—3—
駿河は美緒の不安を強引に押し切り、合図を送った。
それと同時に、握りしめていた物を絵画へと投げつける。
無数の結晶が、空中で弾けるように散った。黒い粒子が白い粉を纏い、光をかすかに反射しながらゆっくりと広がっていく。
そして、それらが絵画に触れた瞬間――
貼り付いていたモザイクが、内側から崩れるようにひび割れ、細かな破片となって静かに剥がれ落ちていく。
塗り潰されていた顔が、輪郭を取り戻す。埋もれていた色が滲むように戻り、やがて隠されていた表情が浮かび上がる。
そこにあったのは――歪められていない、人々の自然な笑みだった。
男性と女性の間を遮っていた木板が、音もなく消える。
距離が戻り、女性の頬には、わずかな赤みが差していた。
犬を見つめる少女の表情も、柔らかくほどける。
優しげに細められた目が、そのままの感情を伝えていた。
――そして、花瓶に活けられたひまわり。
くすんでいた色が一瞬でほどけ、鮮やかな黄が光を受けて弾ける。
花びらは太陽を思わせるほどに強く、静かに、しかし確かに――美しく咲き誇っていた。
駿河がぶち撒けた結晶は、駿河自身の髪である。神の力が刻まれた髪を細かく刻み、飛散しやすいよう小麦粉と混ぜたものだ。
それを絵画に触れさせることで、効果を発揮させている。
甲斐もダニエルも同じように髪をぶち撒ける。
一拍遅れて、美緒もまた、手に握った髪を絵画へと投げつけた。
――美術館内で、同時多発的にモザイクが消えていく。
駿河は目の前の絵画を解放すると、すぐさま隣へ移動し、再び髪をぶち撒ける。それを断続的に繰り返した。
異変に気づいた監視員が、すぐに制止に入る。
だが駿河はそれを押しのけるようにして走り抜け、逃げながらひたすらモザイクや加筆修正を剥ぎ取り、絵画を“あるべき姿”へと戻していく。
それは他の三人も同様だった。それぞれが出口へと向かいながら、髪をぶち撒けていく。
監視員たちは血眼になって駿河を止めに入ったが、迫りくる手を身を翻してどうにかかわす。
しかし、あまりにも数が多い。
やがて――駿河は、無数の監視員に囲まれてしまった。
「くっそ」
万事休すかと思われたが――ここに来て、ようやくその効果が現れ始めた。
制止していた監視員の動きが、わずかに鈍り、一人、また一人と、足を止める者が出始めた。
その視線は、駿河ではない。
――絵画だ。
「綺麗…」
騒然とした空気の中、モザイクが剥がれた絵画を見つめたまま、監視員の一人がぽつりと呟いた。
その声は、場違いなほどに静かだった。
次の瞬間、空気がわずかに緩み、包囲の輪に、綻びが生まれた。
駿河はその隙間へ、躊躇なく身体をねじ込む。
肩がぶつかり、腕を掴まれかけるが、強引に振り払い、そのまま前へと突き抜けた。
――抜けた。
だが、その直後だった。
イヤホンから、鋭い悲鳴が突き刺さる。
「ごめんなさい。ごめんなさい。近づかないで、やめて――」
美緒の声だった。
彼女は群がる監視員に捕まり、完全に身動きが取れなくなっていた。
複数の手に押さえつけられ、逃げ場を失っている光景が、頭に浮かんだ。
駿河は中央館まで駆け抜けると、そこで、甲斐と鉢合わせた。
「今の声って」
「多分、美緒だ。上手く行かなかったんだ」
短いやり取り。
しかし、状況の共有は、それだけで十分だった。
背後から足音が迫る。
ゆっくり話している時間など、ない。
今回の作戦――絵画のモザイクを消すことで、生病を克服させる。
その効果は確かにあった。
だが、それはほんの一部。大半は、何も変わらない。
つまり――状況は、まだ敵側にある。
駿河と甲斐は、互いに一瞬だけ視線を交わした。言葉はいらない。
――行くぞ。
同時に頷き、階段へと向かう。
中央館は、不気味なほどに静まり返っていた。
さっきまでの喧騒が嘘のように、人の気配がない。
その理由は単純だ。
生病は、単細胞の塊。先回りして待ち伏せするような知恵はない。
ただ、騒ぎのある場所へと引き寄せられるだけだ。
――まるで、光に群がる虫のように。
だからこそ。
今、ここは“空白地帯”になっている。
駿河と甲斐は、スピードを緩めないまま西館へと駆けた。
――美緒がいるであろう方角だ。
中央館を抜け、扉を押し開けるようにして西館へと飛び込む。
その瞬間――正面から、人影が突っ込んできた。
ダニエルだ。
その腕には、美緒が抱えられている。
美緒は抱えられたまま顔を真っ赤にし、両手でそれを覆っていた。羞恥と混乱に呑まれ、周囲をまともに見る余裕すらないのだろう。
「絵に髪を投げて下さい!」
ダニエルが鋭く叫ぶ。
息一つ乱していない声だったが、その一言には明確な意図があった。
――追手を削る。
四人はそのまま合流し、足並みを揃えることなく、走りながらそれぞれの役割を果たす。
駿河は壁際の絵画へ、甲斐は進行方向の展示へ、ダニエルは空いた手で次々と髪を投げつける。
黒い粒子が散り、白い粉が舞う。
触れた箇所からモザイクが崩れ、視線を奪われた監視員の数人が鈍る。
背後で足音が減る。
だが、全員が止まるわけではない。
――まだ足りていない。
しかし、確実に“道”は開けていく。
駿河と甲斐が引き連れてきた監視員さえ振り切ってしまえば、あとは空白地帯だ。
四人は速度を落とさず、そのまま階段へと飛び込む。
段差を二段飛ばしで駆け下りる。足音が館内に反響し、追手の気配だけが背後にまとわりつく。
視界の先に、セキュリティーゲート。
一瞬の躊躇もなく――飛び越える。
次の瞬間、ゲートに衝撃が走り、金属が悲鳴を上げるように歪んだ。支柱が弾け、固定されていた部品が外れ、無残に破壊される。
直後――甲高い警報音が、美術館全体に響き渡った。
けたたましいサイレンが空気を震わせ、逃げ場を失った音が執拗に追いかけてくる。
そして、重く閉ざされている扉を開けると、外気が一気に流れ込んだ。
熱気と光が、四人を包み込む。
――脱出成功だ。
「もう大丈夫。ダニエル、下ろして」
「ですが…」
「あたし、足は結構速いの。だからお願い」
「わかりました」
ダニエルは抱えていた美緒を地面に下ろした。
――しかし、追手は、まだ来ている。
「分かれよう」
駿河の提案に、それぞれが小さく頷いた。
次の瞬間、四人は別方向へと駆け出す。
「本部に集合しよう!」
別れ際、美緒の声が背後から響いた。
駿河は駅の方角へと向かう。
改札前まで来ると、多くの人々でごった返していた。
――しめた。
駿河はそのまま人混みに突っ込む。
肩をぶつけ、身体をねじ込みながら、強引に隙間をこじ開けて進む。
同じように追手も突っ込んできたが、動きは鈍い。
人の流れに阻まれ、団子状に詰まり、思うように前へ進めない。その間に駿河は人波をかき分け、改札を抜ける。
そのままホームへと駆け上がると、発車ベルが鳴り響いていた。
駿河は勢いのまま、滑り込む。
背後では、追手たちが顔を歪ませながら迫ってきている。
――しかし、そのとき、彼らにとって、予期せぬ事態が起こった。
「危ない滑り込みはお止めください」
駅員のアナウンスが、構内に響く。
その瞬間――追手たちの足が、ぴたりと止まった。
いや、止まらされたと言うべきか。
彼らはルールを絶対とし、それに従うことしかできない。融通が利かないのだ。
だからこそ――この場で「走る」という選択肢は、存在しない。
走れば間に合う。だが、走れない。
そうこうしているうちに――電車の扉が、静かに閉まった。
無機質な音を立てて、外界を遮断する。
――振り切った。
駿河はその場で大きく息を吐く。
張り詰めていた緊張が、一気にほどけていく。
そして――作戦が成功したという実感を、静かに噛みしめた。
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