—3—「ダニエルの過去」
張り詰めていた緊張がほどけ、美緒は小さく息を吐いた。
その様子を見て、駿河が声をかける。
「お疲れ。なかなか良い演説だったよ」
「もう懲り懲り。次は駿河くんがやってよね」
「いや、こういうのは伝統にしていくべきだ」
「なによそれ」
二人は顔を見合わせて笑い、そのまま壇を下りて歓談の輪に加わった。
美緒にとって、この夜は人生で初めての酒だった。
対する駿河は、つい三ヶ月前に飲み始めたばかりだというのに、妙に先輩風を吹かせて、覚えたての薄い知識をそれらしく語ってみせる。
やがて酒が回り始めると、場の熱はさらに高まった。
甲斐は相変わらず大袈裟な身振りで騒ぎ立て、その向かいでは和奏と清水が腹を抱えて笑っている。笑い声が幾重にも重なり、宴はますます賑やかさを増していった。
「あらあら、美緒ちゃん。ちゃんと飲んでる? ほら、やせっぽっちなんだから食べなきゃダメよ。ほれほれほれ」
会話の途中に、大島が割って入ってきた。
美緒の皿が空なのを見つけるや否や、料理を山のように抱えて戻ってきて、次々と皿の上に載せていった。
押しの強さにやや気圧されながらも「えっ、あっ……はい。ありがとうございます」と、美緒は慌てて箸を取る。
「あら、あなた地味な格好ね。若いんだから、もっとお洒落しなきゃダメよ」
「? そうなんですか。結構、気を使っているつもりなんですけど……」
美緒は、不真面目病であることを隠していない。
そのため、生真面目病が好む無地で統一された衣服ではなく、自由な服装を選んでいる。
足元まで届くロングスカートは、くすんだ色合いの落ち着いたもので、動きやすさを重視した、装飾の少ないシンプルな作りだ。
上に合わせているのは、やわらかなクリーム色のTシャツ。生地は少しだけ余裕のあるサイズ感で、身体の線を主張しすぎない。
そして、その胸元には——小さなキャラクターが、さりげなくプリントされていた。
丸みを帯びた、どこか懐かしさを感じさせる意匠。主張は強くないが、よく見れば確かに“遊び”がある。
だが、元来まじめな気質の彼女の装いは、奇抜さとは無縁で、静かで慎ましいものに落ち着く。そのため、全体としてはどこか地味な印象を帯びていた。
それが、大島の目には物足りなく映ったのだ。
「ほら、あなた顔立ちがちょっと古風でしょう? あら、悪い意味じゃないのよ。落ち着いてるって意味。だからこそ、もっと明るい色を使った方がいいの。アクセントを効かせて、アクセサリーなんかもつけてさ」
大島は楽しげに語るが、その提案はどこか現実離れしている。
そもそも彼女の言うような派手な衣服や装飾は、いまの社会ではほとんど流通していない。実際、美緒が身に着けている服も、十年前に購入したものを大切に使い続けているのだった。
美緒が大島に目を付けられ、すっかり餌食になっているのを横目に、駿河はその場をそっと離れた。まるで難を逃れるように、さりげなく距離を取る。
視線を巡らせると、ダニエルと園島が向かい合って話し込んでいるのが目に入った。
駿河はその輪に近づき、自然と会話に加わる。
どうやら二人は、共通の趣味を見つけたらしく、落ち着いた調子で、しかし確かな熱を帯びて言葉を交わしている。
「私も武道の心得には共感しましてね。昔、空手を習っていました」
「ほう、それは奇遇だな。俺は高校の頃、柔道部でしてね——」
すっかり打ち解け、互いの経験をなぞるように続いていく。
やがて話題は、かつての日本を懐かしむ方向へと移り変わった。
価値観や気風を語るその声音には、どこか遠いものを慈しむような響きがある。
その流れの中で、駿河はふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、ダニエルさんは、どうして来日したんですか?」
問いかけは何気ないものだった。だが、その場の空気が、わずかに静まる。
ダニエルはすぐには答えなかった。手にしていた缶を軽く見つめ、それから小さく息を吐く。
「私の国は……貧しくてですね」
ゆっくりと顔を上げる。
「親を楽にさせたいと思い、技能実習生として来日したのが始まりでした」
その声音は穏やかだったが、どこか遠くを見ているようでもあった。
駿河は思わず言葉を飲み込む。
軽い気持ちで投げた問いが、思いのほか重みを帯びていたからだ。
——そして、ダニエルは語り始めた。
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ダニエルは、アフリカ南部に位置する小さな国の生まれだった。
兄弟は多く、日々の暮らしは常に綱渡りのようなものだった。明日の食べ物を確保するだけで精一杯——そんな生活の中で、彼は育った。
転機が訪れたのは、知人の紹介だった。
当時は先進国として知られていた日本へ、技能実習生として渡る機会を得たのだ。
建設会社に勤め、慣れない環境の中でも懸命に働いた。
決して高くはない給料の一部を切り詰め、母国へと仕送りを続ける日々。
その真面目な仕事ぶりと手際の良さ、そして誰とでも分け隔てなく接する姿勢が評価され、やがて「特定技能へ移行しないか」と声を掛けられた。
当初、彼は五年ほど働いて帰国するつもりでいた。
だが、日本に残るか、母国へ戻るか——その選択を前に、心は揺れていた。
そんなある日、職場の先輩から旅行に誘われた。
これまで彼の生活は仕事一色で、余った金はすべて仕送りに回していた。観光らしい観光など、ほとんど経験していない。
「いい機会だ」と思い、誘いに応じた。
行き先は箱根だった。
いくつかの施設を巡り、やがて宿泊先の旅館へと辿り着く。温泉に浸かり、湯の温もりに身を預ける。
そして、豪華な食事を前にして、言葉を失った。
それは、これまでの生活では触れることのなかった豊かさだった。
すべてが新鮮で、満たされた時間だった。
食事を終えた後、館内のゲームコーナーへと足を運ぶ。そこで財布を取り出そうとした瞬間——その存在がないことに気づいた。
先輩がこれまで支払いをしてくれていたため、財布を取り出す機会がほとんどなかったのだ。
どこで落としたのか、見当すらつかない。
胸の奥に、不安が広がる。
先輩に相談すると、すぐに仲居を呼び、落とし物が届いていないかを確認してくれた。
だが、該当するものは見つからない。
諦めかけたその時だった。
仲居は、静かに頭を下げて言った。
「少々お時間をいただけますか。館内を探してまいります」
申し訳なさから、ダニエルは思わず断ろうとする。
「ですが……財布を無くしたのは、僕の不注意ですので……」
それでも仲居は首を横に振った。
「今日は平日で、それほど忙しくはございません。どうぞお気になさらず」
柔らかな声だった。
そして、少しだけ汗ばんだ額を拭いながら、再び言葉を続ける。
「わたしも、同じ経験がございます。財布が見つからない時、とても不安になりますよね。お客様には、できる限り、安心して楽しい時間をお過ごしいただきたいのです」
その言葉には、押しつけがましさがなかった。
ただ、目の前の人の不安を取り除こうとする、まっすぐな意志があった。
やがて館内を探し終えても見つからないと分かると、仲居はさらに行動を広げた。
旅館へ来る前に立ち寄った施設へと、ひとつひとつ連絡を入れていく。
そして——ある土産物屋で、財布が保管されていることが判明した。
「良かったですね。これで安心してお休みになれますね」
まるで自分のことのように微笑むその姿に、ダニエルは言葉を失った。
その夜、礼を述べて床に就いた。
翌日、財布を受け取りに向かった彼は、さらに驚くことになる。
中身は——一円たりとも減っていなかった。
それは、彼の知る世界では考えられないことだった。
他者のものに手を付けない。
見知らぬ誰かのために動く。
その誠実さと心遣いに触れたとき、胸の奥に静かな熱が灯る。
この国は、ただ豊かなだけではない。
——人が、優しいのだ。
その出来事を境に、ダニエルは日本という国に強い関心を抱くようになった。
文化を学び、言葉を覚え、理解しようと努める。
やがて彼は、ここにもっと長く留まりたいと願うようになる。
仕事にも一層力を入れ、ついには特定技能の資格を取得した。
そして——彼は、日本で生きていくことを、静かに決意しはじめた。
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