—1—「高山の覚悟」
翌日、昼前———駿河は美緒に揺さぶられて目を覚ました。
「大変、大変だよ。ちょっと来て!」
切羽詰まった声が、夢の残り香を無理やり引き裂いた。そして、またも肩を強く揺さぶられる。
駿河は顔をしかめた。まぶたの裏で光がちらつき、こめかみがずきりと脈打つ。口の中はやけに乾いている。
昨夜の酒が、まだ体の奥に居座っていた。
重たい頭を持ち上げると、視界がわずかに揺れる。ぼやけた輪郭の中で、美緒の顔だけが妙に近い。
「ほら、早く!」
急かす声に押されるように、駿河はベ布団から起き上がる。床の冷たさが、遅れて足裏に伝わる。
そのまま立ち上がるが、身体がついてこない。ふらりと体勢を崩しかけ、壁に手をついた。目元を乱暴にこすり、無理やり意識を引き上げる。
半分眠ったままの足取りで廊下を進む。
足音がやけに響く。遠くで誰かの声がしている気がするが、うまく拾えない。
やがて休憩室の前に辿り着き、扉を押し開けると、中には美緒のほかに、和奏とダニエルの姿があった。
二人とも、ただ事ではない顔をしている。
「なんだよ、そんなに慌てて。今日ぐらいゆっくりしようぜ」
気だるそうに言うと、美緒は首を振った。
「そんな悠長なこと言ってられないよ。テレビを見て」
促されて、駿河は画面に目を向けた。
次の瞬間、思考が途切れる。画面いっぱいに、自分の顔があった。
強い照明に白く飛んだ肌、やけに鮮明な輪郭、見慣れているはずなのにどこか他人のように見える。
「は?」
喉の奥で、乾いた声がひっかかった。
心臓が一拍遅れて跳ねる。耳鳴りがかすかに立ち上がり、視界の端がわずかに揺れた。眠気が一気に剥がれ落ちる。
駿河は反射的に一歩踏み出して、目を凝らした。
画面の端に、別の顔が滑り込む。甲斐、美緒、ダニエル。見慣れた顔が、順に切り替わっていく。
テロップが走る。音声が遅れて頭に入る。自分の名前、所属、見出しの強い言葉。
胃の奥がひやりと冷える。呼吸が浅くなり、胸の内側がざわつく。
覚悟はしていた。こうなる可能性も分かっていた。
それでも、実際に“指名手配”として晒される光景を前にすると、冷静ではいられない。
「あたしたち……指名手配にされちゃったみたい」
美緒が消え入りそうな声で言った。顔色は明らかに悪い。視線が定まらず、駿河と目を合わせかけて、すぐに逸らす。指先がわずかに震えている。
「だから言ったじゃない。いくらなんでも、やりすぎだって」
その一言で、駿河の中の何かが弾けた。
「なに言ってんだよ。お前も賛同してただろ!」
声を荒げると、美緒はきっと顔を上げる。
「あたしは仕方なく手伝っただけ! 賛同なんてしてない!」
「なんだと……じゃあ――」
「今は喧嘩している場合じゃないです!」
和奏が割って入った。
その声は思った以上に強く、場の空気を押しとどめる。
「誰のせいとか、今はどうでもいいじゃないですか!」
言葉のあと、重たい沈黙が落ちる。
その中で、ダニエルが静かに口を開いた。
「私は、こうなることは覚悟していました」
落ち着いた声音だった。
「ですが、私たちの行動は世界的に見れば称賛されるべきものです。おかしいのは、今の日本の現状だと思います」
一拍置いて続ける。
「それに今回の指名手配は公的なものではありません。あくまで全平教によるものです」
理屈は通っている。だが現実は違う。
「そうは言ったって……これじゃもうまともに働けないよ」
それには、ダニエルも「そうですね……」と力なく呟いくことしか出来なかった。
重たい沈黙が、部屋の空気を粘つかせていた。そのとき、低く通る声が落ちる。
「金なら問題ない。ワシが工面しよう」
誰かが息をのむ。音が止まり、視線が一斉に扉へ吸い寄せられる。開け放たれた戸口の陰に、人影が立っていた。逆光の中で輪郭だけが浮かび、ゆっくりと一歩、内へ踏み入る。
床板が、乾いた音を返す。光が差し込み、顔が現れる。
———高山だった。
だが、いつもの軽口を帯びた気配はない。
背筋はまっすぐに伸び、顎はわずかに引かれ、視線は揺れない。場の温度が、彼を中心にすっと下がる。歩みは静かだが、迷いがない。
その佇まいは、長く人の上に立ってきた者だけが持つ重さを帯びていた。凛とした気配が、部屋の隅々まで行き渡る。
「金って言ったって……これじゃ生活もままならない」
美緒が不安を滲ませる。
「衣食住には困らん。それぐらいの金は、十分にある」
高山は断言した。
そして、ゆっくりと美緒へ視線を向ける。
「美緒ちゃんには、申し訳ないことをしたな。君が今回の作戦に乗り気でないことは、分かっていた」
一度、言葉を区切る。
「だが、ワシが賛同すれば、君は従うと分かっていて……何も言わなかった。本当に、すまない」
深く頭を下げた。
その姿に、美緒は目を見開いた。
「い、いえ……そんな……頭を上げてください」
戸惑いながら、慌てて言葉を返す。
高山はゆっくりと顔を上げ、全員を見渡した。
その目には、迷いがない。
「だが、こうなった以上、もう引き下がれん」
静かに、しかし確固たる声音だった。
「ワシは老いぼれで、動けはせん。だが――この国を、もう一度まともな姿に戻したい。それが、ワシの願いだ」
再び、沈黙が訪れる。
それは先ほどとは違う、重く、深い沈黙だった。
脳裏に蘇るのは、これまでの屈辱。
理不尽に社会から切り離され、罵倒され、時には暴力を受けた。
だが、これまでは抗う術はなかった。ただ、耐えるしかなかった。
生きる喜びも、楽しみも失ったまま、十年という時間が過ぎていった。
終わりの見えない暗闇。その中に、いま、かすかな光が差し込んでいる。
その沈黙を破ったのは、駿河だった。
「昨日、楽しかっただろ?」
静かに、美緒へ問いかける。
「うん……」
美緒は小さく頷き、かすかに微笑んだ。
「でも、このままじゃ、それもいつまで続くかわからない。ある日、突然終わる」
脳裏に、燃え上がる居酒屋ゆうちゃんの光景がよぎる。
「遊ぶために働く。そう教わったんだろ」
「えっ……」
真っ直ぐな視線を向けられ、美緒の胸がわずかに高鳴る。
「だったら――やってやろうじゃないか」
駿河の声が、はっきりと響いた。
「この世界をひっくり返して、目にもの見せてやろう」
言葉は短いが、強かった。
その場にいた全員が、顔を見合わせる。
「……そうですね。やってやりましょう」
ダニエルの一言をきっかけに、空気が変わった。
それぞれの中で、何かが定まった。
―――こうして、今後の活動についての作戦会議が始まった。
「そういえば、甲斐は?」
駿河がふと首を傾げる。
この場にいるべき人間の姿がない。
「朝方に出ていかれましたよ」
和奏が答えた。
「ゲームを数時間やっていないから禁断症状が出たとかで、一旦家に帰るって……最近ハマってるオンラインゲームがあるらしくて」
「なんだその間抜けな理由は……」
駿河は呆れて息を吐く。
「アイツも指名手配なんだぞ。普通に歩いてたら捕まるだろうが」
和奏も肩をすくめる。
「相変わらずですね」
その日、彼らは一日をかけて今後の策を練り続けた。
だが――その日のうちに、甲斐が戻ってくることはなかった。
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