第13話 幼なじみの思い出と、君への気持ち
木曜日の朝。
目覚ましが鳴る五分前に、俺は目を覚ました。
理由は簡単だ。
昨日、あまりよく眠れなかったからである。
「……眠い」
布団から出る気になれず、俺は枕に顔を埋めた。
昨日の出来事が、何度も頭の中で繰り返される。
悠真があかりに告白したこと。
そして、帰り際に交わした、あの会話。
『もし、私が誰かを好きになったら、樹くんはどう思う?』
あの質問に、俺はまともな答えを返せなかった。
正直に言えばよかったのだろうか。
自分以外の誰かを好きになってほしくない、と。
……いや、そんなことを言える立場ではない。
俺たちは、偽物の恋人なのだから。
そもそも、俺自身が自分の気持ちを認めきれていない。
昨日、あかりが寂しそうに笑った顔が、どうしても頭から離れなかった。
自分の気持ちに答えを出せないまま、彼女に何かを求めることなんてできない。
「……考えても仕方ないか」
俺はゆっくりと起き上がり、制服に着替えた。
今日こそは、いつもどおりに過ごそう。
そう自分に言い聞かせ、家を出た。
*
教室に入ると、あかりはすでに席に座っていた。
その隣には悠真がいる。
二人はスマートフォンの画面を見ながら、何かを話していた。
「だから、この写真、ちょっと暗いんだって」
「いや、そこがいいんじゃない? 昔の雰囲気が出てるし」
「えー? そうかなあ」
あかりが笑った。
悠真も、それに応えるように笑う。
自然なやり取りだった。
幼いころから一緒にいる二人なら、これくらい普通なのだろう。
そう理解している。
理解しているのに、なぜか足が止まった。
昨日、悠真があかりに気持ちを伝えたことを思い出す。
それでも、二人はいつもどおりに話している。
悠真なりに、あかりを困らせないようにしているのかもしれない。
そう思うと、少し複雑な気持ちになった。
俺が教室の入口に立っていることに気づいたあかりが、顔を上げた。
「あっ、樹くん! おはよう!」
「……おはよう」
悠真もこちらを向いた。
「おはよう、黒沢」
「ああ」
短く返事をして、自分の席へ向かう。
すると、あかりがスマートフォンを持って近づいてきた。
「ねえ、樹くん。これ、見て!」
「……何だ?」
画面には、少し色あせた写真が表示されていた。
小学生くらいのあかりと悠真が、公園のブランコに並んで座っている。
二人とも、今よりずっと幼い。
あかりは満面の笑みを浮かべ、悠真は少し照れくさそうにカメラを見ていた。
「これ、小学生のときの写真なんだ!」
「……へえ」
「このころ、悠真がカメラを持っててね。私、写真を撮られるのが好きだったんだ」
「今も好きだろ」
「うん。でも、このころは撮るより撮られるほうが好きだったかも」
あかりは懐かしそうに笑った。
「悠真がね、私が落ち込んでるとき、よく写真を撮ってくれたの。『あとで見返したら、こんなこともあったなって笑えるかもしれない』って」
俺は、画面の写真をもう一度見た。
あかりが写真を大切にする理由。
それは、ただ思い出を残したいからではないのかもしれない。
つらかったことも、いつか振り返って笑えるように。
過ぎていく時間を、忘れないように。
彼女なりの方法で、大切なものを守ろうとしているのだろう。
「……いい写真だな」
「でしょ?」
あかりはうれしそうにうなずいた。
「……悠真って、昔からこういうのが得意だったんだな」
「うん。私よりずっと上手だったよ」
その言葉を聞いて、胸の奥が小さく痛んだ。
あかりには、俺の知らない思い出がたくさんある。
当然だ。
俺たちは、まだ知り合ってから数か月も経っていない。
それでも、彼女のことをもっと知りたいと思ってしまう。
昔のあかりも。
今のあかりも。
そして、これから先のあかりも。
……欲張りになったものだ。
「樹くん?」
「……何でもない」
俺は視線をそらした。
あかりは少し不思議そうにしていたが、すぐに笑顔に戻った。
「じゃあ、またあとでね!」
「ああ」
彼女が席へ戻っていく。
俺は机の上に教科書を置いた。
自分の知らない彼女を知るたびに、うれしくなる。
同時に、少しだけ不安にもなる。
この気持ちを、どうすればいいのだろう。
*
その日の放課後。
文化祭の写真展示の準備は、いよいよ大詰めを迎えていた。
教室の後ろには、完成した展示ボードが並んでいる。
学校生活の何気ない瞬間。
部活動に打ち込む生徒たち。
夕暮れの校舎。
誰もいない廊下に差し込む光。
そして、笑っているクラスメイトたち。
どれも特別な写真ではない。
けれど、眺めていると不思議と足を止めたくなる。
「……やっぱり、篠原の写真はすごいな」
俺がつぶやくと、隣にいたあかりが振り向いた。
「えっ? 今、褒めてくれた?」
「……事実を言っただけだ」
「ふふっ。じゃあ、もっと言ってもいいよ?」
「調子に乗るな」
「ひどい!」
あかりは笑いながら、展示ボードの位置を直した。
その横顔を見ていると、ふと気づいた。
彼女は写真を選ぶとき、必ず一枚ずつじっくりと見ていた。
明るく笑っている写真だけではない。
少し疲れた表情。
誰かの話を真剣に聞いている横顔。
窓の外をぼんやり眺めている姿。
そんな写真も、彼女は大切そうに扱っていた。
「……なあ、あかり」
「ん?」
「どうして、この写真も展示するんだ?」
俺は一枚の写真を指さした。
そこには、放課後の教室で一人、窓の外を見つめている女子生徒の姿が写っていた。
笑ってはいない。
むしろ、少し寂しそうな表情だった。
「……この子、笑ってないだろ」
あかりは写真を見つめた。
「うん」
「それでも、いいのか?」
彼女は少し考えてから答えた。
「……うん。だって、これもこの子の一日だから」
「……」
「いつも笑ってる人だって、疲れる日もあるし、何もしたくない日もあるでしょ?」
あかりは写真の端をそっと押さえた。
「笑ってる顔だけが、その人の全部じゃないから」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
あかり自身も、きっとそうなのだ。
いつも明るくて、誰にでも優しくて、周りを笑顔にする女の子。
でも、それだけが彼女のすべてではない。
不安になることもある。
迷うこともある。
誰にも見せたくない弱さだってある。
俺は、それを少しずつ知り始めていた。
「……篠原」
「……あかり、って呼んでくれないの?」
「……あかり」
口にした瞬間、彼女の手が止まった。
「……うん」
あかりは、少しだけ頬を赤くした。
「何?」
「……いや」
俺は視線をそらした。
「その写真、いいと思う」
あかりは一瞬きょとんとしたあと、うれしそうに笑った。
「……ありがとう、樹くん」
その笑顔を見て、俺は思った。
彼女が笑っていると、うれしい。
でも、無理に笑わなくてもいいと思う。
どんな顔をしていても、彼女は彼女なのだから。
そして、そんな彼女をもっと知りたいと思う自分がいる。
それはもう、偽物の恋人だからという理由だけでは説明できなかった。
*
作業が一段落したころ、佐伯が教室に顔を出した。
「篠原、ちょっといい?」
「あっ、佐伯くん! どうしたの?」
「この前話したカメラ、持ってきたんだ。よかったら放課後、写真部に見に来ない?」
佐伯は鞄からカメラのケースを取り出した。
「新しいレンズも試せると思う」
「えっ、本当? 見たい!」
あかりの目が輝いた。
「じゃあ、あとで行くね!」
「了解。待ってる」
佐伯は軽く手を振って教室を出ていった。
俺は、黙ってそのやり取りを見ていた。
写真のことになると、あかりは本当に楽しそうだ。
その姿を見るのは好きだった。
……好き、なのだろうか。
また、その言葉に引っかかってしまう。
「……樹くん?」
「……何だ?」
「あれ? 何か考え事?」
「別に」
あかりは俺の顔をのぞき込んだ。
「……もしかして、気になる?」
「何が」
「佐伯くんと私が写真部に行くこと!」
「……別に」
「本当に?」
「……写真を見に行くだけだろ」
「うん。そうだけど」
彼女は少しだけいたずらっぽく笑った。
「樹くんも一緒に来る?」
「……俺が?」
「うん! 樹くんにも見てほしいし」
思いがけない言葉だった。
俺は少しだけ迷った。
写真部に興味がないわけではない。
それに、あかりが誘ってくれるなら、一緒に行きたい。
「……邪魔じゃないなら」
「邪魔なわけないじゃん!」
あかりはうれしそうに笑った。
「じゃあ、一緒に行こう!」
その一言だけで、さっきまで胸の中にあった小さなもやもやが、少し薄くなった。
……我ながら、分かりやすい。
*
写真部の部室には、古いカメラや写真集が並んでいた。
窓際には三脚が置かれ、壁には部員たちが撮影した写真が飾られている。
「これが新しいカメラ」
佐伯がケースを開けた。
「このレンズだと、背景をぼかしやすいんだ」
「わあ……きれい!」
あかりは、まるで宝物を見つけた子どものような顔をしていた。
俺は、その表情を見ていた。
教室で笑っているときとは、少し違う。
周りに気を配ることも、誰かを楽しませることも忘れて、ただ好きなものに夢中になっている。
そんな顔だった。
「……篠原って、本当に写真が好きなんだな」
佐伯が笑った。
「うん! 撮るのも好きだし、撮った写真を見返すのも好き!」
「前に撮った写真、まだ持ってる?」
「もちろん。スマホにもカメラにもいっぱいあるよ」
あかりは自分のカメラを取り出した。
「……あっ、そうだ」
彼女は俺のほうを向いた。
「樹くん、こっちに来て!」
「……何だ?」
「ちょっと写真を撮ってみてほしいの」
「俺が?」
「うん!」
あかりはカメラを差し出した。
俺は戸惑いながら受け取った。
「……どう撮ればいいんだ?」
「好きなように撮っていいよ。私でも、部室でも、窓の外でも!」
好きなように。
そう言われると、かえって困る。
俺はカメラを構え、窓際に立つあかりを見た。
夕方の光が、彼女の髪を柔らかく照らしている。
カメラを持つ手。
何かを見つけたときの、少しだけ上がる口元。
楽しそうに細められた目。
気づけば、俺はシャッターを切っていた。
カシャッ。
「……撮れた?」
あかりが近づいてくる。
「ああ」
「見せて!」
俺はカメラの画面を彼女に向けた。
そこには、窓から差し込む光を受けながら笑っているあかりが写っていた。
誰かに見せるために作った笑顔ではない。
好きなものに夢中になっているときの、自然な表情だった。
「……わあ」
あかりは画面を見つめた。
「……すごく好き」
「……そうか?」
「うん!」
彼女は顔を上げた。
「樹くん、写真撮るの上手だね!」
「……たまたまだろ」
「たまたまでも、うれしいよ」
そう言って、あかりはもう一度写真を見た。
「……この写真、もらってもいい?」
「……ああ」
「ありがとう!」
彼女は大切そうにカメラを受け取った。
その横で、佐伯が少しだけ笑った。
「なるほどね」
「……何がだ?」
「いや、何でもない」
佐伯は意味ありげな視線をあかりに向けた。
「篠原、いい写真を撮ってもらえてよかったな」
「うん!」
あかりは俺を見て笑った。
「……大切にするね」
その言葉が、胸の奥に残った。
写真を大切にする。
それは、彼女らしい言葉だった。
でも、俺が撮った写真を、彼女がそんなふうに言ってくれたことが、思っていた以上にうれしかった。
*
写真部を出るころには、空が夕焼け色に染まっていた。
校門までの道を、俺たちは並んで歩いた。
「今日は楽しかったね!」
「ああ」
「樹くんが撮ってくれた写真、あとでちゃんと送るね」
「……別に、そんなに大切にしなくてもいいぞ」
「だめ!」
あかりは、きっぱりと言った。
「樹くんが撮ってくれた写真だから、大切にしたいの」
俺は返事に困った。
彼女は少しだけ首をかしげた。
「……変かな?」
「……いや」
俺は前を向いた。
「……変じゃない」
むしろ、うれしかった。
自分が何気なく撮った一枚を、彼女が大切にしてくれる。
それだけで、今日という日が特別になった気がした。
駅に着くと、あかりが改札の前で立ち止まった。
「……ねえ、樹くん」
「何だ?」
「私、樹くんのこと、もっと知りたいな」
不意打ちだった。
「……俺のこと?」
「うん。好きなものとか、苦手なものとか。昔のことも、これからのことも」
あかりは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「私のことを知ろうとしてくれるでしょ? だから、私も樹くんのことを知りたいの」
俺は、すぐには答えられなかった。
今まで、誰かにそんなふうに言われたことは、ほとんどなかった。
自分のことを話すのは得意ではない。
特別な趣味があるわけでもないし、誰かに誇れるような過去があるわけでもない。
それでも、彼女が知りたいと言ってくれるなら。
「……大した話はないぞ」
「それでもいいよ」
あかりは笑った。
「樹くんのことなら、どんな話でも聞きたい」
胸の奥が、静かに熱くなった。
俺は彼女の目を見た。
「……じゃあ、少しずつ話す」
「……うん!」
あかりは、うれしそうにうなずいた。
「約束ね!」
彼女が小指を差し出した。
俺は少しだけ迷ってから、自分の小指を絡めた。
指先が触れる。
それだけなのに、妙に意識してしまう。
「……約束だ」
あかりは満足そうに笑った。
そして改札を通る直前、振り返った。
「……樹くん!」
「……何だ?」
「今日、樹くんが撮ってくれた写真を見たら、きっと今日のことを思い出すと思う」
彼女はカメラを胸元に抱えた。
「だから……今日も、いい日だったよ」
俺は、少しだけ笑った。
「……それなら、よかった」
あかりは手を振り、改札の向こうへ歩いていった。
俺は、その背中を見送った。
彼女が撮った写真には、たくさんの思い出が詰まっている。
その中に、俺との時間も少しずつ増えていくのだろうか。
そう考えると、うれしくなった。
そして同時に、怖くもなった。
いつか、この時間が終わってしまうかもしれない。
偽物の恋人という約束が終われば、俺たちは今のように一緒にいられるのだろうか。
答えは、まだ分からない。
ただ、今は。
彼女と過ごす時間を、大切にしたいと思った。
*
その夜。
あかりから写真が送られてきた。
一枚目は、写真部の窓際で笑っている彼女。
二枚目は、文化祭の展示ボード。
三枚目は、夕焼けに染まる校門。
どれも、今日の思い出だった。
そして最後に、一通のメッセージが届いた。
『樹くん、今日はありがとう!』
『私ね、今日の写真を見たら、きっと何年たっても今日のことを思い出せると思う』
俺は、しばらく画面を見つめた。
それから、返信した。
『……俺も、今日のことは忘れないと思う』
送信して、スマートフォンを置く。
少しして、また通知が鳴った。
『……それって、ちょっと期待してもいいってこと?』
俺は思わず固まった。
「……何でそうなる」
小さくつぶやいたあと、返信を打つ。
『深い意味はない』
すぐに返事が来た。
『ふふっ。そういうことにしておくね』
俺は、思わず口元を緩めた。
そして、気づいた。
今日一日、彼女のことを考えていた。
彼女の笑顔を見て、うれしくなった。
彼女が自分の写真を大切にしてくれることが、何よりもうれしかった。
もう、答えは近くにあるのかもしれない。
それでも、口にするのはまだ怖かった。
俺はスマートフォンを伏せ、静かに目を閉じた。
明日も、彼女に会える。
それだけで、十分だと思った。
……今のところは。
第13話終了
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