—1—「甲斐、誘拐事件」
翌朝、駿河が休憩室へ入ると、美緒がちょうど布団を押し入れへ仕舞っているところだった。
「おはよう」
振り返った美緒が、いつも通りに声を掛ける。
だが、その瞬間、駿河の心臓が妙に跳ねた。
昨夜、薄暗い休憩室で見た美緒の寝顔が、不意に脳裏へ浮かぶ。
涙の滲んだ目元、助けを求めるような寝言、無防備に眠る横顔。その記憶が胸の奥をざわつかせ、視線の置き場が分からなくなった。
「おっ……うん」
なんとも情けない返事だった。
目も合わせられず、駿河は意味もなく視線を泳がせながら頭を掻く。胸の奥が妙にざわついていて、自分がなぜこんな反応をしているのか、本人にもよく分かっていなかった。
一方、美緒の方も、そんな駿河の異変に気づいていたらしい。押し入れの襖に手を掛けたまま、不思議そうに小首を傾げる。
「……?」
なんとも言えない、ぎこちない空気が休憩室に流れた。
初々しいというべきか、気まずいというべきか。
少なくとも、普段の駿河らしくないことだけは確かだった。
実に滑稽である。いつぞや初めて酒を飲んで潰れた時よりも、よほど笑い甲斐があった。
なぜこの場に私がいないのか、心底悔やまれる。もし居合わせていたなら、読心術を使うまでもなく「恋しちゃってるじゃないですかぁ〜!」と、デリカシーの欠片もなく騒ぎ立て、劇場中を飛び回りながら散々茶化していたに違いない。
そんな妙に落ち着かない空気は、ダニエルが休憩室へ入ってくるまで続いたのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「そろそろ、行動に移さないとな」
駿河は味噌汁を啜りながら、ダニエルと美緒へ目配せした。
先ほどまでの妙な緊張感も、ダニエルが来たことで幾分和らいでいる。二人きりの空間から解放された駿河は、すっかりいつもの調子を取り戻していた。
どこか偉そうで、妙に態度がでかい。
―――いつも通りの駿河だ。
ちなみに、高山もすでに劇場へ来ていた。
もっとも、彼は自宅で朝食を済ませてきたらしく、休憩室へ入るなりソファへ寝転がり、呑気に携帯ゲームを始めている。
片足を組み、気だるそうに画面を眺める姿には、先日見せた威厳など欠片もない。
それは、あの凛とした老人と、本当に同一人物なのか疑いたくなるほどだった。
果たして、どちらが本当の高山なのか……。なんとも掴みどころのない老人である。
「そうですね。でしたら、昨日和奏さんが提案していた大学はどうでしょうか。まずはリスクの少ないところから攻めるべきだと思います」
ダニエルの提案に、駿河も美緒も異論はなかった。
次の方針が定まり、三人が束の間の朝食を取っていた、その時だった。
休憩室の扉が、騒がしい音と共に勢いよく開いた。
「大変です! 大変です!」
――――和奏だった。
肩で荒く息をしながら、半ば転び込むように室内へ飛び込んでくる。髪は乱れ、頬は紅潮していた。
慌てすぎたのか、片方の靴が脱げかけていることにも気づいていない。
そのままおろおろと視線を彷徨わせ、落ち着きなく両手をばたつかせる。
完全に取り乱していた。
その慌てぶりを見た瞬間、駿河の脳裏に嫌な既視感がよぎる。
和奏は息を切らしたまま駆け寄ると、テーブルの上に置かれていたテレビのリモコンをひったくり、慌ただしく電源を入れた。
もっとも、現実とは案外そんなに都合良くできていない。
和奏が切り替えたニュース番組で流れていたのは、爽やかな笑顔のお天気キャスターによる天気予報だった。
「あれっ?」
和奏は慌ててチャンネルを変える。
だが次に映ったのは、今や半ば形骸化した政治討論番組。さらに切り替えれば、今度は能天気なCMが流れ始めた。
見事なまでに間が悪い。
「いや、口で言えよ……」
駿河が呆れ混じりに突っ込む。
ようやく我に返った和奏は、「あっ」と間の抜けた声を漏らした。
そして次の瞬間、顔を青ざめさせながら叫んだ。
「甲斐さんが――誘拐されました!」
「なにっ!?」
駿河は勢いよく立ち上がった。
その拍子に、手元の味噌汁椀へ肘がぶつかる。
「あっ――」
次の瞬間、味噌汁が宙を舞った。
不幸にも、その軌道の先にいたのは和奏であり、茶色い飛沫が、見事に彼女の服へ降りかかった。
「ぎゃっ!」
和奏が悲鳴を上げる。
白っぽい服の腹部に、じわりと味噌汁の染みが広がっていった。
だが、駿河にそれを気にする余裕はなく、テーブルへ身を乗り出しながら問い詰める。
「どういうことだ!? まさか全平教の連中か!?」
しかし、和奏はそれどころではなく、両手で服を押さえながら、青ざめた顔で染みを見下ろしている。
どうやら彼女の脳内では、“甲斐が誘拐された”よりも、“お気に入りの服が汚れた”の方が、現在進行形の大事件らしい。
「な、なにしてるんですか! 汚れちゃったじゃないですか!」
「いや、これは……その……悪かった」
駿河が珍しく歯切れ悪く謝り、こうして話は見事に脱線した。
その後、和奏はそのまま休憩室のシャワーへ直行した。
味噌汁を洗い流すためである。
もっとも、汚れたのは腹の辺りだけだったはずなのだが、シャワールームの方からは、いつまで経っても水音が止まらない。
そのうち、鼻歌まで聞こえ始めた。
「ふんふふ〜ん♪」
妙に上機嫌である。
どうやら和奏の中では、いつの間にか“緊急事態”より“お風呂タイム”の方が主題になっているらしい。水音はさらに続き、途中からはシャンプーを泡立てているらしき気配まで混じり始めた。
やがてシャワーを終えたかと思えば、今度は味噌汁の染みが残らないよう服を丁寧に手洗いし始める。
揉み洗いして、すすいで、染みを確認して、また洗う。
その動きだけはやたら真剣だった。
さらに、美緒から服を借りて着替え、髪を整え、水分補給まで済ませると、和奏はどこかさっぱりした顔で戻ってきた。
「お前、絶対途中で余計なことしてただろ!!」
休憩室に、駿河の怒号が炸裂した。




