第15話 君にだけは、知ってほしいこと
翌日の朝。
教室に入ると、文化祭の準備について話す声があちこちから聞こえてきた。
「写真の配置、もう決めた?」
「カフェのメニューも考えないと!」
「衣装って、誰が用意するんだっけ?」
文化祭まで、あと二週間。
教室は少しずつ慌ただしさを増していた。
そんな中、俺は自分の席に座り、昨夜、あかりと交わしたメッセージを思い返していた。
『私ばっかり頼ってるのは、ちょっと悔しいから!』
『ふふっ。じゃあ、いつか話してくれるまで待ってるね』
あかりは、俺にも何か悩みがあれば話してほしいと言ってくれた。
けれど、俺には自分のことを誰かに話す習慣がない。
悩みがあっても、たいていは自分の中で整理して終わりだ。
誰かに相談したところで、状況が大きく変わるとは思っていなかった。
……少なくとも、今までは。
「樹くん、おはよう!」
聞き慣れた声に顔を上げる。
あかりが、いつもの笑顔で俺の前に立っていた。
「……おはよう」
「今日も眠そうだね?」
「……普通だ」
「本当かなあ?」
あかりは俺の机に手をつき、少しだけ顔を近づけた。
「昨日、ちゃんと寝た?」
「……寝た」
「何時間?」
「……覚えてない」
「それ、絶対あんまり寝てないでしょ!」
彼女は楽しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、昨日まで胸の中にあった迷いが、少しずつ薄れていく気がした。
「……あかり」
「ん?」
「今日の放課後、少し時間あるか?」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出ていた。
あかりは目を丸くした。
「えっ? あるけど……どうしたの?」
「……少し、話したいことがある」
彼女は一瞬だけ真剣な表情になった。
それから、ゆっくりとうなずく。
「……うん。分かった」
そして、いつものように笑った。
「楽しみにしてるね」
……楽しみにされるほど、大した話ではないと思う。
それでも、今度は逃げずに話してみよう。
そう決めていた。
*
放課後。
文化祭の準備を終えた俺たちは、校舎の屋上へ続く階段の踊り場にいた。
普段は人通りが少なく、窓から校庭を見下ろせる場所だ。
夕日が差し込み、階段には長い影が伸びていた。
「……ここ、初めて来たかも」
窓の外を眺めながら、あかりが言った。
「そうなのか?」
「うん。いつも教室か写真部にいるから」
「……俺は、たまに来る」
「へえ。じゃあ、樹くんの秘密の場所?」
「……別に秘密じゃない」
「ふふっ。じゃあ、今日から私も知ってる場所だね」
あかりは、どこかうれしそうに笑った。
俺は手すりに寄りかかり、何から話すべきか考えていた。
昨日、彼女に自分のことを話そうと決めた。
けれど、いざとなると言葉が出てこない。
「……樹くん?」
「……ああ、悪い」
「急がなくていいよ」
あかりは俺の隣に立った。
「話したいことがあるって言ってくれただけで、うれしいから」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
「……俺、昔から一人でいることが多かったんだ」
ようやく、口を開いた。
「小学生のころから、休み時間は本を読んだり、窓の外を眺めたりしてた。友達がいなかったわけじゃないけど、自分から誰かに話しかけることは、あまりなかった」
「……うん」
「中学に入ってからも、あまり変わらなかった。周りが楽しそうに話しているのを見ても、別に混ざりたいとは思わなかったし、一人でいるほうが気楽だった」
俺は小さく笑った。
「……今も、そんなに変わってないけどな」
「そうなんだ?」
「ああ」
あかりは、ただ静かにうなずいていた。
途中で口を挟むことも、無理に励ますこともない。
ただ、俺の言葉を待ってくれている。
「……でも、一度だけ、後悔したことがある」
その言葉を口にした瞬間、昔の記憶がよみがえった。
*
中学二年生のころ。
クラスに、いつも一人でいる男子がいた。
そいつは、周りから少し変わっていると思われていた。
口数が少なく、冗談を言うのも苦手で、誰かに話しかけられても、うまく返せないことが多かった。
俺と、少し似ていた。
ある日、そいつがクラスメイトにからかわれているのを見た。
悪意があったのかどうかは分からない。
ただ、何人かが笑い、そいつは困ったようにうつむいていた。
俺は、その様子を見ていた。
何か言おうと思った。
けれど、結局何も言えなかった。
自分が口を出して、面倒なことになったら嫌だった。
どうせ、俺が何か言ったところで、何も変わらない。
そう考えて、その場を離れた。
翌日、そいつは学校を休んだ。
その後も、何日か欠席が続いた。
やがて、そいつは別の学校へ転校することになった。
詳しい事情は知らない。
ただ、最後の日。
帰りの廊下で、そいつとすれ違った。
何か言いたかった。
あのときは悪かった、と。
何もできなくて、ごめん、と。
けれど、結局、言葉にはできなかった。
そいつは俺の横を通り過ぎていった。
それきりだった。
*
「……それから、少し考えるようになった」
俺は窓の外を見つめた。
「誰かが困ってるとき、何もできないこともあると思う。でも、何も言わないまま通り過ぎるのと、何かできないか考えるのは、違うんじゃないかって」
あかりは黙って聞いていた。
「……だからって、急に人付き合いが得意になったわけじゃない。今でも、どうすればいいか分からないことは多い」
「……うん」
「でも、誰かが困っているのを見かけたら、できるだけ話を聞こうと思うようになった。それくらいなら、俺にもできるから」
話し終えた途端、急に恥ずかしくなった。
大した話ではない。
何かを成し遂げたわけでもない。
むしろ、今でも後悔していることだ。
「……変な話だったな」
「そんなことないよ」
あかりは、すぐに答えた。
その声は、いつもより真剣だった。
「……樹くんは、今でもそのことを覚えてるんだね」
「……ああ」
「ずっと後悔してたの?」
「……たまに、思い出すくらいだ」
本当は、もっと思い出していた。
何かに迷ったとき。
誰かが一人でいるのを見かけたとき。
自分が何も言えなかった、あの日のことを。
けれど、すべてを正直に話す必要はないと思った。
あかりは少し考えてから、静かに口を開いた。
「……私ね、樹くんがどうして人の話をちゃんと聞いてくれるのか、少し分かった気がする」
「……そうか?」
「うん。樹くんは、誰かを助けるために、すごいことをしようとしてるわけじゃないんだよね」
彼女は俺を見つめた。
「ただ、相手のことをちゃんと見ようとしてるんだと思う」
俺は何も言えなかった。
「私が家のことで悩んでたときも、無理に答えを出そうとしなかったでしょ?」
「……まあ」
「それが、すごくうれしかったんだ」
あかりは穏やかに笑った。
「私、いつも誰かに心配をかけないようにしなきゃって思ってた。だから、悩みを話すときも、最後には『大丈夫』って言わなきゃいけない気がしてたの」
「……」
「でも、樹くんと話していると、無理して大丈夫って言わなくてもいいんだって思えるの」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「……ありがとう」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
俺は、ただ話を聞いただけだ。
それなのに、彼女はそんなふうに言ってくれる。
「……俺のほうこそ、ありがとう」
「えっ?」
「……話を聞いてくれて」
あかりは驚いたように目を見開いた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……うん。いくらでも聞くよ」
その笑顔を見て、俺は思った。
この人になら、もう少し自分のことを話してもいいのかもしれない。
今まで誰にも言わなかったことも。
うまく言葉にできない気持ちも。
少しずつなら、伝えられるかもしれない。
*
「……ねえ、樹くん」
しばらくして、あかりが口を開いた。
「何だ?」
「私も、ひとつ話していい?」
「……もちろん」
彼女は窓の外を見つめた。
「私、昔から、誰かに嫌われるのが怖かったんだ」
「……」
「小さいころ、友達とけんかしたことがあってね。私、意地を張って謝れなかったの。それで、その子としばらく話せなくなっちゃって……」
あかりは、少し困ったように笑った。
「そのとき、すごく寂しかった。だから、それからは、できるだけ誰にでも優しくしようって思ったの」
「……それで、いつも笑ってたのか?」
「うん。笑っていれば、相手も笑ってくれることが多かったから」
彼女は自分の指先を見つめた。
「でも、いつの間にか、笑うことが当たり前になっちゃった。悲しくても、困ってても、笑っていれば何とかなるって思うようになってた」
「……」
「悠真は、そんな私を昔から知ってるんだ。だから、私が無理して笑ってると、すぐに気づくの」
その名前を聞いて、胸の奥が小さく揺れた。
けれど、今はそれを表に出さないようにした。
「……あいつは、よく見てるんだな」
「うん。昔からね」
あかりは懐かしそうに笑った。
「悠真には、何度も助けてもらった。だから、すごく大切な人なんだ」
「……そうか」
「でもね」
彼女は少しだけ間を置いた。
「樹くんといるときは、悠真といるときとは、少し違う気持ちになるの」
俺は思わず彼女を見た。
「……違う?」
「うん」
あかりの頬が、ほんのりと赤くなった。
「悠真といると安心するの。昔から知ってるし、何も言わなくても分かってくれることが多いから」
「……」
「でも、樹くんといると……何て言えばいいのかな。もっと知りたいって思うし、樹くんが何を考えてるのか、すごく気になるの」
彼女は困ったように笑った。
「樹くんが笑うと、うれしいし。私のことを少し話してくれると、もっと聞きたくなるし……」
そして、そっと顔を伏せた。
「……これって、どういう気持ちなんだろうね」
俺は答えられなかった。
答えられるはずがなかった。
もし今、俺が自分の気持ちを伝えたら。
彼女は、どんな顔をするだろう。
それに、彼女はまだ悠真の告白に答えを出していない。
俺たちの関係だって、偽物の恋人から始まったものだ。
今ここで、何かを決めるべきではない。
「……さあな」
俺は、できるだけ落ち着いた声で答えた。
「……自分で考えるしかないんじゃないか」
「……そっか」
あかりは、少しだけ残念そうに笑った。
「樹くんに聞いたら、何か分かるかと思ったのに」
「……俺に聞いても、分からないだろ」
「ふふっ。そうだね」
彼女は顔を上げた。
「でも、今の話は、樹くんにしかしてないよ」
心臓が、一度大きく跳ねた。
「……そうなのか?」
「うん」
あかりは、まっすぐに俺を見つめた。
「だから、秘密ね?」
「……分かった」
俺はうなずいた。
すると、彼女が小指を差し出した。
「約束!」
「……またか」
「まただよ!」
俺は苦笑しながら、小指を絡めた。
指先が触れ合う。
ほんの小さな約束。
それなのに、今までよりも少しだけ特別なものに感じられた。
*
校舎を出ると、空は夕焼けに染まっていた。
駅までの道を、俺たちは並んで歩いた。
「……ねえ、樹くん」
「何だ?」
「今日、話してくれてありがとう」
「……もう聞いた」
「何度でも言いたいの!」
あかりは楽しそうに笑った。
「私、樹くんのことを、もっと知りたいって思った」
「……そうか」
「うん。だから、これからも少しずつ教えてね」
俺は、彼女の横顔を見た。
その笑顔に、もう一度、胸の奥が熱くなる。
「……ああ」
それだけ答えるのが精いっぱいだった。
駅に着くと、あかりは改札の前で立ち止まった。
「じゃあ、また明日ね!」
「……ああ。また明日」
彼女は改札を通り、振り返って手を振った。
俺も小さく手を上げる。
姿が見えなくなるまで見送ってから、ようやく歩き出した。
自分のことを話すのは、思っていたよりも難しかった。
でも、あかりになら、少しずつ話していける気がした。
彼女が俺のことを知りたいと言ってくれる。
それが、こんなにうれしいことだとは思わなかった。
……本当に、困ったものだ。
俺はもう一度スマートフォンを取り出した。
あかりからメッセージが届いていた。
『今日はありがとう!』
『樹くんのこと、またひとつ知れてうれしかった』
俺は少し迷ってから返信した。
『……俺も、話せてよかった』
すぐに既読がついた。
『えへへ。じゃあ、次はもっといろいろ聞かせてね!』
俺は小さく笑った。
そして、返信した。
『……考えておく』
いつもと同じ言葉。
けれど、今は少しだけ違う意味を持っていた。
いつか、本当に自分のことを全部話せる日が来るのだろうか。
そんな未来を、初めて想像した。
*
そのころ、別の場所で。
悠真は、自分の部屋の机に向かっていた。
机の上には、古いアルバムが開かれている。
小学生のころ、あかりと一緒に撮った写真。
運動会。
夏祭り。
公園のブランコ。
何でもない日の帰り道。
どの写真にも、あかりの笑顔が写っていた。
「……昔は、こんなに簡単に笑ってくれたのにな」
悠真は、小さくつぶやいた。
もちろん、今だってあかりは笑ってくれる。
けれど、最近の彼女は少しずつ変わってきている。
黒沢樹という少年の隣で。
自分の知らない表情を見せるようになった。
それが、うれしくないわけではない。
あかりが本当に安心できる相手を見つけたのなら、それは喜ぶべきことなのだろう。
それでも。
自分がずっと大切にしてきた時間が、少しずつ遠ざかっていくような気がした。
「……まだ、諦めるつもりはないけどな」
悠真はアルバムを閉じた。
告白したからといって、すぐに答えが出るわけではない。
あかりが誰を選ぶのかも、まだ分からない。
だからこそ、これからは自分の気持ちを隠さずにいようと思った。
あかりを困らせたいわけではない。
樹を憎んでいるわけでもない。
ただ、自分の気持ちまでなかったことにしたくなかった。
「……あかり」
誰もいない部屋で、彼女の名前を呼んだ。
そして、決めた。
次にあかりと二人きりで話せる機会があったら、もう一度、自分の気持ちを伝えよう。
今度は、幼なじみとしてではなく。
一人の男として。
窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいった。
三人の気持ちは、まだどこにもたどり着いていない。
けれど、文化祭が近づくにつれて、それぞれの心は少しずつ、確かな方向へ動き始めていた。
そして、その変化はもう、誰にも止められないのかもしれなかった。
第15話終了
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