戸
朝、パーヴェルは小銃を村の評議会へ返した。
昼前には、また赤い兵たちと出ていった。
ステパンは何も言わなかった。
言えば昨日と同じ喧嘩になる。家族を守るには、言い返すより、黙って弟の残した分まで麦を運ぶ方がましだった。
代わりに、弟が残した分まで麦を運んだ。
ミハイルの牝馬はまだ脚をかばっていた。だから重い荷は載せず、ステパンが荷車の後ろから押した。
昼を少し過ぎたころ、村の西側で犬が一斉に吠え始めた。
吠え声は一匹ずつではなかった。村じゅうの犬が、同じものを見て、同じ方向へ牙をむいていた。低い唸りが地面を這い、次々に重なって、胸の奥まで震わせた。
ステパンは荷車から手を離した。
掌に食い込んでいた綱の跡が赤く残っていた。指がうまく伸びない。
道の向こうに馬が見えた。
六騎。
赤い布は見えない。
「またか」
ミハイルが隣で言った。
牝馬の手綱を取っていた手が、わずかに震えていた。
ステパンは人数を数えた。
六人。
昨日までなら、最初に馬を見るところだった。
今日は人の手を見た。
全員が銃を持っている。
銃口が揺れるたび、ステパンの喉が勝手に狭くなった。
「白か?」
ミハイルが聞いた。
「分からん」
「赤じゃないのは分かる」
騎兵たちは村へ入った。
蹄が凍った道を叩き、乾いた音が家々の壁に跳ね返った。馬の鼻息と革具の軋みが、犬の吠え声の隙間から近づいてくる。
三日前に馬を集めた隊より、ばらばらだった。
軍服の色も揃っていない。帽子も違う。馬の一頭は鞍の片側が切れた革紐で縛られていた。
統制のない姿だった。だからこそ、どこへ向かうか分からなかった。
先頭の男が井戸の前で止まり、村人に水を出させた。
別の二人はそのまま家へ向かった。
「何してる」
ミハイルが言った。
兵の一人が、道端に干してあった男物の上着を取った。
持ち主の女が何か言った。
兵は上着を丸め、鞍へ括りつけた。
もう一人は家の中へ入っていく。
戸が閉まる音がした。
その音だけが、犬の声よりはっきり聞こえた。
「帰るぞ」
ステパンが言った。
「荷車は?」
「置け」
「牝馬は?」
「連れていく」
「また取られるぞ」
ステパンは答えなかった。言い争っている間に家へ向かわれば、守れるものまで失う。
二人は急いだ。
ステパンの靴底が土を蹴るたび、足が自分のものではないように軽く滑った。背中に、犬の吠え声と、どこかで上がった短い叫び声が追ってきた。
家へ着くと、ダーリヤは庭で豆を選っていた。
ステパンは門を閉めた。
木の閂が溝に落ちる音がした。薄い板一枚で、銃を持った男たちを止められるとは思えなかった。
「中へ入れ」
ダーリヤが顔を上げる。
「何が来たの」
「兵隊だ」
「赤?」
「違う」
それだけで十分だった。
ダーリヤは豆の入った籠をその場に置いた。
「コーリャ!」
家の裏から返事がした。
「アンナを連れてきて」
ステパンは納屋へ行った。
何を隠すか考えた。
麦。
干した肉。
冬用の靴。
毛布。
全部は無理だった。
麦袋を二つ、空の飼料箱の後ろへ押し込んだ。
袋が木に擦れ、乾いた音を立てた。
ステパンは息を止め、外を見た。
犬の声が一瞬遠のいた気がした。耳の奥で自分の脈だけが、どく、どくと鳴っていた。
まだ誰も来ていない。
ダーリヤが来た。
「何人?」
「六」
「村に?」
「今見えたのは六」
ダーリヤは家へ戻り、寝台の下から冬用の長靴を出した。
「それをどこへ」
「竈の裏」
「見つかる」
「納屋よりまし」
「毛布は?」
「一枚だけ出しておく」
ステパンはダーリヤを見た。
「お前とアンナは裏へ行け」
「どこへ」
「どこでもいい。見えないところだ」
ダーリヤの手が止まった。
二人とも、その意味を口にしなかった。
「コーリャも連れていく」
「そうしろ」
「あなたは?」
「ここにいる」
「何で」
「家を空にしたら全部持っていかれる」
ステパンは、家族を隠すことも、自分が残ることも、どちらも怖かった。それでも誰かがここにいなければ、兵は家の中を好きにする。
喉が乾き、舌が上顎に張りついていた。逃げろと言いたいのに、声にすれば自分の足まで崩れそうだった。
ダーリヤは少し考えた。
「全部より、あんたの方が高いよ」
「値段の話か」
「今はそういう話」
いつものダーリヤだった。
だが声が少し速かった。
外で女の叫び声がした。
二人とも動きを止めた。
一度。
短く。
それから男の怒鳴り声。
何かが倒れる音。
木が割れ、金属が床を打つ音が続いた。
ステパンは戸口へ出た。
道の向こう、三軒先で男が地面に倒れていた。
フェドートだった。
兵が背中を蹴った。
別の兵が家の中へ入る。
フェドートが起き上がろうとした。
銃床で殴られ、また倒れた。
ステパンの膝が一瞬、前へ出かけた。
だが足はそこで止まった。胸の中で心臓が跳ね、手のひらが冷たく濡れた。
「ステパン」
ダーリヤが後ろから呼んだ。
彼は見ていた。
フェドートの家には若い妻がいる。
リューバ。
去年結婚したばかりだった。
家の中から、何かが割れる音がした。
「行け」
ステパンが言った。
ダーリヤはもう何も聞かなかった。
コーリャの腕をつかみ、アンナを抱いた。
裏口から出ていく。
ステパンは戸を閉めた。
閉めてから気づいた。
鍵を掛けても意味がない。
銃を持った男が蹴れば、こんな戸は壊れる。
納屋を見る。
鎌。
斧。
鍬。
どれも、相手が銃を持っていなければ役に立つ。
道で馬の蹄が止まった。
ステパンは家の前へ出た。
二人来ていた。
一人は若く、もう一人は髭の濃い男だった。
「食い物」
髭の男が言った。
「ない」
男は納屋を見た。
「農家に食い物がないのか」
「四日前に持っていかれた」
「誰に」
「赤だ」
若い兵が笑った。
「じゃあ俺たちの分は残ってるな」
「ない」
男が馬から降りた。
鐙から靴を抜く音が、妙にはっきり聞こえた。
ステパンの前まで来る。
「靴」
「何だ」
男はステパンの足を見た。
「それ、脱げ」
ステパンも自分の足を見た。
まだ夏だったが、畑仕事用の革靴を履いている。
「裸足で畑へ行けって?」
「好きにしろ」
「嫌だ」
男の顔が変わった。
ステパンはすぐ後悔した。
だが言葉は戻らない。家族の前で屈したくない気持ちと、逆らえば家の中まで荒らされる恐怖が、同時に胸を締めた。
若い兵が馬上から言った。
「やめとけ。別の家にある」
髭の男はしばらくステパンを見ていた。
その視線が顔から胸、腰、足へゆっくり下りてくる。ステパンは動けなかった。逃げれば背中を撃たれる。立っていれば、何を奪われるか分からない。
それから肩を押した。
「中を見る」
「何もない」
「なら見ても困らん」
ステパンは戸の前に立った。
男も止まった。
「どけ」
「妻が寝てる」
嘘だった。
男の口元が動いた。
「妻?」
ステパンの腹の奥が冷えた。
男が戸へ手を伸ばした。
ステパンはその手首をつかんだ。
考えてからではなかった。
次の瞬間、頬に衝撃が来た。
地面が横へ動いた。
自分が倒れたと分かるまで少しかかった。
口の中に血の味がした。
耳の中で高い音が鳴り、周囲の声が遠のいた。頬の熱さより先に、指先の感覚が消えていく。
兵はステパンを見下ろした。
銃床を使わなかった。
拳だけだった。
「もう一回触ったら撃つ」
戸を開ける。
ステパンは起き上がった。
膝が震え、片手を地面につかなければ立てなかった。兵が家へ入る。
若い兵も馬から降りた。
二人で中を探した。
寝台の下。
棚。
竈の横。
箱。
一人が毛布を見つけた。
「これでいい」
もう一人はパンを二つ見つけた。
ダーリヤが朝焼いたものだった。
袋に入れる。
「女は?」
若い方が聞いた。
ステパンは口の血を袖で拭った。
「母親の家だ」
「どこ」
「向こうの村」
「いつ戻る」
「知らん」
若い兵は少し笑った。
「お前、妻の帰る日も知らんのか」
「知らん」
兵は家の中をもう一度見た。
ステパンは、竈の裏に隠した長靴と、納屋の麦袋の位置を思い浮かべた。
若い兵の視線が竈へ向いた。
一歩、近づく。
ステパンの背中に冷たい汗が流れた。止めなければならない。だが声を出せば、今度こそ何かが壊れる。
その時、外で馬がいなないた。
髭の男が舌打ちした。
「もう行くぞ」
若い兵は竈から目を離した。
毛布とパンを持って出た。
門のところで、髭の男が振り返った。
「靴、隠しとけ。次の奴は持っていくぞ」
冗談なのか分からなかった。
二人は次の家へ向かった。
ステパンはしばらく立っていた。
追いかける気にはならなかった。
足が震えていた。
怒りなのか、怖さなのか、自分でも分からない。
膝の力が抜け、戸口に手をついた。指の間に木のささくれが刺さったが、抜くこともできなかった。
三軒先から、また声がした。
今度は女の声ではなかった。
フェドートが泣いていた。
兵たちが村を出たのは、それから一時間ほどしてからだった。
牛を一頭連れていった。
荷車も一台。
いくつかの家から靴や上着、毛布、食べ物を持ち出していた。
誰も追わなかった。
馬の音が消えてから、村人が家から出てきた。
ダーリヤも戻った。
アンナを抱き、コーリャの手を握っている。
ステパンの顔を見る。
「殴られたの」
「一発だけだ」
「歯は?」
ステパンは舌で確かめた。
「ある」
ダーリヤはうなずいた。
それからフェドートの家を見た。
女たちが何人か集まっていた。
ダーリヤはアンナをステパンへ渡した。
「行ってくる」
「何しに」
「必要だから」
「何が」
ダーリヤは答えなかった。
家へ入り、古いスカートと布、水の入った桶を持って出た。
ステパンはそこで分かった。
「ダーリヤ」
彼女は振り返らなかった。
フェドートは家の外に座っていた。
顔が腫れている。
両手で頭を抱えていた。
ステパンが近づくと、フェドートは顔を上げた。
何か言おうとした。
声にならなかった。
ステパンも何も言えなかった。
家の中から、女たちの低い声が聞こえた。
リューバの声は聞こえなかった。
ミハイルが後ろから来た。
唇を切っていた。
「お前もやられたか」
「一発」
「俺は二発だ。俺の勝ちだな」
「馬鹿か」
「そうかもしれん」
ミハイルは笑わなかった。
二人でフェドートの家を見た。
しばらくしてミハイルが言った。
「銃、持ってる家がある」
ステパンは横を見る。
「何?」
「村に何挺かある」
「何で知ってる」
「知ってるから知ってる」
「誰が持ってる」
「言うわけないだろ」
「今言っただろ」
「あるって言っただけだ」
ステパンはミハイルの胸ぐらをつかみそうになった。
指が宙で固まった。
やめた。
「今日、使えばよかっただろ」
ミハイルの目が細くなった。
「六人撃って、それで終わると思うか」
「じゃあ何のための銃だ」
「次に十人、二十人来た時、村ごと焼かれないために隠してるんだよ」
「それじゃ何も守れん」
「撃っても守れん時がある」
ステパンはフェドートを見た。
その言葉が腹立たしかった。
正しいかもしれないから、余計に腹が立った。
夕方になって、パーヴェルが戻ってきた。
村へ入る前から様子がおかしいことに気づいた。
荷車が一台なくなっている。
牛のいた柵が空いている。
道に血が落ちている。
家へ走ってきた。
「兄貴」
ステパンは納屋の前にいた。
「何があった」
「白の兵が来た」
パーヴェルの顔色が変わった。
「何人」
「六」
「いつ」
「昼」
「怪我は?」
「俺はこれだけだ」
頬を指した。
パーヴェルは家を見た。
「ダーリヤたちは」
「無事だ」
パーヴェルが息を吐いた。
「他は?」
ステパンは答えなかった。
その沈黙で、弟の顔が固くなった。
「誰」
「フェドートの家だ」
パーヴェルはそちらへ行こうとした。
ステパンが腕をつかんだ。
「今は行くな」
「何された」
「行くな」
パーヴェルは兄の手を振りほどかなかった。
「兄貴」
ステパンは言った。
「明日も赤と行くのか」
「行く」
今度は迷わなかった。
「そうか」
パーヴェルが兄を見る。
いつもなら、そこで喧嘩になる。
今日は違った。
ステパンの視線が、パーヴェルの肩へ落ちた。
小銃があった。
朝、返したものとは別の銃だった。
「それは」
「今日から借りろって」
「弾は」
パーヴェルが目を上げた。
「え?」
「弾は何発ある」
弟はしばらく兄を見た。
「十五」
「全部持ってるのか」
「うん」
ステパンは家の戸を開けた。
「中に置け」
パーヴェルは動かなかった。
「昨日は外に置けって言っただろ」
「昨日は昨日だ」
「兄貴」
「早くしろ」
ステパンは、銃を持つことが家族を危険にさらすと思っていた。だが、銃を持たないままでは、守るために差し出せるものが増えていくだけだった。怖さが消えたわけではない。ただ、沈黙や妥協だけでは足りないと、ようやく認めた。
パーヴェルは何も言わず、家へ入った。
ダーリヤが竈の前から振り返った。
弟の肩の銃を見る。
次にステパンを見る。
「中へ入れるの」
「ああ」
ダーリヤは少し黙った。
「子供に触らせないで」
「分かってる」
それだけだった。
夜、ステパンは戸締まりをした。
木の閂を掛ける。
何度押しても、昼の兵なら蹴破れる気がした。
外では風が納屋の板を叩いていた。
そのたびに、馬の蹄が戻ってきたように聞こえた。
家の隅には小銃が置いてある。
その横でパーヴェルが寝ていた。
ステパンは銃を見た。
銃身の黒い光が、暗がりの中で消えなかった。
昨日まで、家の中に入れるなと言っていた。
今夜は、自分で戸を閉め、その内側に銃を置いた。
怖さは消えない。それでも、もう銃を外へ戻すつもりはなかった。十五発で家族を守れる保証はない。だが、守るために手に取るものが必要だった。ステパンは眠らず、戸の向こうの気配を待った。




