—4—「美緒の特技」
「かつての日本人には、真面目さのほかにも、誠実さと思いやりがありました。そこにこそ、日本の――いや、日本人の素晴らしさがあるのだと、私は思っています。だからこそ、それを取り戻したい。その一心で、私は飯島教に入信したのです」
そう語るダニエルの視線は、どこか遠くへと向けられていた。過去に置き去りにされた幸福を、静かに追いかけているかのようだった。
「その通りだよな」
園島もまた、胸の内に去来するものがあるのか、深く頷いた。
「すみません。いつの間にか、暗い話になってしまって……」
ダニエルはわずかに目を伏せる。その目元が、ほんの少しだけ潤んでいるように見えた。
だが、言葉はそこで途切れなかった。
「ですから……今日の成功は、私にとっても一つの希望なのです。もしかしたら、妻も……以前のように、思いやりのある女性に戻ってくれるのではないかと……」
その声には、確かな願いが滲んでいた。
――そして、これは後の話である。
数年の時が流れたのち、ダニエルはかつて日本に心を惹かれるきっかけとなった、あの旅館を再び訪れていた。
そこで、かつて彼の財布を探し出してくれた仲居と再会する。幾度かの宿泊を重ねるうちに、二人の距離は次第に縮まり、やがて恋仲となった。
結婚を機に、ダニエルは念願であった日本国籍を取得する。妻はその旅館の跡取りであり、いずれは女将となる身だったこともあり、彼は心機一転、建設の仕事を辞し、その旅館で働くことを選んだ。
経営者である妻の父は、異国から来た彼を温かく迎え入れた。接客の心得から日々の雑務に至るまで、根気よく、そして親身に教え導いてくれた。
穏やかで、満ち足りた日々だった。
だが――転職して一年も経たぬうちに、気病が日本を覆い尽くした。
その影響は、容赦なく彼の周囲にも及ぶ。
妻の態度が変わり、主人の言葉が冷え、従業員たちの視線から温もりが消えていく。
やがて、ダニエルは居場所を失った。
追い出されるようにして、旅館を後にした。行き場もなく、ただ路頭に迷う日々が続いた。
それでも――かつて働いていた建設会社が、彼を再び受け入れた。
そうして、今に至るのである。
「ダニエルさん! ダニエルさん! ちょっと甲斐さん止めて下さい!」
和奏が切羽詰まった声を張り上げた。
視線を向けると、甲斐がすっかり出来上がってしまい、パンツ一丁で踊り回っていた。手足を大きく振り、妙にキレのある動きで場をかき乱していた。
呼ばれたダニエルは「はい」と律儀に返事をし、駿河と園島に軽く頭を下げると、そのまま甲斐のもとへ駆け寄っていく。
「なにをやってんだか……あいつは」
園島が呆れたように呟いた。
場が一瞬だけ落ち着く。
その隙を逃さず、駿河は姿勢を正した。以前から胸に引っかかっていたことを、どうしても聞いておきたかった。
「園島さん……あのあと、どうなりましたか?」
“あのあと”――言うまでもなく、居酒屋ゆうちゃんの放火事件のことだ。
園島は一瞬だけ目を細め、それから自嘲気味に笑った。
「まぁな。保険があったおかげで、借金背負わずには済んだが……さすがに新しく店を構える余裕まではなくてな」
肩を軽くすくめる。
「ま、調理師免許があったのが救いだな。なんとか再就職はできたが……毎日、作りたくもねぇ不味いもんを作ってるよ」
わざとらしくぼやくように言うが、その声の奥には、拭いきれない何かが滲んでいた。
駿河は一歩踏み出し、深く頭を下げる。
「本当に、申し訳ありませんでした。あの日、僕が全平教の連中に怒鳴ったせいで……あんなことに」
言葉の最後がわずかに震える。
しばし、沈黙が落ちた。周囲の喧騒が、遠くに引いていくように感じられる。
「湿気た面すんなって」
次の瞬間、園島の手が駿河の背中を力強く叩いた。
乾いた音が、やけに大きく響いた。
「悪いのは全平教の連中だ。駿河くんは、なにも悪くねぇよ」
そう言って、にやりと笑う。
「それに、あいつらが店に来た時点で、どっちにしろ昔みてぇな営業はできなかっただろうしな」
軽口のように言うが、それが強がりであることは、誰よりも駿河自身が分かっていた。
それでも、その言葉は確かに救いだった。胸の奥に溜まっていた重たいものが、ほんの少しだけ軽くなる。駿河はゆっくりと顔を上げ、小さく「ありがとうございます」と呟いた。
「あら~あなた、凄い食べっぷりじゃない!」
園島と雑談をしていた駿河は、ふと人だかりに気づいた。視線の先では、美緒を中心に小さな輪ができている。二人もその中へ加わった。
美緒は山のように盛られた焼きそばを頬張っていた。両頬をふくらませ、夢中で箸を動かしている。その細い身体からは想像もつかない勢いだった。
その様子に、大島が興奮した声を上げる。
「凄いのよ、この子。もうこれで五杯目」
通りがかった夏川と清水も、思わず足を止めて声を上げた。
その言葉に、美緒の手がぴたりと止まった。もぐもぐと慌てて飲み込み、視線だけをそっと周囲に向ける。頬がほんのり赤い。
「あ、あの……こんなに、あたしばっかり食べてていいんでしょうか……?」
遠慮がちに言うものの、皿の上から目が離れていない。
「いいのよ、いいのよ。好きなだけ食べなさい」
大島が楽しそうに言いながら、美緒の皿に料理を次々と載せていく。焼きそばの上にソーセージ、さらに唐揚げまで積まれていく。
美緒は一瞬だけ困ったように眉を寄せるが、やがて小さく頷くと、再び箸を伸ばした。
一口、ぱくりと頬張る。
その瞬間、表情がふっと緩む。目をわずかに細めて、嬉しそうに咀嚼する。その無防備な顔は、普段の堅物な印象とはまるで違っていた。
「美緒さん、昔フードファイターだったらしいですよ」
ダニエルがこっそり耳打ちする。
「当時は現役女子高生で、結構有名だったそうです」
駿河はもう一度、美緒を見た。
夢中で食べ続けるその姿に、妙に納得する。頬をふくらませ、無心で箸を動かしている様子は、普段の彼女とはまるで違って見えた。
気づけば、さっきよりも長く目で追っている。視線を外そうとして、少しだけ遅れた。
それからも宴は勢いを増していった。
美緒が大食いを披露すれば歓声が上がり、大島は新作の衣装を着て回りながら場を沸かせる。
夏川は毒舌で笑いを取り、甲斐は熱くゲームを語り出す。
収拾のつかない賑やかさだった。
高山が機転を利かせ、昔のコメディ映画を流すと、劇場には爆笑が広がった。誰かが笑えばまた別の誰かが笑い、声が重なっていく。
飲んで、食べて、騒いで、また笑う。
それだけの時間が、どうしようもなく楽しかった。
気づけば夜は更けていたが、宴は終わる気配を見せない。そのまま朝まで続いていくのだった。




