいいと言ってくれたこと。


 自分の夢を、簡単に否定しなかったこと。


 涙を見せてしまったときも、何も急かさずにそばにいてくれたこと。


 悠真は、昔から自分を支えてくれた大切な人だ。


 その気持ちは、今も変わらない。


 悠真と過ごした時間には、安心できる思い出がたくさんある。


 けれど、樹と過ごす時間には、それとは違う何かがあった。


 次は何を話せるだろう。


 どんな表情を見せてくれるだろう。


 自分の知らない樹を、もっと知りたい。


 そして、いつか。


 自分が本当に大切にしている写真を、彼に見せたい。


 あかりはパンフレットを閉じた。


「……私、ちゃんと考えなきゃ」


 進路のことも。


 家族のことも。


 そして、自分の気持ちも。


 まだ答えは出ていない。


 けれど、少しずつでも前に進もう。


 そう決めて、あかりは机の上に置いてあったカメラを手に取った。


 レンズの向こうには、明日もきっと、何気ない日常が待っている。


 その中には、樹と過ごす時間もある。


 それだけで、ほんの少し勇気が湧いてくる気がした。


 そして、彼女はまだ知らない。


 翌日、文化祭の準備中に届く一通の連絡が、三人の関係をまた少しだけ変えてしまうことを。



第14話終了



最後までお読みいただき、ありがとうございます!


皆様の感想やご意見は、今後の執筆の励みになります。


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これからも楽しんでいただける物語をお届けできるよう頑張ります!

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