馬
「馬を出せ」
白軍側の騎兵は、村へ入ると家ごとに同じことを言った。
ステパンの前にいる男も馬から降りようとはしなかった。軍服は埃で白く、頬には何日も剃っていない髭が伸びている。乗っている馬の脇腹には、汗が乾いて塩のような跡が残っていた。
「使える馬を集める。軍に必要だ」
ステパンは自分の馬の首に手を置いた。朝から畑で働かせていたので、毛はまだ湿っている。
「これは畑の馬だ」
「見れば分かる」
「なら置いていけ。馬がなければ耕せん」
騎兵は村の家々を見回した。
「ここの馬は、みんな畑の馬だろう」
別の兵が馬から降り、口を開かせて歯を見た。前脚を撫で、背中を押し、最後に尻を軽く叩く。
「使える」
ステパンは手綱を短く持った。
「触るな」
兵が顔を上げた。
「何だ?」
「俺の馬だ」
「今から軍の馬だ」
ステパンの指が手綱へ食い込んだ。
少し後ろにいたパーヴェルが一歩出た。
「勝手に決めるのか」
ステパンは弟を見た。
騎兵も見た。
「何か言ったか」
パーヴェルは一瞬だけ口を閉じたが、引かなかった。
「人の村に入ってきて、馬を持っていく。それで何を守ってるんだって言ったんだ」
「パーヴェル」
今度はステパンが止めた。
兄に名前を呼ばれ、パーヴェルは舌打ちして半歩下がった。
騎兵は鼻で息を吐いた。
「戦争をしている。馬が要る」
「俺は戦争なんかしてない」
ステパンが言うと、男は初めて彼をまともに見た。
「農夫か」
「そうだ」
「なら土地が要る。馬が要る。分かってる」
「分かってるなら置いていけ」
男は疲れたように首を振った。
「こっちも馬がなければ動けん」
「それは俺の知ったことじゃない」
後ろにいた兵が小銃を持ち直した。
その金属音だけで、ダーリヤが戸口から顔を上げた。
コーリャとアンナを家の後ろへ押しやり、自分はそこに残る。
「ステパン」
ステパンは振り向かなかった。
「馬を渡したら、秋はどうする」
「だから渡さん」
「違う」
ダーリヤの声は静かだった。
「あんたまでいなくなったら、誰が畑をやるの」
ステパンの手が止まった。
小銃を持った兵と、馬の手綱と、戸口に立つダーリヤを順に見た。
そのとき、道の向こうからミハイルが歩いてきた。畑仕事の途中らしく、シャツの袖を肘までまくり、額から汗を流している。
村の真ん中に並んだ騎兵と、ステパンの馬を見て、すぐ事情を察した。
「今度は馬か」
騎兵の一人が振り向いた。
「何だ」
「昨日は赤い連中が麦を持っていった。今日はあんたらが馬だ。明日は何を持っていくのかと思っただけだ」
「ミハイル」
ステパンが低く言った。
ミハイルは肩をすくめた。
「聞いただけだ」
騎兵はしばらく彼を睨んでいたが、相手にしなかった。
「手綱を放せ」
ステパンはまだ握っていた。
馬一頭のために撃たれるつもりはなかった。
そんなことは分かっている。
分かっているのに、指が開かなかった。
コーリャが戸口から父親を見ていた。
ステパンはそれに気づいた。
息子の前で、自分の馬を持っていかれる。
昨日は麦を守れなかった。
今日は馬を守れない。
そのことの方が、小銃より腹立たしかった。
「ステパン」
ダーリヤがもう一度呼んだ。
彼は手を開いた。
兵が手綱を取った。
殴られもしなかった。罵られもしなかった。
何も起きなかった。
だからこそ、ステパンには堪えた。
自分が手を放した。ただそれだけで、馬は他人のものになった。
兵が鞍を替えている間に、コーリャが父親の横まで来た。
「どこに連れていくの」
「知らん」
「いつ帰ってくる?」
ステパンは答えられなかった。
ダーリヤが代わりに言った。
「帰ってこないよ」
コーリャは母親を見た。
「どうして? うちの馬だよ」
誰も答えなかった。
騎兵たちは村からさらに数頭を集め、来たときより大きな馬の列を作って街道へ戻っていった。
ステパンの馬は途中で一度だけ立ち止まり、後ろを向いた。
コーリャが駆け出しかけた。
ダーリヤが肩をつかむ。
「駄目」
「呼べば戻るよ」
「呼ばないの」
「なんで?」
ダーリヤは遠ざかる馬を見たまま言った。
「戻ってきたら、また連れていかれるから」
馬の列が道の先へ消えると、最初に口を開いたのはパーヴェルだった。
「だから追い出さなきゃ駄目なんだ」
ミハイルが振り向いた。
「誰を」
「白軍だよ。決まってるだろ」
「昨日、麦を持っていった連中は?」
パーヴェルの顔から少しだけ勢いが消えた。
「あれは……軍と町に送るって話だった」
「今日の連中も軍に必要だって言ってたぞ」
「同じじゃない」
「俺には同じだ。村へ来て、人の物を勝手に持っていく」
「白軍を放っておいたら、もっとひどくなる」
「赤を放っておけば麦がなくなる」
「お前、何でも一緒にするなよ」
「旗の色で腹が膨れるなら分けてやる」
二人の声が少しずつ大きくなった。
ステパンは空になった馬小屋を見たまま言った。
「どっちでもいい」
パーヴェルが兄を見る。
「よくないだろ」
「白が正しくても、赤が正しくても、馬は戻らん」
「正しいかどうかの話じゃない。これからの話だよ」
「俺のこれからは、明日の畑だ」
パーヴェルは何か言い返そうとしたが、ダーリヤが先にミハイルへ向いた。
「ミハイル。あんたの牝馬、脚を痛めてたよね」
男三人が一斉に彼女を見た。
「まだ腫れてる」
「荷車なら?」
「軽ければ引ける。畑は長く使えん」
「明日、借りたい」
ステパンがようやく馬小屋から目を離した。
「借りん」
ダーリヤは夫を見た。
「刈った麦を畑に置いておくの?」
「俺が運ぶ」
「何往復するつもり?」
「パーヴェルもいる」
「冬の薪は?」
ステパンは黙った。
「春の耕しは、そのあと考える。今は刈った麦を濡らさないことが先」
ミハイルが小さく笑った。
「お前の家で一番話が早いのはダーリヤだな」
「黙れ」
「牝馬は貸す。代わりに冬までに屋根を見てくれ。西側から雨が入る」
ダーリヤはすぐうなずいた。
「それでいい」
ステパンはまだ納得していなかったが、断る理由を一つずつ潰されていることは分かった。
パーヴェルが兄の肩を軽く叩いた。
「革命で土地が増えて、ミハイルの馬で耕す。世の中、うまくできてるな」
「どこがだ」
「兄貴が怒ってるうちは大丈夫だ」
「何が大丈夫なんだ」
「知らん」
パーヴェルが笑った。
ミハイルも笑った。
ステパンは笑わなかったが、二人を追い払おうともしなかった。
しばらくしてパーヴェルが、騎兵の消えた街道を見ながら言った。
「俺はやっぱり、あいつらを追い出さなきゃ駄目だと思う」
さっきまでの冗談とは違う声だった。
ミハイルは壁に背を預けた。
「俺は赤も白も、村に来なきゃそれでいい」
「そんな都合よくいくかよ」
「だから腹が立つんだろ」
パーヴェルは兄を見た。
「兄貴は?」
ステパンは答える代わりに、空になった馬小屋の扉を閉めた。
「明日の朝、ミハイルの牝馬を借りる」
パーヴェルは呆れた顔をした。
「そういう話じゃないだろ」
「俺にはそういう話だ」
翌朝、ステパンはいつもの時間に目を覚ました。
体が先に動き、馬へ餌をやろうとして外へ出る。
空の馬小屋を見て、足が止まった。
昨日までそこにあった体温も、藁を踏む音も、鼻を鳴らす音もない。
やがてミハイルの牝馬を借りて畑へ出たが、脚をかばう馬に無理はさせられなかった。午前の半ばには休ませ、残りは人の手で運ぶことになった。
朝露の残る麦畑の向こうには、革命のあとで増えた土地が続いている。
昨日まで、その広さを見るたびに少し得をした気分になった。
今日は違った。
ステパンは畑を端から端まで見渡した。
革命で増えた土地を見て、彼は初めて、土地が広すぎると思った。




