—2—「恋?」
寒気に肩を震わせ、駿河は目を覚ました。
冷房が効きすぎているのか、肌にまとわりつく空気がやけに冷たい。薄暗い劇場の天井をぼんやり見上げながら、手探りで腕時計を確かめると、針は、すでに深夜を回っていた。
その瞬間、腹の奥がきゅるりと痛む。もう一度、小さく身震いする。
どうやら寒さだけではなく、便意も限界らしい。
薄暗い劇場内では、少し離れた場所でダニエルが静かに寝息を立てていた。
毛布を胸元まで引き上げ、身体を小さく丸めている。その規則正しい寝息だけが、静まり返った劇場の中に微かに響いていた。
「……遠い」
ぽつりと漏らす。
トイレは劇場の上階にある。今の身体で階段を上るのは億劫だったが、排泄欲求に勝てるほど人類は進化していない。
観念して立ち上がった。
指名手配犯となって、二日目の夜だった。
昼間は、今後について延々と話し合った。どう動くべきか、どこに潜むべきか、誰に接触するべきか。答えの出ない議論を繰り返し、気づけば夜になっていた。
そして今は、こうして劇場を根城に寝泊まりしている。
もちろん仕事には行っていない。
つまり、無断欠勤だ。
それは駿河だけではなく、美緒やダニエルも同じだった。社会から切り離されたという現実が、じわじわと輪郭を帯び始めている。
甲斐は、あの日から一度も姿を見せていなかった。ゲームを理由に出て行ったまま、連絡もない。
無事なのか。捕まってはいないのか―――不安は胸の奥で燻り続けている。
それでも今は、信じるしかなかった。
当然、自宅にも張り込みが入っているだろう。そのため、駿河たちは、もう家へ戻ることすらできずにいた。
とはいえ、生活そのものに困っているわけではない。
休憩室には簡易的なシャワーが備え付けられており、食事は園島が毎日運んできてくれる。もちろん無償ではないが、その費用は高山が負担していた。
衣服や下着に至っては、大島が「任せなさい」と妙に張り切って大量に持ち込んできてくれた。
衣食住――生きるために必要なものは、一通り揃っている。
それでも、不自由がまったくないわけではなかった。
広すぎる劇場——それが、駿河にはどうにも落ち着かなかった。
昼間はまだいい。人の声があり、光があり、誰かの気配が空間を埋めている。
だが、夜になると様相は一変する。
照明の落とされた劇場は、まるで巨大な空洞のようだった。
幾重にも並ぶ観客席は、暗闇の中で黒く沈み込み、どこまで続いているのか判然としない。舞台の上には薄闇が溜まり、垂れ下がった幕が、まるで巨大な影のように静かに揺れている。
時折、建物のどこかで「ミシ……」と乾いた軋みが鳴った。空調の低い駆動音が、だだっ広い空間の中でぼんやりと反響する。
そのわずかな物音さえ、この静けさの中では妙に耳についた。
布団に横になって目を閉じても、視界の奥には劇場の暗闇が焼き付いて離れない。まるで、自分だけが巨大な闇の底に取り残されているようだった。
静寂は優しさではなく、ゆっくりと人の心を侵食してくる類のものだった。
そのせいか、駿河はなかなか寝付けず、こうして夜中に目を覚ましてしまうこともしばしばあった。
劇場の扉を開け、その先にあるトイレで用を足す。ようやく一息ついたところで、今度は喉の渇きを覚えた。
飲み物を取りに行くには、休憩室まで戻らなければならない。
だが――そこでは美緒が眠っている。
女性が一人で寝ている部屋へ入ることに、少なからず抵抗があった。とはいえ、喉はからからで、このままでは到底眠れそうにない。
駿河はしばらく逡巡した末、良心よりも潤いを優先することにした。
駿河は、できる限り音を立てないように扉を開けた。
蝶番が、かすかに軋む。
その小さな音にさえ神経を尖らせながら、そっと休憩室へ足を踏み入れる。室内は薄暗く、非常灯の淡い明かりだけが静かに滲んでいた。
美緒は、部屋の隅に敷かれた布団の中で静かな寝息を立てている。
駿河は無意識に生唾を飲み込んだ。
妙な緊張感があった。
忍び足で冷蔵庫へ向かう。床板が鳴らない場所を探すように、慎重に足を運ぶ。
冷蔵庫の取っ手へ手を掛け、ゆっくりと扉を開いた――その瞬間。
「……ん……」
背後から声が聞こえた。これには心臓が、どくりと跳ねる。
駿河は反射的に肩を震わせ、その場で硬直した。
だが、振り返っても美緒は眠ったままだった。
……どうやら寝言らしい。
「……なんだよ」
小さく息を吐く。
冷蔵庫からペットボトルを取り出し、そっと扉を閉めて、そのまま部屋を出ようとして――ふと足が止まる。
視線が、自然と美緒へ向いていた。
薄暗い室内の中で、彼女の白い肌だけがぼんやりと浮かび上がって見える。
長い睫毛。わずかに開いた唇。無防備に眠るその横顔は、昼間の険しさが嘘のように穏やかだった。
休憩室の闇の中で、その寝顔だけが妙に現実感を持っている。
駿河は、その場に立ち尽くしていた。静まり返った部屋の中で、美緒の寝息だけが小さく上下している。
薄暗い明かりに照らされた横顔は、昼間よりもずっと幼く見えた。険しさも、生真面目さも消えていて、ただ無防備だった。
「飯島さん……たすけ……」
か細い声が、寝息に混じるように漏れた。
駿河の肩がぴくりと揺れる。
しかし、美緒は眠ったままだった。
閉じられた瞼の端には、うっすらと涙が滲んでいる。眉が苦しげに寄せられ、布団の端を小さく握り締めていた。
夢を見ているのだろうか。
助けを求めるその声は弱々しい。その姿を見た瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
心臓が、静かに脈を打つ。
同情とは少し違う。
可哀想だと思ったわけではない。
かといって、罪悪感だけでもなかった。
もっと曖昧で、もっと落ち着かない感情だった。
目を離した方がいい。そう思うのに、視線が離れない。泣きそうな顔で眠る美緒を見ていると、胸の奥を何かがじわじわと締め付けてくる。
理由の分からない焦燥感に似ていた。
駿河は無意識に唇を引き結ぶ。
その感情の正体を、まだ自分では理解できていなかった。
駿河は視線を逸らすように背を向け、静かに部屋を後にした。
布団へ戻り、ペットボトルの水を喉へ流し込む。
だが、妙に目が冴えてしまっていた。
寝返りを打っても、瞼を閉じても、さっき見た美緒の寝顔が頭から離れない。
もちろん、駿河自身に自覚はない。
だが、一般的な感情に照らし合わせれば、それは間違いなく胸の高鳴りだった。
恋愛経験に乏しく、その手の知識が中学生の頃からほとんど更新されていない駿河にとって、その刺激は少々強すぎたらしい。
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