銃
馬がいなくなってから三日目、ステパンは弟と二人で麦袋を運んでいた。
ミハイルから借りた牝馬は午前中だけ使った。腫れた脚をこれ以上悪くすれば、今度はミハイルの家まで馬を失う。
だから午後は人間が運ぶ。
パーヴェルが袋の端を持ち上げた。
「せーの」
「待て。そっちが低い」
「兄貴が持ち上げすぎなんだよ」
「お前が弱い」
「馬と比べるな」
二人で荷車へ載せた。
パーヴェルは腰を伸ばし、息を吐いた。
「これ、あと何袋だ」
「十七」
「聞かなきゃよかった」
「聞いたのはお前だ」
パーヴェルは笑いながら地面へ座った。
ステパンは座らなかった。
次の袋へ手を掛ける。
「少し休めよ」
「日が落ちる」
「兄貴が倒れたら、もっと遅れるぞ」
「倒れん」
「そういうところだぞ」
「何がだ」
「知らん」
またそれだった。
ステパンは弟を見た。
パーヴェルは笑っている。
三日前に白軍の騎兵へ食ってかかった男と、同じ顔には見えなかった。
遠くで犬が吠えた。
次に、道の方から馬の蹄の音がした。
ステパンとパーヴェルは同時に顔を上げた。
笑いが消えた。
畑の端を、騎馬の男が二人こちらへ向かってくる。
パーヴェルが立ち上がった。
「白か?」
「分からん」
ステパンは鎌を手に取った。
近づくにつれて、一人の帽子に赤い布が見えた。
パーヴェルが息を吐く。
「赤だ」
ステパンは鎌を戻さなかった。
「赤なら安心なのか」
パーヴェルは答えなかった。
二人の兵は畑の脇で馬を止めた。
「オルロフカの者か」
「そうだ」
ステパンが答えた。
「この辺りの道を知ってる男を探してる」
「何のためだ」
「白軍の騎兵が北へ抜けた。小さい隊がまだ近くに残っているらしい。街道を外れた道を知りたい」
ステパンは兵の後ろを見た。
少し離れたところに、さらに六人ほど待っている。
「村の誰かに聞け」
「だから聞いてる」
「俺たちは麦を運んでる」
兵は荷車を見た。
「見れば分かる」
その言い方が、三日前の騎兵と同じだった。
ステパンの顔が固くなった。
パーヴェルが横から聞いた。
「どこまで案内するんだ」
ステパンが振り向いた。
「おい」
兵はパーヴェルへ向いた。
「川沿いの森まででいい。そこから北へ抜ける細い道があるだろ」
「ある」
「パーヴェル」
兄の声が低くなった。
パーヴェルは聞こえなかったふりをした。
「その道なら知ってる。子供のころから使ってる」
「なら来てくれ」
「待て」
ステパンが二人の間へ入った。
「こいつは行かん」
兵が眉を上げた。
「本人に聞いてる」
「こいつはうちの働き手だ」
「兄貴」
「黙ってろ」
パーヴェルの顔から笑いが消えた。
「俺は子供じゃない」
「分かってる。だから麦を運べ」
「白軍がまた来たら、その麦ごと持っていかれるかもしれないだろ」
「来たらその時考える」
「三日前もそう言ってた」
ステパンが黙った。
パーヴェルは続けた。
「馬を取られてから考えて、何が戻った?」
言ってから、パーヴェル自身が少し後悔した顔をした。
ステパンは鎌の柄を握り直した。
「もう一度言ってみろ」
「兄貴」
「言え」
兵が二人を見比べていた。
パーヴェルは目をそらさなかった。
「俺は、次も取られるまで待つのは嫌だって言ってる」
ステパンの胸の奥で、三日前の手綱の感触が戻った。
自分で手を放した。
麦を守れなかった。
馬も守れなかった。
そこを弟に触られた。
「だから赤についていくのか」
「白を追い出すんだ」
「昨日、麦を持っていった連中だぞ」
「昨日じゃない。四日前だ」
「どっちでもいい」
「兄貴にはな」
パーヴェルの声が強くなった。
「俺にはよくない」
兵が口を挟んだ。
「行くのか、行かないのか」
「行く」
「行かん」
兄弟の声が重なった。
しばらく誰も話さなかった。
パーヴェルが先にステパンから目を外した。
「案内するだけだろ」
兵がうなずく。
「日が落ちる前には戻す」
ステパンは鼻で笑った。
「兵隊の“戻す”を信じろって?」
男は少し顔をしかめた。
「俺はお前の弟を徴兵しに来たんじゃない」
「同じだ」
「違う」
「連れていくなら同じだ」
今度はパーヴェルが言った。
「俺が行くんだよ」
その一言で、ステパンは黙った。
連れていかれるのではない。
パーヴェルが行く。
そこが、ステパンには一番気に入らなかった。
道の向こうからミハイルが来た。
牝馬を返しに来たのかと思ったが、こちらの赤軍兵を見ると足を止めた。
「何だ。また何か取るのか」
兵が睨む。
「道を聞いてるだけだ」
「道なら口で教えればいい」
パーヴェルが言った。
「俺が案内する」
ミハイルはパーヴェルを見た。
「何でお前が」
「白軍が近くに残ってるらしい」
「それで?」
「追い出す」
ミハイルは少し黙った。
「お前、三日前に馬を取られて頭まで持っていかれたのか」
「お前は何もしないのか」
「するさ」
「何を」
「次に来た奴から、隠せる物を先に隠す」
パーヴェルが呆れた顔をした。
「それでずっと逃げるのか」
「誰から?」
「白軍からだよ」
「赤が来たら?」
「またそれか」
「まただ。麦を持っていったのは誰だ」
パーヴェルは一歩近づいた。
「だからって白軍を放っておく理由にはならない」
「赤についていく理由にもならん」
二人の間にステパンが入った。
「やめろ」
ミハイルはパーヴェルを見たまま言った。
「お前が行きたいなら行け。俺は止めん」
「なら黙ってろ」
「ただ、帰ってきて“赤は違った”なんて言うなよ」
「何が言いたい」
「旗が違っても、腹が減れば人の物を取る。あいつらも人間だってことだ」
兵の顔色が変わった。
ステパンはミハイルの胸を押した。
「帰れ」
「何で俺が」
「今は帰れ」
ミハイルは兵を見て、それからステパンを見た。
「分かったよ」
数歩歩いてから、振り返る。
「パーヴェル」
「何だ」
「死ぬなよ。屋根直す人間が一人減る」
パーヴェルは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「それは兄貴の仕事だ」
「じゃあ死んでもいいか」
「よくない!」
パーヴェルが笑いながら怒鳴った。
ステパンは笑えなかった。
兵の一人が馬から降りた。
鞍に括りつけていた小銃を一本外す。
「持てるか」
パーヴェルの笑いが止まった。
差し出された銃を見る。
「案内だけじゃないのか」
「道で白に会ったら、案内人だけ丸腰にしておくわけにいかん」
ステパンがすぐに言った。
「要らん」
兵は彼を見なかった。
パーヴェルへ差し出している。
「使ったことは?」
「ない」
「撃ち方だけ教える」
パーヴェルはしばらく銃を見ていた。
さっきまでの勢いが少しだけ消えていた。
ステパンはそれを見逃さなかった。
「やめるなら今だぞ」
弟がこちらを見る。
そこには怖さがあった。
ステパンは、少し安心した。
怖いならやめる。
そう思った。
だがパーヴェルは銃を受け取った。
重さに腕が一度沈んだ。
「重いな」
兵が言った。
「人を殺す道具だからな」
パーヴェルは笑わなかった。
ステパンの安心は消えた。
家へ戻ると、ダーリヤはすぐ人数が一人足りないことに気づいた。
「パーヴェルは?」
ステパンは荷車から麦袋を下ろした。
「赤い兵と行った」
ダーリヤの手が止まる。
「どこへ」
「白軍を探しに」
「何しに?」
「道案内だ」
少し間を置いてから付け足した。
「銃も持っていった」
ダーリヤは何も言わなかった。
納屋の方を見る。
「今日の残りは?」
「俺がやる」
「一人で?」
「やる」
ダーリヤは夫の顔を見た。
「怒ってるの」
「怒ってない」
「そう」
それ以上聞かなかった。
二人で荷車から麦を下ろした。
コーリャも小さな束を抱えて手伝った。
日が傾いても、パーヴェルは戻らなかった。
ステパンは何度も街道を見た。
そのたびにダーリヤは何も言わず、次の仕事を渡した。
暗くなり始めたころ、犬が吠えた。
ステパンは手にしていた桶を置いた。
街道から人影が一つ歩いてくる。
「兄貴!」
パーヴェルだった。
ステパンは動かなかった。
弟は泥だらけだったが、怪我はない。
肩には、朝には持っていなかった小銃が残っていた。
「返さなかったのか」
最初に出た言葉がそれだった。
「明日の朝、村の評議会へ持っていけって」
「明日も行くのか」
パーヴェルはすぐには答えなかった。
その沈黙で十分だった。
「行くんだな」
「白軍の跡がまだ北にある。今日、森で馬の蹄の跡を見つけた」
「そんなこと聞いてない」
「兄貴」
「明日の麦はどうする」
パーヴェルは肩の銃を見た。
それから畑の方を見た。
「朝、運ぶの手伝う。それから行く」
ステパンは弟を見た。
朝まで畑にいてほしいのか。
銃を捨ててほしいのか。
赤軍についていくなと言いたいのか。
どれも同じ言葉にはならなかった。
パーヴェルが家へ入ろうとした。
ステパンはその背中へ言った。
「それ、家の中に持ち込むな」
パーヴェルが振り返る。
「なんで」
「子供がいる」
「弾は抜いてある」
「外に置け」
「盗まれたらどうする」
「なら抱いて寝ろ」
パーヴェルも腹を立てた。
「兄貴は何が気に入らないんだよ」
ステパンはすぐには答えなかった。
馬を取られたこと。
弟が自分の言うことを聞かないこと。
赤軍についていったこと。
銃を持って帰ってきたこと。
全部だった。
だが、そのどれでもない気もした。
「その銃を持ってるお前が気に入らん」
パーヴェルの顔から怒りが消えた。
兄弟はしばらく黙っていた。
やがてパーヴェルは銃を家の壁へ立てかけた。
雨の当たらない軒下だった。
「ここならいいか」
ステパンはうなずかなかった。
パーヴェルも返事を待たず、家へ入った。
夜になって、ステパンは外へ出た。
壁には小銃が立てかけてある。
その隣には、いつも自分が使う鎌があった。
畑で使う道具と、人を撃つ道具。
どちらも同じ家の壁に置かれていた。
ステパンはしばらく見ていた。
昨日まで、この家に銃はなかった。




